転《ころ》がる嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん3 死の礎は生 入間人間《いるまひとま》 [#地付き]イラスト†左 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)嘘《うそ》つき |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)黒色|菓子《がし》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] [#ここから3字下げ]  嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん3 死の礎は生   もくじ [#地から5字上げ]18行 一章『ぼくとマユ式バレンタイン』[#地から5字上げ]45行 二章『我が家の妹さま。』[#地から5字上げ]760行 三章『とある家族の罪状目録』[#地から5字上げ]1622行 四章『嘘つき少年は笑わない。けれど、』[#地から5字上げ]2630行 五章『ぼくマユ』[#地から5字上げ]3412行  あとがき[#地から5字上げ]3571行 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#改ページ] 「あっしたはなーにっをこぉろそっかなー」 [#改ページ]  ……ぢんせいって難しい。人生違うから、僕らの進んでる道。 [#改ページ]  一章『ぼくとマユ式バレンタイン』 [#ここから3字下げ]  あれに、しよう。  そう決めたから、行動を開始する。  足取りは軽い。その他色々と軽々している。  だけど決意はちゃんとある。  頑張らないと、やらないと。  身体が出来るかはあやふややだと訴えても、心がそれをはね除けるから。  ……そして。  結末を思い浮かべると、ほくそ笑むことを防げなかったから。 [#改ページ]  今日は二月十四日だった。  朝方、マユの寝室《しんしつ》で何気なく携帯電話の液晶を眺めて、日付が大脳を刺激した。  付属してその日に宿る意味が引っ張り出される。  確か、男女がカカオ混じりの黒色|菓子《がし》を詰《つ》まらぬ物ですがと譲渡《じょうと》し合い、最終的にちぢくり合えるかどうかで勝敗を決する国民的競技に興じる日だったな。細部は嘘《うそ》だけど。  腰《こし》かけているベッドに後ろ手をつき、この部屋の借り主を視神経に捉《とら》えさせる。寝相《ねぞう》の悪い御園《みその》マユは、枕《まくら》を背中に敷《し》いて熟睡《じゅくすい》していた。僕の分と合わせて、二枚の布団《ふとん》に覆《おお》い被《かぶ》されている。カーテンを開け放した窓から差し込む陽光に背を向け、伸《の》び気味の髪《かみ》に悪癖《あくへき》をつけることを厭《いと》わないマユ。彼女の頭部からは既《すで》に包帯が取り除《のぞ》かれ、両手の指先も、傷の影《かげ》を残すだけとなっていた。かく言う僕の顔面や右足もめでたく黄色人種《おうしょくじんしゅ》に回帰し、入院していた際の傷害は完治と称《しょう》して差《さ》し支《つか》えなかった。もっとも、右足はまだ全力|疾走《しっそう》に耐《た》えうるような代物《しろもの》ではなく、リハビリ中だけど。閑話休題《かんわきゅうだい》。  再開したマユとの生活。同室の入院|患者《かんじゃ》という普通《ふつう》成分が蔓延《まんえん》していた病院暮らしとは異なり、マユ以外に介入物《かいにゅうぶつ》が存在しない空間。誘拐《ゆうかい》された小学生も省《はぶ》かれ、正真正銘《しょうしんしょうめい》の同棲《どうせい》。その所為《せい》か、毒……と表現するのも憚《はばか》られるけど、マユとの触《ふ》れ合《あ》いによって与《あた》えられ、僕に侵食《しんしょく》する『何か』の濃度《のうど》が最近になって跳《は》ね上がっている。僕らにとって病院の方が、普段の生活より奇異《きい》のない居場所に思えたのは気の所為だろうか。  次に、マユに対し、緩慢《かんまん》に思いを巡《めぐ》らせる。今日、マユはどういった行動に出るのだろう、と。まーちゃんがみーくんに対して、このような行事を見過ごすなどあり得ない。男子校に美人女教師(二十三|歳《さい》、日本史担当)が赴任《ふにん》してくる程度に起こり得ない。昨日までは目立った反応がないけど、当日に一人で御輿《みこし》を担《かつ》ぐ勢いで盛り上がる姿が予想できる。  けれど先代みーくんは甘味が弱点だったと今までの情報から推察《すいさつ》するので、或《ある》いは、着目するほどの出来事が生じない可能性もある。色繋《いろつな》がりで、鯖《さば》のみそ煮が食卓を彩《いろど》るだけかも知れない。その味がいいねと言えば鯖みそ記念日の一丁上がりである。嘘だけど。  ああでも、最近は甘みの控《ひか》えた、というよりなきに等しいやつもあるか。 「まあ、どうでもいいんだけどね……」  たかが食用の茶色い板切れ一つで、みーくんとまーちゃんの鎖国《さこく》的な絆《きずな》が温泉|発掘《はっくつ》ぐらい深まったりするわけないではないか。山吹色《やまぶきいろ》のお菓子《かし》なら展開を大きく揺《ゆ》らがすけどな。世の中、良かれ悪かれ、金で揺れないものはないのだよ。嘘だけど。  俗世《ぞくせ》の一切《いっさい》と切り離《はな》された感情に従う女の子が、身近にいるものな。  そういえば去年は一つ、茶褐色《ちゃかっしょく》の延べ板を貰《もら》ったな。恋日《こいび》先生が、診療《しんりょう》記念日とか不明瞭《ふめいりょう》な理由で僕の家を訪《おとず》れて置いていった。今年は、マユがいるという事情を知ってる先生から頂戴《ちょうだい》するはずもないか。面《つら》を見せるなと絶縁《ぜつえん》もされてるし。  もう一度|携帯《けいたい》電話を、今度は時刻を確認《かくにん》する。  後、十分もすれば、マユを起床《きしょう》させて身支度《みじたく》を整え(大半は僕が行う)、学舎へ勉学を勤《いそ》しみに行くふりをしなければいけない。非日常を平常にする必要は何処《どこ》にもないのだから、学校生活は大事であり、利便性がある。  首筋が疲労《ひろう》と些末《さまつ》な痛みを覚え出したので、正面を向くことにした。窓から見下ろせる新築の建て売り住宅は、昨晩に降った雪で薄化粧《うすげしょう》されている。新年が明けてから、都合《つごう》八度目の雪景色《ゆきげしき》。子供の頃《ころ》は、雪が降るだけで頭の螺子《ねじ》が抜《ぬ》ける純真な子供だったよなあ、しみじみ。  ……嘘《うそ》だったかなぁ? どうも幼少期は、自身に関する記憶《きおく》の真偽《しんぎ》が曖昧《あいまい》だ。魔女《まじょ》の格好したおばさんが練って美味《おい》しいと勧《すす》める菓子《かし》ぐらい混じり合い、境界線を失ってる。  嘘《うそ》をつきすぎて、狼《おおかみ》に脳味噌《のうみそ》を齧《かじ》られでもしたのかな。  過去に心を集団包囲される苦痛を取り除《のぞ》くため、軽い腰《こし》と重い頭を上げる。  早めではあるけど、五分前行動が今年の抱負《ほうふ》だからね。今決めたけど。  反転してマユに向き直り、ここで「まーちゃん起きて起きて」「みーくんちゅっちゅっちゅ」とか寝惚《ねぼ》けた真似《まね》してる余裕《よゆう》は流石《さすが》にないので、布団《ふとん》に手をかけた。  布団を引《ひ》っ剥《ぺ》がす。マユを担《かつ》いで洗面所へ連行。思春期の中学生ぐらい尖《とが》ってる冷水で洗顔。ここでマユの意識がささやかに芽生える。タオルで顔を拭《ふ》いた後、マユの頬《ほお》を軽く叩《たに》いて目覚めを促《うなが》し、寝癖《ねぐせ》を直すよう指示。寝惚け眼《まなこ》のマユと一旦離《いったんはな》れ、制服の準備。使用されない学生|鞄《かばん》も用意。後はマユがリビングに来るまで、テレビ観賞新聞を取っていない為《ため》、ニュースで世間の情報収集。NHK(日本引きこもり協会ではない方)を受信せず、地元の華《はな》と経済性がないローカル番組を見る。小学生の遠足先に御用達《ごようたし》である畜産《ちくさん》センターに新たな動物が追加されたという内容の後、僕が注目している報道が始まった。一ヶ月半ほど前から疎《まば》らに発生している、動物の殺害事件。犬、猫《ねこ》、養護学校の鶏《にわとり》、今回は小学校の飼育《しいく》小屋に住むアヒル。  因果も、関連も、動機も、犯人も目下不明の事件。  初めて知り得た時から、その事柄《ことがら》は僕に、苦い回顧《かいこ》で奥歯を疼《うず》かせる。 「………………………………………」  明確に異なる要素はあるけれど。だけど、想起せずにはいられない。  僕の、妹のことを。  野山に混じりて小動物の命を取りつつ、食事のことに使いけり。  そんな女の子だったあいつを。  ……まさか、と割り切ってはいるけど。 「おはよー……」  後頭部にそびえていた妖怪《ようかい》アンテナが重力に逆らうのを諦念《ていねん》し、標準の髪型《かみがた》を整えたマユが摺《す》り足で現れ、近寄ってきた。擦《こず》る両目からは、涙《なみだ》が滲《にじ》んでいる。 「おはよ。はい着替《きが》えて」 「んー……」とマユが億劫《おっくう》な手つきでパジャマを脱《ぬ》ぎ散らかし、のたくたと制服を手に取る。その間に、僕はテレビの電源を切って彼女の朝食を準備することにした。牛乳をコップ一杯飲むだけの、所謂《いわゆる》十秒チャージも容易な食事だけど。『まーちゃんは牛乳ちゃんと飲んで、みーくんよりおっきくなるの』と宣言し、毎日|怠《おこた》らないその姿勢に、僕は慶賀《けいが》の念をご町内に知らしめることで応《こた》えたい。べらぼうに嘘《うそ》だけど。  コップを持って居間に帰る。マユも丁度、靴下《くつした》を履《は》き終えて制服を着こなしていた。その正面に立ち、マユの制服の裾《すそ》を直し、髪《かみ》を一度指で梳《す》く。まだ半乾《はんかわ》きで、生暖かい。  コップに表面張力を楽しめるほど注いだ牛乳をマユが飲み千し、それから並んで外へ出た。  欠伸《あくび》を噛《か》み殺し、一筋の涙を頬《ほお》に伝わせ、マユは正面を向く。表情が硬化《こうか》する。  唇《くちびる》は機嫌《きげん》を一切関与《いっさいかんよ》させず、自然体に引き締《し》まる。眼球は余分な動作を失う。景色《けしき》に目が反応することも、電線に飛来する小鳥に視線をやることもない。生物の無意識下に生まれる動作が欠如《けつじょ》している少女。けれど、少女って何歳《なんさい》に対してまで表現に用いていいんだろうな、とふとした疑問が浮かんだ。嘘なんですけどね。……おや?  僕の解説をなかったことにするかのように、マユの目玉が挙動した。脇《わき》を通過した自転車を目で追っている。特に、車輪に注視している様子だ。 「自転車、どうかした?」  僕が尋《たず》ねると、「何でもない」とまた目線を固定してしまう。何だったんだ?  マユが手を握《にぎ》りしめてくる。僕の指の間に五指が滑《すべ》り込み、絡《から》め取ってくる。熟《う》れた熱が手の平を侵食《しんしょく》し、溶解《ようかい》と融合《ゆうこう》の錯覚《さっかく》を簡素に引き起こした。 「今日は何の日か知ってる?」  僕はふと思い立ち、尋ねてみた。  マユは僕という生物を見上げ、端正《たんせい》な唇を薄《うす》く開閉する。 「わたしのお母さんの誕生日とバレンタインデー」  気負い一つない返答。  あれだけ眠《ねむ》りほうけて、日付の感覚を失っていないことに第一の感心。  そして、ふうん。  記念日樹立の方向かな、これは。  放課後の喧燥《けんそう》が蔓延《まんえん》する教室。  同級生であり女子の美化委員である枇杷島八事《びわしまやごと》が僕の席を訪《おとず》れたことにより、二月十四日だけでなく、今日は第二水曜日でもあったことを察した。 「行きましょ、せんぱい」  同学年に朗《ほが》らかな調子で先輩《せんぱい》呼ばわりされると、留年生徒の辛酸《しんさん》を我が身として受け止める羽目になる。現在所属している部活を退部し、留年部でも創設したくなる気分だ。実際、小学校の時点で疑似《ぎじ》留年を体験した身分だしな。別に不登校を希望していたわけじゃない。両親の教育に対する取り組みの押しつけからなんだけど、まあ今となってはどうでもいいか。  それはそれとして、毎月、第二水曜日は各委員会の集会日となっている。僕は入学当初から、率先《そっせん》して立候補の手を伸《の》ばしたわけでもないのに、余り物の美化委員に従事している。これで丸二年間の委員経験を積んできたわけだけど、発言権は皆無《かいむ》に等しい。不熱心な態度が、言葉ではなく心で皆《みな》さんに伝わっているのだろう。 「どしたんですか?」  枇杷島《びわしま》が後ろに手を組み、僕の表情を覗《のぞ》き込んでくる。マユが同級生に用いる、茨《いばら》と凍結《とうけつ》の丁寧語《ていねいご》と異なり、枇杷島の口調は凹凸《おうとつ》が目立たない。けど、存在しないわけじゃない。  僕は「うん」と生返事《なまへんじ》で間を取って、教室の左|側《がわ》、マユの席に目線を動かす。美麗《びれい》なCを描《えが》く姿勢で机に伏《ふ》している御園《みその》さんは、四時限から身動《みじろ》ぎ一つ見受けられない。震度《しんど》五以上の地震がこの場で発生しても、マユの睡眠《すいみん》は障害《しょうがい》と判断しないだろう。ああ、そう考えれば教室にマユを置き去りにして委員会に出席するのは危険じゃないか、と大変に心配なさった。嘘《うそ》だと付け加える前に、そもそも大型地震は何処《どこ》で見舞《ま》われようと危機に違《ちが》いないと思い直して席を立った。ノートを一枚破り取り、マユ宛《あて》にメモを記載《きさい》する。無駄《むだ》だと確信しながら、委員会に出ていること、席で少し待っていることを書き記した。そんな指示をマユが厳守するほど世の中甘くないけど。僕のいる場所を探し当て、威風堂々《いふうどうどう》に乱入してくる姿が目に浮かぶ。  マユの席に近寄り、机と肘《ひじ》の間にノートの切《き》れ端《はし》を挟《はさ》む。それから、先に教室の入り口へ移動し、僕を待つ枇杷島の下《もと》へ向かった。枇杷島は、僕の一連の行いを一部始終|眺《なが》め、酷薄《こくはく》に微笑《ほほえ》んでいる。「お待たせ」と軽く声をかけ、僕らは並行して廊《ろうか》下を歩き出した。  日光が低気温に打ち負けている、冬日が席巻《せっけん》している廊下は、留《とど》まってお喋《しゃべ》りに興じているような光景と無縁《むえん》である。寒気に対する愚痴《ぐち》を交換《こうかん》しながら、部活や帰宅に散っていく学生の後ろ姿が観賞できるぐらいだ。 「せんぱい、チョコ貰《もら》えました?」  枇杷島が、当《あ》たり障《さわ》りのない世間話を振《ふ》ってくる。僕は「不作だよ」と簡素に返答した。 「そですか。ま、でもせんぱいは仕方ないですよね」  取り方|次第《しだい》で意味倉の大小が暮の言い分だな。枇杷島はうんうん、と一人で顎《あご》を引いて納得《なっとく》している。その度《たび》、色素《しきそ》が淡々《たんたん》と素《そ》っ気ない髪《かみ》の・左右への微震《びしん》とまる。それから、蛍光灯《けいこうとう》の電源が入ったように表情が暖色を帯びた。 「あ、私からは期待しないで下さいね。せんぱいはそこまで嫌《きら》いじゃないですけど、将来性がないから」  和《なご》やかな調子で言い渡《わた》された。その事実に反論する気概《きがい》は湧《わ》かず、むしろ、将来性なる要素まで考慮《こうりょ》して人選している女子高生の頭脳に関心を覚えかけた。  廊下《ろうか》の、階段とは正反対の方向にある突《つ》き当たり。そこを右折した先の渡り廊下を抜《ぬ》けて、別の校舎の教室を目指す。僕らの教室がある新校舎と対比するように、木製の自己主張が強い校舎に委員会用の空間は設定されている。文化系の部活も旧校舎に根城を構え、専用グラウンドまで用意された野球部の掛《か》け声《ごえ》を背景に細々と活動している。 「てもせんぱいは良いじゃないですか、御園先輩《みそのせんぱい》から貰《もら》えるのは確定してるもの。私の弟は男子校行ってるんですけど、毎年|酸《す》っぱい盛り上がり方してるらしいですよ」  親族の好まざる現状(好みだったら怖《こわ》い)を快活に笑い話とする枇杷島《びわしま》。僕はそれを耳にして、後二、三言は会話しておくか、と曖昧《あいまい》に目標を立てた。然《さ》したる意味はない。 「枇杷島はチョコ貰った?」  同級生は滑《すべ》りの良い床《ゆか》を満喫《まんきつ》するように右足を滑走《かっそう》させて体勢を崩《くず》した。俗《ぞく》にいう、ずっこけたという反応だ。 「質問の意図が全然分かんねーですけど、侮辱《ぶじょく》されてます?」 「単なる社交辞令だよ、聞かれたから聞き返したんだ」  それに、男→男よりは女→女の方が贈与《ぞうよ》経路に見栄《みば》えがするだろうし。 「じゃあ貰う相手はさておき、渡す相手はいるのかな?」  今度は左足が勇み足を踏《ふ》んで宙返りをこなした。嘘《うそ》だけど。呆《あき》れを多量に含《ふく》んだ流し目で睨《ね》め付けられただけだ。 「せんぱいは……馬鹿《ばか》を装《よそお》ってる感じが気味悪いです。嫌《きら》いじゃないけど、絶対に好きになれません」  人を過大評価に罵倒《ばとう》してから、枇杷島は競歩の速度で距離《きょり》を取る。  僕は枇杷島の希望|成就《じょうじゅ》に協力する為《ため》、廊下の中心で立ち止まった。理由は嘘だ。  けど、それは買《か》い被《かぶ》りだよなぁ。装えるほど、賢人《けんじん》の愚者《ぐじゃ》に至ってるわけがないし。 「……やれやれだぜ……と言う場面なのかな」  人付き合いの難儀《なんぎ》に凝《こ》った肩《かた》を大きく回し、息を吐《は》いた。  そして文化委員という大層な名称《めいしょう》を掲《かか》げる実質図書委員会の議論を横目で一瞥《いちぺつ》してから、肩で風を薙《な》ぐ枇杷島の背中を追った。  追いつけない程度に歩こう、と決めながら。  これは、時に論議しぶつかり合い、時に戦いの刃《やいば》を向けて衝突《しょうとつ》しながら、美化委員としての在り方を追い求めた少年少女の物語である。  などと嘘っぱちの誇大広告《こだいこうこく》で孤独《こどく》に煽《あお》りながら、枇杷島が開けた教室の戸を僕もくぐると、既《すで》に委員の七割は着席していた。ただ、委員長と副委員長のバカップルの姿がまだ、朽《く》ちかけている教壇《きょうだん》にない為《ため》、各自で組み合わせを作成し、談話に勤《いそ》しんでいる。埃《ほこり》が蔓延《まんえん》し、暗色のカーテンが不格好に窓《まど》の端《はし》を覆《おお》う室内は、不良が喫煙室《きつえんしつ》として使用出来そうな、不健全と退廃《たいはい》の肌触《はだざわ》りに満ちていた。  教室に一歩踏《ふ》み込むと、視線が前方の広範囲《こうはんい》から収束してくる。その、学校という環境《かんきょう》では通過儀礼《つうかぎれい》みたいに訪《おとず》れる感覚が僕は好きになれない。部屋に出入りする度《たび》、薄膜《うすまく》を肌《はだ》に付着させる必要があるみたいで、どうも駄目《だめ》だ。  頬《ほお》を掻《か》きながら教壇の前を通過し、三列に並べられた机の中央、前から二番目の席に座る。机は二つ隣接《りんせつ》されていて、僕の隣《となり》には枇杷島《びわしま》が腰《こし》かけて、頬杖《ほおづえ》をついている。規則ではないけど、クラスごとに整理|整頓《せいとん》を心がけて席順を決定するのが、美化委員の勤めである。どうでもいいけど。  僕が椅子《す》を引くと枇杷島は一瞥《いちべつ》し、尻《しり》を下ろせばそっぽを向いた。分かりやすく怒《おこ》っている。先程《さきほど》のやり取りは、尾を引くどころか腹身の脂《あぶら》が乗っている状態だ。うむ、意味不明。  周囲の歓談《かんだん》から身を潜《ひそ》めるように、僕らは言論|封殺《ふうさつ》して黒板と向き合い、時間を潰《つぶ》した。  そして委員長とそのつがいが遅刻《ちこく》気味に現れたのは、十分ほど経《た》ってからだった。 「いや、悪い悪い。こいつを貰《もら》うのに手間がかかってね」  鼻の穴から『爽《さわ》やか』という文字が印刷されてきそうなぐらい、飛び出せ青春な笑顔《えがお》で右手の戦利品を見せびらかす委員長。彼女である副委員長から渡《わた》された、パイナップルジャンケンのチョキで勝利した際の品であることは二人の様子から理解できるが、授与式《じゅよしき》でも開いてたのかこいつらは。ほら見ろ、枇杷島も眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、きつく目を閉じているじゃないか。これは僕の所為《せい》かも知れないけどな。  僕らの感慨《かんがい》を無視した足取りで、委員長である宗田義人《そうだよしひと》が教壇に上がり、副委員長である一宮河名《いちみうあかわな》が隣に付き従うように立つ。一宮は、埃と酸素を同時に吸い込む環境を毛嫌《けぎら》いするように、口元を小さなタオルで覆っている。  そんな一宮河名を赤の他人の主観で評すれば、淑女《しゅくじょ》と貴婦人を合体させて分離《ぶんり》に失敗した女性。六年前はお嬢様《じょうさま》な小学生として衆目《しゅうもく》に留まり、二十年後は河名の部屋とか創設しそうだ。  義人の方は、清涼《せいりょう》である容姿が女子に大人気である。以上、解説終了《しゅうりょう》。後は昔々、小学校三年生あたりまでは僕と集団登校する仲だった。今は、下駄箱《げたばこ》で挨拶《あいさつ》も交《か》わさない。 「はい注目。注目ね」  義人が教壇を二度|叩《たた》き、包みを掲《かか》げる。何に注目させたいんだこいつ。 「今日はですね、街の殺犬、うん殺猫《さつびょう》でもいいや。その事件に対して学校側《がわ》でも何か呼びかけと注意をする必要があるってことになりました。で、これは俺が貰ったチョコレートなんですけどね。はい、じゃあ後はよろしく」  締《し》まりのない物腰《ものごし》で簡単にあらましを説明した義人《よしひと》が、場所を一宮《いちみや》に譲《ゆず》る。進行役は大体、一宮が担《にな》い手《て》となる。威圧《いあつ》の含《ふく》まれた口調だから、他《ほか》のお喋《しゃべ》り防止にはそこそこの効果がある為《ため》だろう。付《つ》け髪《がみ》しているのではと勘繰《かんぐ》れるほど髪量の多い頭を一振《ひとふ》りし、一宮が教壇《きょうだん》に上がる。 「現在、この街では動物が無益に殺傷される事件が頻発《ひんぱつ》しています。被害《ひがい》を受けた人間の中には我が校の生徒も含まれており、黙視《もくし》していられないと生徒会が提案をしました」  文章を一区切りすることに、斜《なな》め後方の義人へ確認《かくにん》するように振り向く一宮。彼らは校内でも指折りのバカッ(以下略)であり、僕らも負けてられないな、と対抗心《たいこうしん》が発憤《はっぷん》しなかった。  それはさておき、目線を横にやると、枇杷島《びわしま》が開眼した割には細目で、一宮を凝視《ぎょうし》していた。彼女の視線に内在する思考を読み取れば、バカップルに付き合って時間を浪費《ろうひ》させられるのは、一種の犯罪だよなぁといったところか。あながち間違《まちが》いではない気もする。 「しかし、我が校の生徒会に従うほど愚行《ぐこう》を犯す気は、美化委員会に毛頭ありません」  一宮の宣言に、ほぼ全員が『まあねぇ』と曖昧《あいまい》な笑いを浮かべる。僕は笑顔《えがお》を咄嵯《とっさ》に用意出来なかったので、『そうかもねぇ』と何食わぬ顔で一考した。  この学校の生徒会は、マユとは異なる意味合いで日本語の通じない人材が集《つど》っている。  生徒会長の菅原《すがわら》は、殺人|癖《へき》以外は至極《しごく》真っ当な部類に属していた。自己主張の強さはあったが独特の人望と、纏《まと》め役《やく》に徹《てっ》することの出来る手腕《しゅわん》もあった。あいつがいなくなってから、むしろ生徒会は暴走が絶好調といえる。生徒会選挙で、真面目《まじめ》な人材が当選しない現状に問題の根元があるのかも知れないけど。会話が成立するのは、書記の伏見《ふしみ》ぐらいか。 「私達がすべきことは問題の解決ではなく、後処理です。事件の影響《えいきょう》で、街は荒《すさ》みの兆候《ちょうこう》が見《み》え隠《かく》れしています。動物の死骸《しがい》で汚《よご》れる道路を更《さら》に積み重ねていく。それを予防する為《ため》、校内だけでなく、町内の清掃活動まで視野を広げた活動を行う。以上が美化委員会の方針の骨子《こっし》です……」  一宮が控《ひか》えめな身振り手振りを交え、副委員長の務めを相応に果たし続ける。その内容を僕の右|隣《どなり》の生徒が記録し、後のプリント作成の資料となる。そして配布されたプリントは大半の生徒が目を通さず、丸めて紙屑扱《かみくずあつか》いされていく。  僕は一宮の話を聞き流しながら、朝方のニュースを思い返すことを呼び水として、事件の概要《がいよう》を整理していた。  動物限定で殺害される事件。  新年の特番が一通り終了《しゅうりしょう》し、冬休みを学生が謳歌《おうか》し終えた頃《ころ》に最初の事件が発生した。確か犬で、名前はメリーが宇宙人の実験に付き合わされ、無惨《むざん》に失敗したような姿で発見された。ハンバーグの材料に出来るほど四肢《しし》を砕かれ死屍《しし》を晒《さら》したメリーは、発見者である、登校中の小学生に多大な心傷を与《あた》えた、と剣道部の部長を暫定《ざんてい》として引き継《つ》いだ金子《かねこ》が掃除《そうじ》中の雑談で語っていた。金子の弟が第一発見者らしい。犠牲《ぎせい》になったのも金子家の飼《か》い犬《いぬ》らしい。  その後も、野良猫《のらねこ》と飼《か》い犬《いぬ》を主軸《しゅじく》に、時折、イタチや狸、飼育小屋のアヒルといった珍種《ちんしゅ》を巻き込みながら殺傷事件は頻発《ひんぱつ》している。異常者が第二、或《ある》いは第三の再来として、街の人間は深刻に受け止めている。ただ警察は、人に被害《ひがい》が出ていない為《ため》に本腰《ほんごし》を上げはしない。 「……これは風紀委員とも関連しますが、最近、深夜に市街を俳徊《はいかい》する高校生が増加の傾向にあります。それの是非《ぜひ》については言及しませんが、その際にコンビニ等で購入《こうにゅう》した食品類のゴミを畑や川に投棄《とうき》してしまう人が多く……」  菅原《すがわら》の起こした殺人事件とは異なり、死骸《しがい》の状態はほぼ統一されている。徹底《てってい》的に粉砕《ふんさい》し、一見ではトマトケチャップで和《あ》えた嘔吐物《おうとぶつ》のように平べったく加工処理するのが今回の変質者 の趣向《しゅこう》だ。これがまた、夏でもないのに、人々の肝《きも》を不必要に冷やしている。  その猟奇性《りょうきせい》の影響は、病院で発見された死体こと、名和三秋《なわみつあき》の事件が波立たせた噂《うわさ》やざわつきを一挙に塗《ぬ》り替《か》えるほどだった。そういえば、長瀬透《ながせとおる》は学校で顔を合わせても、相手が脱兎《だっと》に早変わりして挨拶《あいさつ》することも叶《かな》わない。妹の一樹《いつき》の方は、全く音沙汰《おとさた》を聞く機会がない。祖父の捨て身と僕の負傷が実を結び、蚊《か》も殺せない子という迷彩《めいさい》がこれからの人生において効果を果たすことを祈《いの》るばかりだ。何を対象に祈ればいいのか見当もつかないけど。  本題に立ち返る。  今回はまーちゃんもみーくんも関与《かんよ》していないはずだ。特にまーちゃん、彼女は断言出来る。マユは退院してからの二ヶ月弱、一人で外出した回数が両手の指で数えるまでもないからだ。買い物も僕が付いて回ったし、ベッドの中も一緒《いっしょ》、火の中水の中も、僕が望めばマユは同伴《どうはん》するだろう。趣旨《しゅし》は何やら変わってるけど、そういうことだ。  だから大手を振《ふ》って『みーいーくん、あーそーぼー』『まーあーちゃん、あっそびーまーしょー』してればいいわけなんだけど。  ……だけど、どうしても。  僕はそこに、妹の影《かげ》を重ねてしまう。 「…………………………………」耳鳴りが強まる。右の耳を、緩《ゆる》く押さえる。  腹違《はらちが》いの妹。人形みたいと、幼稚園《ようちえん》の先生と同年代の子供から評されていた。ただし、髪の伸《の》びる日本人形が比喩《ひゆ》に用いられていることは明白な、へっぴり腰《ごし》で。妹は、同い年の少年少女から疎外《そがい》されているのではなく、畏怖《いふ》されていた。暴力言語が堪能で、躊躇《ためら》わずひけらかす性格だったのも厄介者扱《やっかいものあつか》いされる要因だった。  そんな妹に、僕は『働《はたら》き蟻《あり》』と命名されていた。その三文字から読み取れる明瞭《めいりょう》な事実は、血が半分ほど繋《つな》がった少女が僕を人間扱いしていないという意識の表れだ。当時のボケナスだった僕はそれに大した違和《いわ》感を覚えなかったのだから、空っぽの頭に夢(妄想《もうそう》)とか正月のおせちの残りとか詰《つ》まっていたとしか思えない。妹思いだったわけでは決してない。マジでだ。  過去の僕に対する憤《いきどお》りはさておき、妹は働き蟻を酷使《こくし》した。彼女の狩《か》り場《ば》である山まで、自転車をこいで送迎《そうげい》もした。雪の日にはかまくら制作を半日がかりで、一人で成し遂《と》げたりもした。その中で特に利用回数が多かったのは、蜜柑《みかん》の処理だ。妹は蜜柑だけ摂取《せっしゅ》していれば存命可能な生物で、肌《はだ》も心なしか黄色だった。僕は妹に命令されて蜜柑の皮を剥《む》き、白い繊維《せんい》を全《すべ》て取り除《のぞ》く役目を請《う》け負わされた。僅《わず》かでも残っていれば、その蜜柑は飛び道具に利用された。  また妹は悪食《あくじき》で、色々な物を味見したがる性癖《せいへき》を持っていた。  僕と一緒《いっしょ》に出かけた七夕祭りで掬《すく》った金魚を、翌日に焼き魚に仕立て上げて咀嚼《そしゃく》し、『生臭いし泥《どろ》臭い』と評していた。近所(百メートル走を最低三回は楽しめる距離《きょり》にあるご近所さん)の柴犬《しばいぬ》を捕獲《ほかく》、解体し、身肉を削《けず》り取って焼肉にしたこともある。その後、犯人であることが発覚すると、僕の親父《おやじ》に殺すことを前提とする勢いで、体罰《たいばつ》と嗜好《しこう》を満たす為《ため》に殴《なぐ》られていた。当時の心|優《やさ》しい人間の子である僕(先程《さきほど》までの批評は無視)は妹を庇《かば》うという健気《けなげ》な行為《こうい》に打って出て、『あべし』とか呟《つぶや》きそうなほど顔面をひしゃげさせられた。親父が運動の汗《あせ》を流しに風呂《ふろ》場へ去った後、何故《なぜ》か妹にも背中を蹴《け》られた。踏《ふ》んだり蹴ったりという言葉を初使用した日の、切ないおもひでがぽろぽろこぼれ落ち、心の水面に浮かぶ。最後の一節は嘘《いそ》だけど。  で、そんな妹ではあったけど自分の母親に対しては猫《ねこ》を被《かぶ》っていた。母親の前では蝋細工《ろうざいく》の無味無臭《むみむしゅう》表情は雪解け水の如《ごと》く溶《と》け去り、おか−さんおかーさんと服の裾《すそ》を引っ張ていた。僕が一度も兄呼ばわりされなかったことを含《ふく》めて、自分の家族は母親だけ、という認識《にんしき》だったのだろう。恐《おそ》らく、それは何も間違《まちが》ってはいなかった。  そして妹は、小学校にも入らないうちに行方《ゆくえ》知れずとなってしまった。野山で犬や狸《たぬき》を殺戮《さつりく》する遊戯《ゆうぎ》に熱中していた妹は、その日曜日も普段通りに外出し、帰ってこなかった。送迎《そうげい》役である僕は麓《ふもと》で待っていたし、夕方が過ぎ去りかけた頃《ころ》になってからは山中を探し回ったけど、結局、夜の帳《とばり》が下りた頃に大急ぎで帰宅した。妹の母親にすぐ報告し、明け方を待ってから捜索《そうさく》活動を開始したけれど、妹の生存も死体も発見は叶《かな》わなかった。  妹の母親は泣いていた気もするし、溜息《ためいき》を吐《つ》いた気もした。  親父は悔《くや》しがり、渋《しぶ》い顔となっていた。苛《いじ》め足りなかった、といった心境か。  兄は、天国で話し相手が出来て嬉《うれ》しがった。嘘《うそ》だけど。あの人は本以上に優《すぐ》れた友達が存在しないと強固に信心していたし、妹に興味を持つそぶりがなかったから、顔さえ記憶《きおく》していなかったかも知れない。逆もまた然《しか》り。  そして僕は、何を考えていたのだろう。  思い出せないほど、それが日常の一コマに過ぎなかったのか。或《ある》いは記憶に障害《しょうがい》があるのか。  頭皮を掻《か》き毟《むし》れば多少は湧いてくる可能性があるけど、もう精神科に恋日先生はいない。積極的に世話になる心は生まれてこない。まあ、僕のことは別にいい。  妹の素性《すじょう》、性格。それを踏《ふ》まえて、今回の事件だ。  妹が野犬に育てられて立派に成長していたと主張するつもりはない。  ……だけど、誰《だれ》も妹の死亡確認《かくにん》を正確に行っていない。  それはどうしても、「目が飛んでますよ」  冷めた指摘《してき》が冷水の代わりとなって、意識に芯《しん》を通す。視点が定まり、物体の輪郭《りんかく》が甦《よみがえ》る。 「目を開いたまま居眠《いねむ》りする癖《くせ》でもあるんですか?」  枇杷島《びわしま》が、ジト目で嫌味《いやみ》を口にする。ただ、その声は一宮《いちみや》の委員会活動に配慮《はいりょ》し、潜《ひそ》められている。僕は「いや、」と軽い否定を織り交ぜて、 「ちょっと絵空事《えそらごと》を空想していたんだよ」 「でしょうね。それで考え事してなかったら、ただの危ない人です」  ズケズケと、悪意を放ってくる。  だけど、真正面から僕を嫌悪《けんお》する人は意外に貴重だった。  八年前の誘拐《ゆうかい》、監禁《かんきん》事件。  僕は世間ではその被害者《ひがいしゃ》というより、犯罪者の血縁《けつえん》、息子《むすこ》と捉《とら》えられてる割合の方が高いのだから。菅原やマユと異なる意味合いで、腫れ物扱いされるわけだ。 「なに考えてたんですか?」  若干《じゃっかん》、枇杷島の態度が和《やわ》らぐ。感情の下降も多少は回復したのか、目つきが良質化する。 「さっき一宮が話してたこと」  今は、資源の尊さを大袈裟《おおげさ》な仕草込みで訴《うった》えている。 「ワンちゃんと猫《ねこ》ちゃんの殺されてるやつですか?」  犬だけ親しみの籠《こ》もった呼び方で優遇《ゆうぐう》されていた。猫の場合はみーちゃんが適当かな、と猫好きの優遇について仮想した。 「うん、そんなところ。枇杷島は思うところとかある?」 「一刻も早く犯行を止《や》めさせるか、捕《つか》まえてしまうべきですよ」  枇杷島は間髪入《かんぱつい》れずに言い切る。その姿勢に、ほんのりと興味を持った。 「自宅に犬とか住んでる?」 「そういう動機じゃないんです。簡単に言えば、世界の平和を守る為《ため》です」  そいつぁすげーや、まずは頭の平和を守れよ。  真顔を崩《くず》さない枇杷島は、更《さら》に言葉を紡《つむ》ぐ。 「だって、危険じゃないですか。いつ人間が標的に変わるか分かったものじゃないし」 「ああ、まぁね……」人間も動物の一種だからね。  けどさ、この片田舎《かたいなか》から全世界に発信されるほどの大事件とは思い難《がた》いよ、流石《さすが》に。昨今の若者は視野を広く持ちすぎじゃないか? と先輩《せんぱい》は不安を募《つの》らせる。 「危ない人間は、街から掃除《そうじ》されればいいんです」  僕を直視しながら愚痴《ぐち》った。僕は真摯《しんし》に見つめ返し、美化委員としての意識の高潔さに感動しただけでなく、枇杷島は天職を務めている、と見え隠れする運命の采配《さいはい》に納得《なっとく》した。嘘だけど、枇杷島《びわしま》は目を逸《そ》らし、そのあたりでようやく、長々と続いていた耳鳴りが止《や》んだ。  まさか、僕を疑惑《ぎわく》視してるわけじゃないよな、この僕を。そんなのありきたりが過ぎる。  それに誇張《こちょう》はあっても、今の危険に対する意識は住民の代表格とも言える。  そして犯人からすれば、枇杷島の結論が危険思想なんだよなぁ。  ほんと、物事は見方|次第《しだい》だね。 「そこの貴方達《あなたたち》、先程《さきほど》から唇《くちびる》ばかりが蠢《うごめ》いていますが、鼓膜《こまく》は揺《ゆ》らいでいますか?」  一宮《いちみや》が威圧《いあつ》的に僕らを注意する。それに対し、「ええ、はい」と優等生に返答した。  色々と、嘘《うそ》だけど。  宗田《そうだ》委員長の弛緩《しかん》した閉会の挨拶《あいさつ》で委員会《いいんかい》が終了《しゅうりょう》し、気持ちの早足で教室に戻った。  マユは未《いま》だ机と触《ふ》れ合っているのかなと想像しながら教室の扉を開くと、そこには見慣れない景色《けしき》が広がっていた。  夕暮れで、ひりつく橙色《だいだいいろ》に染まった教室。マユは上半身を起こし、見知らぬ男子と向き合っていたではないか。寝起《ねお》きの所為《せい》か、目つきはやぶにらみとなっていたけど、男子の方は笑顔《えがお》で話しかけているではないか。男子はこれまた、鼻水が清涼剤《せいりょうざい》に使用できそうなあっさりめの容姿をしているではないか。嘘《うそ》が一つも含《ふく》まれてない、けしからん。  珍《めずら》しいなぁと思い何だありゃあと田舎臭《いなかくさ》く胡乱《うろん》げになり、最後はてぇへんだてぇへんだと江戸っ子に落ち着いた。冗談《じょうだん》はさておき、お取り込み中のようなので盛大に乱入してみるか、と行動に出ようとしたその時、マユが僕に気づいた。それから即座《そくざ》に鞄《かばん》を掴《つか》み、男子を無視して駆《か》け寄ってくる。額や眉間《みけん》に赤く残る腕《うで》の跡《あと》や、跳《は》ね上がった前髪《まえがみ》が能面顔とアンバランスで、味がある。 「何処《どこ》行ってたの?」  平坦《へいたん》な調子に詰問《きつもん》してくる。メモを残しておいたはずなんだけど、信用ないのな。 「委員会だよ。取《と》り敢《あ》えず、帰ろうか」  小さく頷《うなず》くマユをその場に待たせ、僕は自分の机に鞄を取りに向かう。その道中、取り残された男子と目線がかち合い、微笑《ほほえ》まれた。鳥肌《とりはだ》が総出演しそうで、対応に困る。仲良くなれそうもない気がした。夕焼けが目に染みたことにして、無反応で目を逸《そ》らす。「……ん?」  鞄の上には、手帳サイズの白紙が一枚載《の》っていた。僕がマユに用意したのとは別だ。拾い上げて裏面の『アケチ』なる謎《なぞ》の三文字まで確認《かくにん》してから、そこで該当者《がいとうしゃ》が浮かび上がった。伏見柚々《ふしみゆゆ》だ。あいつも一度、教室を訪れたらしい。僕に白紙で無文字の要求を訴えてくるのは奴しかいない。そして今回の意味を過去の経験も照らし合わせて察するに……随分《ずいぶん》とご無沙汰《ごぶさた》しているから、『部活に出よう』だな。変人との交流は習うより慣れろだ。アケチの意味は高校二年生の学習内容から逸脱《いつだつ》しているようだが。  もっとも、生徒会の書記である奴《やつ》が、変じゃない方がどうかしているわけで。むしろ更《さら》に飛躍《ひやく》し、人を喰《く》らう化け物に恋するぐらいは弾《はじ》けてほしい、と希望を胸に鞄《かばん》を手に取る。……あれ、それは確か風紀委員の書記だったかな。  などと空想しながらメモ用紙を机の引き出しに突《つ》っ込んでいると、遠くの誰《だれ》かが遠くのマユに声をかけるのが頭部の右|斜《なな》めあたりの部位に響《ひび》いた。 「部活、待ってるから」 「行きませんから」  男子の軽快な誘《さそ》いを一瞥《いちべつ》と一言ではね除《の》けてから、マユが僕を凝視《ぎょうし》する。寂寥《せきりょう》と黄昏《たそがれ》の斜光《しゃこう》で右半身を染めたマユの瞳《ひとみ》は、化石のように硬質《こうしつ》に対象を見|据《す》えている。  僕は街灯《がいとう》に群がる蛾《が》のように(動物|占《うらな》いで蛾らしいので)マユに歩み寄り、一緒《いっしょ》に教室を退室した。扉《とびら》を閉じる際、一度だけ首を振《ふ》り返らすと、男子は茜《あかね》色の太陽を眺《なが》めていた。奴の顔は覚えておくことにしよう、寝取《ねと》り系な雰囲気《ふんいき》が漂《ただよ》ってる。適当だけど。  それから、廊下《ろうか》に出て、十歩も進まないうちに質問してしまった。 「さっきの彼はどちら様?」  これが奈月《なつき》さんだったら『式の日取りはどうします?』と切り出すが、マユ相手にはそうもいかない。先生が相手だったら……まず、年齢《ねんれい》を確認《かくにん》するかな。  マユは、眉根《まゆね》を寄せながら、何故《なぜく》か唇《ちびる》の端《はし》がひくついた。 「知らない。演劇部の人だって。鬱陶《うっとう》しい」  三つの短文で未知、情報、感想を表現してくれた。そういえば、部活と言ってたな。マユは演劇部に属していたのか。  この学校は、生徒全員が一応、部活動に所属するのが義務となっている。マユは何の思慮《しりょ》もなく演劇部の幽霊《ゆうれい》部員になる道を選択《せんたく》したのだろう。ついでに、僕はアマチュア無線部だ。部員は二名ながら、副部長という肩書《かたが》きを得ている。当然ともいう。  部活は一年間、変更《へんこう》禁止であるからマユがアマチュア無線部員となるには四月まで待たなければいけない。その制約がなかったら、マユは既《すで》に無線部の部長を追い出して僕と二人だけの部活動という立場にでも持ち込んでいただろう。部活内容は語るまでもない。 「なに話してたの?」  流れから察するに、部活への参加を勧《すす》められてたのは分かるけど、念の為《ため》に。何の念かも定まってないけど。 「別に、くだらないこと……ぬふふ」  廊下に誰もいなかったからか、はたまた抑《おさ》えきれなかったのか、マユが吹《ふ》き出し、にやけ面に破顔一笑《はがんいっしょう》する。 「ふひゅひゅ、やきもちだ」  僕の肩をご機嫌《きげん》に叩《たた》いてドラム代わりにする。「みーくんがやきもち焼きだったなんて、心せまーい。まーちゃんしょっくー、げんめつー」超《ちょう》とか☆がつくぐらい嬉《うれ》しそうじゃねえか。 「いや、違《ちが》うよ。たださ、」「帰ったらいいものあげるから、拗《す》ねないの。ねー」  いいこいいこ、と背伸《せの》びして僕の頭髪《とうはつ》を弄《いじ》くってくる。釈然《しゃくぜん》としない。否定の発言は流され、頬《ほお》もむず痒《がゆ》い。なんで僕は腰《こし》を微妙《びみょう》に屈《かが》めて受け入れ体勢作ってんだよ。夕日が肌《はだ》を侵食《しんしょく》している所為《せい》だ、と勝手に犯人扱《あつか》いした。  マユは帰宅|次第《しだい》、ジープに乗った米国軍人と化すのであろう。  そして僕は甘いのを卑《いや》しく三つほど欲しがる為《ため》、竹槍《たけやり》を持って欧米《おうべい》語を駆使《くし》しながら追いかけ回すのだ。  うん、正しくないけど。本質は、大差ない気がする。  結局、学校を出るところまで頭を撫《な》で続けられた。  それから手を握《にぎ》って仲良くお帰りし(やけくそ気味に手を大きく振《ふ》って歩いた)、マンションの三階、マユの部屋に到着《とうちゃく》する。  そして、僕が玄関《げんかん》で靴《くつ》を脱《ぬ》いでいる途中《とちゅう》に、マユが背後から寄生してきた。 「どしたの?」と、シェーのポーズの出来損《できそこ》ないみたいに、片足を上げて停止しながら尋《たず》ねる僕。マユはそんな不安定な僕にも遠慮《えんりょ》なく抱《だ》きつき、体重を預けてくる。 「みーくんが心配性だから、くっついてあげてるの」  背中に頬ずりしてくる。勘違《かんちが》いを全力で推進《すいしん》しているけど、盛り上がりに水を差す面白《おもしろ》さは、時と場合によろけりだからな。聞く耳も一時|封鎖《ふうさ》されてるし。 「まーちゃんには敵《かな》わないなあ」  勝負する気概《きがい》も起きないけどなぁ。脱ぎかけだった靴が爪先《つまさき》から落下した。 「まーちゃんはね、みーくんがいれば他《ほか》の奴《やつ》は全部いらないから。安心していいんだよ」  熱と艶《つや》、色の内包された声調で自らの全《すべ》てを語るマユ。僕の腹部を、両手が強く握り潰《つぶ》す。  閉鎖の極《きわ》まった思考。人間としては、後ろ向きで、退廃《たいはい》で、否定されるべきなのかも。  でも、まーちゃんにとっての、たったひとつの冴《さ》えた答えならそれでいいんじゃないかな。  いつか、先生が言っていたように。 「だからみーくんもわたしだけいればいいんだよー」  おや、まだ続きがあった。当然、「その通りさ。まーちゃんさえいれば僕は、ぼくさえ必要ないんだヨ」と全面的な同意と抱擁《ほうよう》と接吻《せっぷん》に励《はげ》んだ。嘘《うそ》だけど。  この断定に同意するのは、僕がマユの位にまで上《のぼ》りつめてからだな。  マユが下がってくることは、あり得ないだろうしね。  それから五分ほど、他人様の神経を逆撫《さかな》でするバカップルな置物を維持《いじ》していた。 「……ん?」 「あ、そーだ。やることあったのだ」  マユが獲物《えもの》の捕縛《ほばく》を解除し、靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ散らかす。鞄《かばん》を放《ほう》り捨て、玄関《げんかん》の青色スリッパを履《は》いてから、パタパタと奥の、洗面所へ急ぎ足と千鳥足《ちどりあし》を併用《へいよう》して向かっていく。  今、ふとマユに違和《いわ》感を覚えたけど……気の所為《せい》にしとくか。  靴を揃《そろ》えた後、マユの鞄を拾い上げ、リビングに入る。室内は生物が生活を営むのに適していない温度に落ち着き、呼吸するのも躊躇《ためら》わせる。扉《とびら》を閉じて密室にし、エアコンの電源を点《つ》ける。それから、身体《からだ》が一カ所に留《とど》まるのを拒否《きょひ》する寒気に負けじと、ソファに腰《こし》を下ろす。  待つ間、マユの鞄の掃除《そうじ》を行うことにした。開けて中身を確かめると、数ヶ月前と同様の光景が展開されていた。プリントが密集して、黄ばんだ球を形成している。何個集めようと願いを叶《かな》えてくれる見込みのない、無精の代物《しろもの》だ。 「鞄だけ男子校の仕様なのはどうもなあ……」  頑張《がんば》って美少女仕様に改善しよう。定義が全くもって不明だけど。  紙玉をゴミ箱に投げ捨てる遊びで時間を潰《つぶ》す。人生で最も無益な時間を過ごす、これこそが至上の贅沢《ぜいたく》だと深遠な哲学を学べる知的|遊戯《ゆうぎ》だ。あ、惜《お》しい、枠《わく》に嫌《きら》われた。  投げ尽《つ》くしては回収し、距離《きょり》を取って再|挑戦《ちょうせん》。時折、横手投げや左手でも試《ため》し、単調な動作に変化を加える。これでも昔は野球少年を志していたものだ。勘違《かんちが》いしないで頂きたいが、野球選手ではなく野球少年を目指していたのだ。その所為で、父親に金属バットを使用される羽目になったわけだが。自業自得、因果応報、七転八倒《しちてんばっとう》と。よし、ど真ん中。  有無《うむ》を言わさずガッツポーズ、そして額の汗《あせ》を拭《ゆぐ》って一息吐《つ》き、我に返った。 「……うわぁ……」  お楽しみすぎな自分を恥《は》じ、後払《あとばら》いの後悔《こうかい》が雁首揃《がんくびそろ》えて押し寄せた。それと同時に、自分は世界一幸せ(おめでたいでも可)な人間なんじゃないかと、何故《なぜ》か堪《たま》らなく不安になった。  気付けば部屋は完全に暖房《だんぼう》に塗《ぬ》り替《か》えられ、暑い。乾燥《かんそう》した鼻先や頬《ほお》が痛む。制服の上着をソファにかけ、部屋を出る。火照《ほて》った肌《はだ》を癒《いや》してくれる廊下《ろうか》の壁《かべ》と、冬という季節に感謝を捧《ささ》げたくなる。暫《しばら》く堪能《たんのう》して、汗が引いてからマユの様子を見に行くことにした。廊下を摺《す》り足《あし》で移動する。  洗面所に近寄ると、水道の交通量の高さを主張する濁音《だくおん》が聞き取れるようになっていく。  そして、訝《いぶか》しみを心に張り付けながら洗面所に入る。  マユが、真冬の水浴びをしていた。 「…………………………………………」  はだけた右|肩《かた》を突《つ》っ込み、一心不乱に歯ブラシで肌を削《けず》っている。髪《かみ》も余波で濡《ぬ》れ、両手は柏手《かしわで》を打てば出血も容易そうな赤々しさ。僕がかつて入院していた時にいた、常時手を擦《こす》り、洗う癖《くせ》のある人を連想させる。確か、手の皮が損傷しすぎて爛《ただ》れていた。  マユの首が左に折れる。僕を発見した瞳孔《どうこう》は、収縮《しゅうしゅく》が解《ほぐ》れて過剰《かじょう》な光を湛《たた》える。 「うがいしに来たの?」  無垢《むく》な笑顔《えがお》が出|迎《むか》えてくれる。それを契機《けいき》として終了《しゅうりょう》したのか、蛇口《じゃぐち》を閉めて肩《かた》を上げる。  温水も出るから一安心、していいのだろうか。 「ううん、ちょっとね。で、何してたのかな?」  記憶《きおく》を穿《ほじく》り出して、幼稚園《ようちえん》の先生の口調を真似《まね》た。  マユはハードボイルドにずぶ濡《ぬ》れになった右肩を無造作《むぞうさ》に振《ふ》り、飛沫《ひまつ》を床《ゆか》に散らす。 「さっきの奴《やつ》に触《さわ》られたところ、洗ったの」  酷使《こくし》され、毛先の縮《ちぢ》れた歯ブラシを掲《かか》げる。付着している赤色と半透明《はんとうめい》な皮の切《き》れ端《はし》は、練《ね》り歯磨《はみが》きのイチゴ味でないことは明白だ。ついでに、その歯ブラシは僕のなんだけど。まあそれはいい、日頃《ひごろ》から互《たが》いに間違《まちが》えてることもあるし。むしろまーちゃんは寝惚《ねぼ》けて、『みーくんの歯ブラシだー』と、僕が使用して水洗いする前の品を奪《うば》って舐《な》めたり噛《か》んだりして堪能《たんのう》しようとしたこともあるしな。何とか物理的に目を覚まさせて事なきを得たけど。  それより問題は、彼が右肩を揺《ゆ》すってマユを起床《きしょう》させたことか。何てことを、崇《たた》りじゃ。崇りが起きるのじゃと怪《あや》しげ老婆《ろうば》が騒《さわ》ぎ立ててもおかしくない、迷惑《めいわく》な行為《こうい》をしたものだ。  マユの白磁《はくじ》の右肩は、朱色《しゅいろ》の線が大群を成して駆《か》け巡《めぐ》っている。毟《むし》り取られたように肌《はだ》の一部は抉《えぐ》られ、滲《にじ》む血液が水と混ざって肩を薄紅色《うすべにいろ》に加工している。 「だってあいつら、汚《きたな》いもんね」  一度、身震《みぶる》いしながらマユが無邪気《むじゃき》な笑顔で言う。「……かもねぇ」と控えめに同意。  マユの服の袖《そで》から、指先から水滴《すいてき》が断続的に零《こぼ》れる。既視《きし》感のある、その風景。  昔は、もっと赤色の雫《しずく》だったけれど。 「でね、綺麗《きれい》になった?」  まーちゃんが傷を見せつけてくる。えーと、どう汚《よご》れていたのかな。 「ほら、ちゃんと見るの!」  抱《だ》きつき、もたれかかってくるマユを支えて、希望通りに削《けず》り跡《あと》を観賞する。  ……さっきの彼が『まーちゃん』と戯《たわむ》れに呼び出したら、この立場は反転するわけだ。  うーん、ぢょせいってこわいね。女性違うから。  舐《な》めるように観察する演技をして、「これでいつも通りだと思うよ」と言うほかなかった。駄目《だめ》出しをしようものなら、肩骨が発掘《はっくつ》されるまでマユの清掃《せいそう》は続行されるだろうから。そういう点においては、この子もまた、美化委員の才覚の片鱗《へんりん》を覗《のぞ》かせている。嘘《うそ》だけど。 「あーよかったー」とマユは全身を弛緩《しかん》させ、僕の胸部に頬《ほお》を擦《こす》りつけてくる。その際、右半身に触れると、冷水に浸《ひた》っていたことに気付かされた。……嘆息《たんそく》が多量に舞《ま》う。 「まーちゃんこそ、ちゃんとうがいしなさい。風邪《かぜ》ひくよ」 「えーっ、やだー」  何を否定したのか要領を得ないまま、マユは唇《くちびる》を尖《とが》らせる。 「だって熱出すと、みーくんがずーっと側《そば》にいてくれるもん」  夢に装飾《そうしょく》された、マユの艶《つや》のある微笑《ほほえ》み。ふむ、否定されたのは風邪《かぜ》予防か。  つまり冷水を使用したのは意図的で、一石二鳥《いっせきにちょう》を狙《ねら》ってたわけだ。なぁるほどぉ、あのなぁ。 「いつも一緒《いっしょ》にいるでしょ」 「違《ちが》うもん! 寝《ね》てる時もぎゅっーって手を握《にぎ》ってくれてたもん、分かるもん。みーくんはいつもは寝てる時、側《そば》にいないもん」  駄々《だだ》っ子《こ》の口調で僕を殴打《おうだ》する。  その中の、鳩尾《みぞおち》に入った一撃《いちげき》で、菅原《すがわら》が良い奴《やつ》だったってことは伝わったよ。  ……親父《おやじ》の代理で、まーちゃんに謝罪したくなる程度に。  今なら、涙《なみだ》は無理でも目薬で演出すればそれなりの表情は出来そうだった。  脇腹《わきばら》への拳骨《げんこつ》で、素直《すなお》に気分が悪化したのも合わせてな。  ……ぢんせいって難しい。人生|違《ちが》うから、僕らの進んでる道。  嘘《うそ》だけど。  人生じゃないといけないから、マユの肩《かた》は血だらけになるんだよな。  それからマユの肌《はだ》を暖めて (雪山の取り残され男女方式を参考にしました)、夕食を摂取《せっしゅ》して、リビングで宿題に取りかかった。マユは僕の背中をよじ登ったり、肩から下りて膝元《ひざもと》で丸まったり、と普段《ふだん》通りに過ごしている。ヤモリに這《は》われる壁《かべ》ってこんな気分なんだな、と無機物に共感出来る一時《いっとき》だ。それと先程《さきほど》も感じたけど、これはもしや、 「ねー、まだー?」  首筋に顎《あご》を打ち付け、マユが退屈《たいくつ》をぼやく。もう少し時間が経《た》てば、『どかーん』と筆記用具に踵落《かかとお》としが降り注いだり、『ちゅどーん』と僕に鉛筆《えんぴつ》が突《つ》き刺《さ》さる。本当に本当なのだ。 「うん、もう終わるよ」  続きはマユが布団《ふとん》にくるまってからにするか。ペンを置き、ノートを閉じる。  今更《いまさら》言うまでもないが、マユは勉学能力が皆無《かいむ》だ。  同棲《どうせい》し出した頃《ころ》、家庭教師の役を担《にな》おうとして、得意教科を尋《たず》ねたら返ってきたのが『算数!』だった時点で僕は挫折《ざせつ》した。その後、分数の掛《か》け算《ざん》を冗談《じょうだん》で質問したら『うきゅー?」と激コケティッシュにラブリーなリアクションは最高に素敵《すてき》だけどなんだその首の傾《かし》げ方《かだ》は、ということで再起不能となった。 「よし、お終《しま》い」  宣言し、時計を見る。七時過ぎだから、三十分後には風呂《ふろ》→睡眠《すいみん》の連鎖《れんさ》が成立するだろう。  マユが僕から僅《わず》かに距離《きょり》を取り、ぺたりと床《ゆか》に座り込む。  宿る表情は、優越《ゆうえつ》感さえ漂《ただよ》うしたり顔だった。 「じゃーそろそろ、みーくんにぶれぜんつしちゃおっかなー」 「うん? うん、待ちかねてたよ」  何だっけ? 「まーちゃん、焦《じ》らし上手《じょうず》なのです」 「一日千秋《いちじつせんしゅう》の思いで待ってたよ」  ふぉふぉふぉ、嘘《うそ》じゃ。存在自体忘れとった。 「いいこでおるすばんしてるのよー」と屈辱《くつじょく》を贈呈《ぞうてい》してから、マユが寝室《しんしつ》の方へふらふらと駆《か》ける。……留守番か。幼少期の思い出が、苦酸《にがず》っぱい。腐《くさ》りかけだな。  テレビジョンのパワースイッチをオンした。英語の宿題の成果がさっそく発揮《はっき》されているなぁ、と感動。嘘《うそ》だけど。画面には、朝方と同じく地方のニュースが映る。報道する事件も取り立ててない為《ため》か、バレンタイン特集をやっていた。既視《きし》感のあるデパートの食品売り場で、限定販売のチョコに群がる人々の映像。チャンネルを変える。悪代官がバッサバッサと切り捨てられていた(そんなにいない)。時代劇は老後の楽しみなので変更《へんこう》。次はアニメ画がブラウン管を占拠《せんきょ》する。その演出で目が眩《くら》み、顔を背《そむ》けて窓に視線をやった。  外は薄黒《うすぐろ》い雲が空を遊歩し、電線が時折、風に吹《ふ》かれている。今日の景色《けしき》には、月が出演していない。雪もなく、暗闇《くらやみ》を妨《さまた》げるものはなかった。こんな日は、散歩|日和《びより》だ。 「でんでろでろりろー」  謎《なぞ》の効果音と共に、全体が萎《しな》びたダンボール箱を抱《かか》えたマユが戻《もど》ってくる。よたよたとテーブルに近寄り、そして「じゃーん」雪崩《なだれ》の勢いで中身がばらまかれる。  全《すべ》て赤色の包装紙と紅《くれない》のリボンに彩《いろど》られた、長方形の箱が丘《おか》を成す。 「ぜーんぶ、わたしの手作りだよ」  ダンボール箱を壁《かべ》に叩《たた》き捨て、マユが僕にすり寄ってくる。ここでようやく、チョコレートの存在が記憶《きおく》から甦《よみがえ》った。ざっと見積もって三十個はある赤箱を、一つ手に取る。 「こんなにたくさん……」 「らぶです。みーくんへのらぶなのです」 「うん……」この赤の塊《かたまり》を直視して、感じられない方がどうかしてるとは思う。 「ありがとう。僕もまーちゃんらぶよ」  マユの頭を撫でる。僕が貰《もら》っていいのかな、と想《おも》いだけならさておき、流石《さすが》に物が追随《ついずい》すると多少は気が引けるけど。  マユは父親に褒《ほ》められた娘《むすめ》みたいに、くすぐったそうに目を細める。 「全然甘くしてないからだいじょーぶなのだ」 「……そうなんだー、きやほぉ」  これだから菅原《すがわら》を、親友認定出来ないんだ。  ……けど、うん、待てよ。  手の中の箱を裏返し、回転させ、注視する。もう一つ入り手し、観察。  その中で湧《わ》いた疑問を払拭《ふっしょく》しきれず、制作者に問う。 「これ、いつ作ったの?」  ここ数ヶ月、チョコ作りというパティスリーな行為《こうい》に及《およ》んでる姿は拝見していない。  それが、僕の猜疑《さいぎ》心を掻《か》き立てる。 「んーと」と、マユの指が順々に折れていく。右手は全《すべ》て折り畳《たた》み、左手は中指まで二つ折り。……どういう意味だ、それ。  残った薬指と小指が、僕の手に収まっている長方形を指さす。 「それは八年前のやつかな」  何も頬張《ほおば》ってない口内から、得体の知れない何かを吹《ふ》き出しそうになった。 「ここに住んでから、暇《ひま》な時に作ったの」  マユの屈託《くったく》ない微笑《ほほえ》みが、モノクロとカラーを彷復《さまよ》う。今、僕は間違いなく目を白黒させている。意識も月まで吹っ飛ぶこの衝撃《しょうげき》に、胃が痙攣《けいれん》してる。 「まずどれがいいかなー」  永遠にフローズンなやつを所望《しょもう》する次第《しだい》。それと、まずは堪忍《かんにん》して。  無理だろうけどさ。  虫食い程度なら問題はない。許容|範囲《はんい》だ。箱の中でガサガサ姦《うごめ》いても、その程度では眉根《まゆね》を寄せるだけだ。昔、地下室暮らしをしてた時には虫がご馳走《ちそう》の部類に入ってたからな。調理はされてたし。お嬢様《じょうさま》暮らしのマユは激しく拒絶《きょぜつ》してたけど。後、菅原《すがわら》も。  だが幾《いく》ら無神経の僕でも、開封したら化学兵器に早変わりすることが確定なチョコの群れを相手では、覚悟《かくご》より胃が音を上げること必至。  行為《こうい》の果て、行き着く先は、未来予報を受信するまでもない。 「はい、食べて食べてー」  その言葉、僕の祖国では自殺って意味だぜ。八年前のを選びやがった。  冷凍庫《れいとう》で保存してあったならまだしも、常温でダンボールで八年だぞ。想像するだに冷や汗が止まらない。八年前の食糧《しょくりょう》事情も凄惨《せいさん》ではあったけど、流石《さずが》にこれほどの破滅《はめつ》系はレパートリーになかった。嬲《なぶ》りの極意は生殺《なまごろ》しだから、致命傷《ちめいしょう》までには到達《とうたつ》させないのが重要なのだ。  僕が手を付けない為《ため》か、マユが鼻歌交じりに包装を解き始める。マユは何故《なぜ》、全て同一の外装を施《ほどこ》した物体を判別できるのかと嫌疑《けんぎ》したら、リボンの結び目に小さく年号が記してあった。  さて、どうする。抱《だ》きついて煙《けむ》に巻くか。我ながら変質者と紙一重の方法を取ることになるわけではあるが、切り札である婚姻届《こんいんとどけ》は既《すで》に使用済みで、頼《たよ》れる道具は手元にない。離婚《りこん》届を提出しようものなら、今年は僕が赤色にラッピングされてしまう。  抱擁《ほうよう》以外にもお茶を濁《にご》す手段は、一縷《いちる》の望みながら存在する。けど、いいのかな。 「……まーちゃん」  苦渋《くじゅう》と苦肉の策ながら、それしか思いつかない。時間を稼《かせ》ぐには、これしか。今日、ふと気付いた諸刃《もろは》の切り札を投与《とうよ》するしかない。  マユはリボンを両手で摘《つま》んだ状態で「なに?」と停止する。 「まーちゃんさ」「うん」「……胸、大きくなったりした?」「にゃんですと?」  違《ちが》う、これセクハラ。まーちゃんも、触《さわ》って試《ため》してまんざらじゃない表情しない。  僕の表現したいことはこうじゃないんだ、と前衛芸術家ばりに頭を抱《かか》える。 「人間的に大きくなったっていうか、現実に巨大化したというか……」  言葉の選びに神経を使う。だけど時は、待たない。赤紙がペリペリと剥《は》がれていく。 「まーちゃんさぁ……」「うんうん」意を決した。「……太った?」耳鳴りに襲《おそ》われた。  マユが平手で僕の顔の側面に一閃《いっせん》したことを、雷鳴《らいめい》の音のように一拍遅《いっぱくおく》れて理解した。 「そーう? そうなのー?」  笑顔《えがお》と声と行動が不作法に一纒《ひとまと》めされたマユ。氷結気味の雪玉を耳にぶつけられた過去に思いが巡《めぐ》る、そんな鋭利《えいり》な痛みが遅蒔《おそま》きに侵食《しんしょく》してくる。 「でもなー」パン「そんなことないよー」パンパン「みーくんってばー」パンパンパン、と平手打ちに見舞《みま》われる。  けど確かに、じゃれつく際の重量は増加していた。  常時、冬眠《とうみん》に類似した行動形態を取ってるからな、そりゃあ栄養の保存が順調だろう。  つまりキミは、いつ野生に帰っても大丈夫《だいじょうぶ》と折り紙付きなわけさ!  などと、マユに殺人の動機を一足早く、ホワイトデーのお返しとしてる場合じゃない。 「……むー、ほんとに?」  僕の目線に何かを感じたのか、真面目《まじめ》な目つきで確認《かくにん》してくる。そして返事を待たず、マユが不機嫌《ふきげん》そうに自身の脇《わき》の肉を摘《つま》む。硬直《こうちょく》。解除し、今度は僕の脇を抓《つね》る。硬直中……「キー!」  殴《なぐ》られた。どうやら、試合に勝って勝負に負けたらしい。 「みーくんの赤点小僧《あかてんこぞう》!」  純正赤点|小娘《こむすめ》に謂《い》われのない罵倒《ばとう》をされ、頬《ほお》を爪《つめ》で引っ掻《か》かれた。それが捨《す》て台詞《ぜりふ》だったのか、マユがチャラチャラチャラと足音を立てて居間から逃亡《とうぼう》する。ふう、今の今まで嘘《うそ》を挟《はさ》む余裕《よゆう》もなかった。肩《かた》の荷が下りる。  新たな危険を生みながらも、当面の危機は脱《だっ》した。後はこのワインレッドの棺桶《かんおけ》みたいな元チョコを捨てる……ことが出来ればどれほど楽か。チョコレートは捨てない、食べもしない。両方やらなくっちゃあならないってのが、バカップルの辛《つら》いところである。嘘だけど。  箱を漁《あさ》る。年号と日付の最新であるリボンを検索《けんさく》する。まだ間に合うやつがあれば、口にするべきだろう。僕は貧乏性《びんぼうしょう》だからな。嘘な気もするけど。  調べ終え、去年の九月半ばの箱が手に残った。……チョコレートは水分の比率から腐敗《ふはい》し辛《づら》い菓子《かし》だ、これなら大丈夫《だいじょうぶ》……と山勘《やまかん》に頼《たよ》る。けどこれ、防腐剤《ぼうふざい》とか使用してないわけで、表に虫が巣《す》くってなくとも、内部に毒を抱《かか》えたやつらが潜伏《せんぷく》している可能性がある。いや、可能性なんて、まだ甘い考えだ。  よく、現実は非常だっていうけど、そんなことはない。  人間の楽観視が過ぎるだけだ。  覚悟《かくご》は出来てるので、リボンを解く。包みを外し、箱を開く。うーむ、黒々とした板に白い粉が芽吹《めぶ》いている。思春期なのかな? それとも粉《こ》ふき芋《いも》のコスプレ? 指で摘《つま》む。砂のように崩《ぐず》れはしない。ただ、妙《みょう》に柔《やわ》らかい。  口に運び、四分の一ほど噛《か》んだ。パキッと快音はせず、こんにゃくのように噛《か》み千切る。 「…………………………………」  砂糖《さとう》と粘土《ねんど》を間違《まちが》えたような味がする。所謂《いわゆる》、絶望系。  風味が既《すで》に、時間に盗《ぬす》み食いされてしまったみたいだ。口の中で糸を引き、粘《ねば》つく。けど、いいんだよ、こーいうのはね、気持ちを味わうんだ。 「……ふぅん」  気持ちを食べる生き物か。……人間って、そういう生物だよな。  僕は、消化器官に不備があるけれど。で、まーちゃんは偏食《へんしょく》ね。  自嘲《じちょう》と共に咀嚼《そしゃく》。……飲み込めない。糸を引いたガムのようだ。唾《つば》だけが虚《むな》しく喉《のど》を通過していく。仕方ないので指を口へ突《つ》っ込み、粘るチョコを喉の奥へ押し込んだり悪戦苦闘《あくせんくとう》した。  何とか完食した後に手を合わせ、「ごちそうさま」とお祈《いの》り。  それから、水で喉を潤《うるお》したくなり、けれども廊下《ろうか》の冷え込みに 億劫《おっくう》を覚えて天井《てんじよう》を見上げていた。  そうしていると、マユが、扉《とびら》を豪快《こうかい》に開け放つ。  右手には、まーちゃんがご飯を作ったりその他に使ったりする包丁が握《にぎ》られていた。  僕の前で屈《かが》み込み、膝《ひざ》を突いて身を乗り出す。 「何処《どこ》が太ってる?」 「うん?」  真摯《しんし》な表情で尋《たず》ねるマユが、包丁を白光で煙《きら》めかせる。 「そこだけちょっと切って、楽ちんに痩《や》せるのだ!」 「……わーお」何処まで回りくどくないんだこの子は。  手間と命が最高に必要ない、直球すぎるダイエットですな。  髪《かみ》の生《は》え際《ぎわ》から額へ、幾重《いくえ》もの青線が下りてきそうな僕。 「そんなの駄目《だめ》に決まってるでしょ」  包丁を取り上げようと手を伸《の》ばす。当然、「キー!」と手を足で弾《はじ》かれる。 「ほーらお嬢《じょう》ちゃん聞き分けは良くなりましょうねぇ」  ねちっこい口調で譲渡《じょうと》を要求する。が、 「良くないのー!」  ジタバタされる。出来るなら僕も「良くないッスー!」とか大暴れしたい。  その後は、生死を二人の間にぶら下げてのじゃれ合いとなった。  包丁もあっちに行ったりこっちに来たり。  僕が奪い取って勝利した時に、掠り傷程度でお互いが無事だったのは一種、感動的であった。  冷《ひ》や汗《あせ》混じりに、発汗《はっかん》が促《うなが》されてお互《たが》いの頬《ほお》も上気している。  良い運動になってしまったが、ついでに寿命《じゅみょう》も痩《や》せ細りそうなので以降は禁止とする。 「じゃー、どうひゅれびゃいぃの」  ぶすーっと膨《ふく》れるマユの頬をむにむにと揉《も》みほぐしつつ、「んー」と頭を捻《ひね》る。 「まあ、健全に行くなら……あ、その前に、チョコレートご馳走《ちそう》様」 「んゆー、どうひゃった?」と頬を伸《の》ばされたまま、味の感想を求めてくる。 「まーちゃんの味がしたよ」  ふふふ、美味《おい》い不味《まず》いの問題じゃないぜ。ホントにな。 「にゅひゃひゃー」  お袋《ふくろ》の味的なニュアンスで喜んだ、かは定かじゃないけど効果あり。 「さて、と……ダイエットの定番と言えば……」  と、いうわけで夜のランニングに踏《ふ》み切るマユであった。  包丁のない運動といえば、これに尽《つ》きるだろう。まあ、使う運動など浅学なので何一つ知らないが。  普段《ふだん》なら風呂《ふろ》か布団《ふとn》に浸っている時聞帯に、マユは猫背《ねこぜ》と余所《よそ》行きの表情を準備してマンションから外出する。気に入っている黒色のベレー帽《ぼう》を被《かぶ》り、一足しかない運動|靴《ぐつ》を履《は》いてアスファルトに降り立つ。決意が反旗を翻《ひるがえ》しそうな寒風を浴び、乾《かわ》いた目元を擦《こす》る。  道路に蛍光《けいこう》は当たらず、暗夜行路《あんやこうろ》が何処《どこ》までも延びていた。 「と、いうわけでそれに付き合う僕であった」  自作のナレーションを挿入《そうにゅう》し、宙に混ざる白息を見届ける。植え込みの木が揺《ゆ》れる風に耳を殴《なぐ》りつけられ、引いていた痛みが鋭利《えいり》に再発する。僕たちの居場所に帰りたいと思いまくって、  マンションを一度大きく見上げた。 「じゃ、行こうか」  上着のポケットに手を入れ、足踏《あしぶ》みしながらマユに開始を告げる。  マユは一度|肯《うなず》き、歩くような速さで駆《か》け出した……走るような速さで歩いてることになるね、僕。「真面目《まじめ》に走りなさい」  マユの頬《ほお》を軽く摘《つま》む。「ふぎ」とマユが遺憾《いかん》を表明しながら立ち止まる。 「なんで邪魔《じゃま》するの」 「邪魔されたいならもう少し行動を起こしなさい」  走る姿勢でハムスター並みにとっとこ歩いてるだけだ。その姿を百人に問い質《ただ》せば、四十人は散歩と表現し、残りは美少女|万歳《ばんざい》と賞賛するだろう。勿論《もちろん》、僕は後者の筆頭だ。嘘《うそ》だけど。 「別に走らない。散歩するの」 「あ、そうなんだ」  じゃあその腕《うで》の振《ふ》りと足の運びはなんだ、「ごめんごめん」  触《さわ》り心地《ごこち》の良好な頬を離《はな》す。マユはそれを見計らい、腕を大仰《おおぎょう》に振って大股《おおまた》で闊歩《かっぽ》する。  僕はそれに、気と足を急《せ》かさずとも並んで歩く。 「どれくらい痩《や》せる予定なの?」  尋《たず》ねたら、マユの拳が唸《うな》った。減量中は痩せる話題は禁句らしい。……理不尽《りふじん》な。 「もやしっ子って呼ばれるぐらいまで」  何とも抽象《ちゅうしょう》的な目標を告げられた。終わりが見えないのが終わりになりそうで、不安。  実際のところ、姿見は特に成長していないんだけどね。けど僕が指摘《してき》してしまった為《ため》にマユはやらざるを得ない。  まーちゃんは、みーくんに嫌《きら》われるのが死活問題だから。 「でも、まあ……いいか」  夜の散歩。  僕らにしては、平和な動機で安堵《あんど》する。  アルファルファとかあだ名を付けられる為に頑張《がんば》るマユに、僕が付き添《そ》う理由。  犬猫《いぬねこ》の処理者が俳徊《はいかい》している危険性への考慮《こうりょ》と、右足のリハビリと、それと、もう一つ。  こちらの方も、早合点《はやがてん》だと嬉《うれ》しいんだけど。無理だろうな。 「……こうなると思ってたんだよ」  小学校の校門まで片道三十分を歩き、帰り道。  歩《ある》き疲《つか》れを訴《うった》えたマユを背負ったら、即座《そくざ》に背中をベッドと認識《にんしき》してしまった。今は僕の肩《かた》を噛《か》みながら、静かな寝息《ねいき》を立てている。明日になったら自分の身体《からだ》の秘密を忘れているように願っておこう。  凍土《とうど》の道を、緩《ゆる》やかに、慎重《しんちょう》に鼻水を畷《すす》って歩む。転倒《てんとう》すれば受け身も取れないので、寒気《かんき》に促《うなが》されても決して急がない。  周囲は一面の畑で、遠くの山の輪郭《りんかく》まで一望できる。左|側《がわ》には、ロープウェイの設置された観光地で、山頂に城もある低めの山。正面には、防空壕《ぼうくうごう》の存在する人気のない山。左山には小学校の遠足の、正面山には妹との思い出が内在している。どちらも大した内容じゃないけど。 「どっこいしょーいち」とは言わずにマユを背負い直す。 「つうか、僕の方が早く痩《や》せ細りそうだ」  そうすると、益々《ますます》マユが暴力的に傾《かたむ》くわけだ。悪循環《あくじゅんかん》だなあ。  などと愚痴《ぐち》っていた頃合《ころあ》いに奏《かな》でられる電子音。マユの臀部《でんぶ》を片手で支えながら、ポケットの携帯《けいたい》電話を指先で取り出す。折り畳《たた》まれた電話を開くと、液晶《えきしょう》には、外人の名前が映った。片仮名で登録してある該当者《がいとうしゃ》は一名だけだ。部族みたいな名前のあの人だけ。  通話ボタンを爪《つめ》で押し込み、肩《かた》と耳で電話を挟《はさ》んで、マユを両手で支え直す。 「あ、もしもし。今お一人ですか?」「はい一心同体です」  僕の横着な返答に、「うふふふふ」でご満悦《まんえつ》そうな上社奈月《かみやしろなつき》さん。  そういえばこの人、大食漢にしては体格が見合ってないよな。 「マユちゃんは眠《ねむ》ってらっしゃいます?」 「ええまあ。マユを背負って三千里中ではありますけど」  無理な角度に傾けている為《ため》か、首筋がピキビキと自己主張を強め出す。 「では、マユちゃん宅から最寄《もよ》りのコンビニに出頭して下さい」 「すいません、今日は叔母《おば》と宿題をやる約束がありまして」 「まあ、みーさんったら……」  そこで奈月さんの台詞《せりふ》が切れる。暫《しば》しの沈黙《ちんもく》の後、、 「叔母さん好きの人は何コンと呼べばいいんでしょうね?」 「オバコンのことですか?」  両親が草葉の陰《かげ》で笑い転げそうな、天然の嘘《うそ》を吐《は》き出す僕。 「勉強になります」と人工の嘘を返す奈月さん。 「それに警察の方が、深夜|俳徊《はいかい》を推奨《すいしょう》するとは如何《いかが》なものかと。狼《おおかみ》や大猿《おおざる》に襲《おそ》われる可能性を無視するつもりですか?」 「警察はインフルエンザが流行《はや》って署内|閉鎖《へいさ》です」  あんたの素敵《すてき》な職場は暴風警報で休日だったりもするのか? 「それに今日は月のない晩です、ご安心くだだい」  ああ、確かにと空を仰《あお》ぐ。後半はさておき。 「私だけの都合ならみーさんのご予定を優先しますが、実は是非《ぜひ》ともお会いしたい、と仰《おっしゃ》る方がいるんです。その方々のお気持ちを汲み、至急お出で下さい」 「……どちら様ですか? 部族の中でも指折りの美人をご紹介《しょうかい》して頂けるとか?」 「それを言わないのはみーさんと私のお約束ですよ」 「失念してました、正《まさ》にその通りですね」  無利益な約束事をするなんて、あの時の僕は血気盛《さか》んに若さが巡《めぐ》っていた。嘘《うそ》だけど。 「分かりました。妹の結婚式を見届けてからすぐに向かいます」 「はい、ではセリヌンテイウスとなってお待ちしています」  本来なら不吉である立場を宣言して、奈月《なつき》さんとの交信は途絶《とだ》える。 「会いたい人、ねぇ」  何処《どこ》にも繋《つな》がっていない電話に喋《しゃべ》りかける。今度は動物殺害の容疑者として呼び立てられるわけじゃないよな。生類憐《しょうるいあわ》れみの令に基づいて逮捕状《たいほじょう》と割《わ》り箸《ばし》鉄砲《てっぽう》を用意した犬のお巡《まわ》りさんが待ち受けているとか。会わせたい『人』とは言ってないし。 「恋日《こいび》先生……は違《ちが》うか」  まあ、行ってみれば全《すべ》て分かる。後のお楽しみとしておこう。  携帯《けいにい》電話を苦労して仕舞《しま》い、一歩、右足を前に。もう一度、マユの太股《ふともも》を持ち直す。  そこでメロス(らしい)は寒空の下、立ち止まった。 「…………………………………」  マユをどうするか、少しだけ悩《なや》んだ。 「……おや」  マユを部屋に置いてから、コンビニの駐車《ちゅうしゃ》場に到着《とうちやく》する間際《まぎわ》、僕はそこで見かけたものに対して素直《すなお》に驚《おどろ》きの意を表明した。普通《ふつう》に、目を点に収束してしまった。  手袋《てぶくろ》と襟巻《えりま》き(現代人はマフラーと呼《よ》ぶ)で、雪に昇華《しょうか》しそうな寒気《かんき》から身を防護し、白息を空に漂《ただよ》わせて待ち人を求める男女がいた。もっとも、両手の指で年齢《ねんれい》を示せるうら若い少年少女の組み合わせだけど。 「こんな時間に、いいのかな」  店内からの目映《まばゆ》い光を背負う二人は、井戸《いど》の底から見上げようと宇宙衛星から観察しようと、池田浩太《いけだこうた》に池田|杏子《あんず》の兄妹《きょうだい》であることは明確だった。その二人の傍《かたわ》らには、頭皮に羽根|飾《かざ》りが刺《さ》さっておらず、呪誼《じゅそ》の紋様《もんよう》なども肌《はだ》に描《えが》かれてないジェロニモさんが保護者役として突《つ》っ立っている。今更《いまさら》なんだけど、ひょっとして奈月さんはジェロニモじゃないかも知れないぜ。否定する根拠《こんきょ》ないけどさ。  相手方も僕に気づいたらしく、鼻を畷《すす》ってから破顔一笑して駆《か》け寄ってくる。マユの部屋で同居していた頃《ころ》の彼らとは結びつけるのも困難な、健全な動作。足枷《あしかせ》も垢《あか》も、衣服の黄色と黒色の染みも払拭《ふっしょく》された姿。 「えと、こんばんはです」「こんばんは、おにいちゃん」  お辞儀《じぎ》をすれば半ばで額《ひたい》を打つほど、僕に近寄った二人がはにかみながら挨拶《あいさつ》してくる。僕も「こんばんは」と修飾《しゅうしょく》と比喩《ひゆ》のない正直な挨拶を返した。  こうして、面と向き合って二人に言葉をかけるのは、季節の移ろう前が最後だったか。  杏子《あんず》ちゃんは僕の腕《うで》を柔《やわ》らかく掴《つか》んでくる。初対面の頃《ころ》の応対とは雲泥《うんでい》の差だ。年相応に緩《ゆる》んだ笑顔《えがお》から察するに、僕に懐《なつ》いてくれていることは理解できる。けれど、いくらあの環境《かんきょう》下で背に腹は代えられなくとも、僕を相手に選ぶのは軽率《けいそつ》だよな。 「元気そうだね、風邪《かぜ》とか引いてない?」 「あ、えーと、あんずがこないだ、ちょっと熱出しちゃって、」  浩太《こうた》君が「ねぇ」と、杏子ちゃんを窺《うかが》う。杏子ちゃんは小さく顎《あご》を引き、「もう治ったよ」と報告してくる。「お大事にねー」と病院の受付気分で一言|添《そ》えておいた。 「それで、今日はどしたのさ。僕に用事?」 「はい」と浩太君が楽しげに頷《うなず》く。僕はその柔和《にゅうわ》な表情に対し、両親の不仲について問い質《ただ》すような、そこまで踏《ふ》み込んだ関係ではなかった。この子達の人生に根深く混入してはいけない、と思う部分もある。何故《なぜ》なら僕は……色々と当て嵌《は》まって、決めつけられない。 「あんず」と、兄の手が妹の背中を後押しする。それを受けて杏子ちゃんは「分かってる」と浩太君を軽く叩《たた》き返し、一歩、僕から離《はな》れる。それと同時に上着のポケットから、長方形の自い包みが取り出された。叩いてないのか、二つには分裂《ぶんれつ》していない。杏子ちゃんが目を伏《ふ》せ、逸《そ》らし、僕と顔を合わせないままに包みを突《つ》き出した。 「これ、あげる」 「……どうも」  ぶっきらぼうに手渡《てわた》された品は、日付が変更《へんこう》していないことを考慮《こうりょ》して、チョコラータだろうか。受け取ったが、この展開は予想外だった。呆然《ぼうぜん》としかける。なんの、まだまだと根拠《こんきょ》や意味の欠片《かけら》もない気合いを入れた。 「あんずが人に物をあげるの、これが初めてなんですよ」 「そういうのは言わなくていいじゃない!」  杏子ちゃんが浩太君の靴《くつ》を踏《ふ》みつける。浩太君は「いたいよ」と言いながら、兄の妹に向ける微笑《びしょう》を崩《くず》さない。そのやり取りを見届けるだけで、空気が温くなった錯覚《さっかく》に陥《おちい》る。 「そうなんだ、恐縮《きょうしゅく》です」  娘《むすめ》も十七|歳《さい》になって食卓《しょくたく》どころか朝の挨拶さえ噛《か》み合わない親父《おやじ》が、父の日に、不意打ちにネクタイを貰《もら》うぐらい感動した。あーっと、嘘《うそ》か?  肩《かた》を窮屈《きゅうくつ》そうに怒《いか》らせる杏子ちゃんが、僕を見上げてぼそぼそと呟《つぶや》く。 「別にあたし、ケチとかじゃないから」 「分かってるよ。ありがとう」  膝《ひざ》を屈《かが》め、無難に頭を撫《な》でることにした。足の裏や膝の裏はまだ敷居《しきい》が高い。嘘だけど。 「こども扱《あつか》いしないで」と、頬《ほお》を膨《ふく》らませながらも僕の手を受け入れる杏子ちゃん。 「それと、これは僕から、ですけど」 「……あら?」  俯《うつむ》きがちな浩太《こうた》君からも、類似した表装の箱を頂戴《ちょうだい》してしまった。彼は君付けである以上マンで、僕も一人称がミーである以上マンである。嘘《うそ》だけど。 「こないだのことで、お礼がしたくて。えと、あの。やっぱり、変ですか」 「いや、別に普通《ふつう》かな……」  お礼はとても正しいことだよ。日付は若干《じゃっかん》おかしいけど。 「ありがとう」  受け取る。これほど表面が乾《かわ》かないよう気を遣《つか》った『ありがとう』は初めてだ。 「なんかキモい」  僕の手を、頭を振《ふ》って解《ほど》いた杏子《あんず》ちゃんが、膨《ふく》れっ面《つら》を継続《けいぞく》しながら兄を罵倒《ばとう》する。「やっぱり、そうかな」と浩太君が気に病《や》んでいるのか、気まずそうに笑う。その表情に罪悪感でも刺激《しげき》されたのか、「べつにいいけど」と杏子ちゃんが口早に付け足す。兄妹《きょうだい》仲は、別段に変化せず良好を維持《いじ》しているようだ。  しかしお礼なら、僕もお返しする必要があるのか。この子達には世話になったし。  何だか、葛藤《かっとう》せざるを得ない返礼を手の平で転がしていると、奈月《なつき》さんが教育実習生のような出《い》で立《た》ちで僕らの側《そば》へ近寄ってきた。具体的に言えば、漂白《ひょうはく》した金色の髪《かみ》を流《なが》し素麺《そうめん》ばりに下ろし、女物のスーツをメリハリつけて着こなすOL……ではなく女教師の一歩手前みたいだ。そして美麗《びれい》な作り笑顔《えがお》なのに、どうしてこうも神経を甘噛《あまが》みするのか。 「みーさんったら、鱗粉《りんぷん》でも撒《ま》き散らす勢いで人徳がありますね」 「動物占いで蛾《が》ですからね、本職にして本領|発揮《はっき》ですよ」  杏子ちゃんが「そんなのない」とか呟《つぶや》いていたけど、声が小さくて聞き取れなかった。あれ、矛盾《むじゅん》が近くに潜《ひそ》んでいる。 「では、私もみーさんの面目《めんぼく》を保つ為《ため》に魅了《みりょう》されるとしますね。どうぞ」  奈月さんが手提《てさ》げ鞄《かばん》から、  背後のコンビニのポリ袋に包まれたままの何かを僕に手渡してくる。カニ缶《かん》かチョコレート、確率は半々といった見立てだ。 「ありがとうございます」と面自《おもしろ》みのない礼で受け取ってしまった。何てことだ。 「それとこれは、恋日《こいび》の分です」  もう一つ上乗せされた。こっちはコンビニ直輸入ではないのか、袋《ふくろ》なし。これで本日の収穫《しゅうかく》は去年度と比較《ひかく》して三千パーセント以上の増加である。グラフにしたら油性マジックが自分の腕《うで》に線を引きそうだ。 「それで、どういった経緯で奈月さんとこの子達が、」親子に、姉弟《きょうだい》に、誘拐《ゆうかい》しやがったな。どれも空手の練習台にされそうなので、つい自粛《じしゅく》した。そんな僕の戸惑《とまど》いを奈月さんが察したのか、艶《つや》やかな唇《くちびる》を開く。いや、察されたら地獄《じごく》突きが飛んでくるけど。 「今日の夕方、お二人がみーさんの住所を求めて訪ねてきたんです。家出から保護した後の事情聴取《じじょうちょうしゅ》で、みーさんとお知り合いであることを話していたのですが、それを覚えてくれていたようですので。お二人にみーさんとの連絡《れんらく》手段もありませんし」  奈月《なつき》さんが浩太《こうた》君達に微笑《ほほえ》みかける。その教育番組系の画一的な笑顔に、浩太君は曖昧《あいまい》に笑い、杏子《あんず》ちゃんは僕を凝視《ぎょうし》する。どうやらこの二人、奈月さんの顔は記憶《きおく》しても、解放された夜に道を覚えることは無理だったようだ。 「チョコレートをお渡《わた》ししたいという夢を叶《かな》えるのに協力は惜《お》しみませんでしたが、みーさんの都合を考慮《こうりょ》して、夜まで待って頂いたんです」  マユがいますからねえ、と恐《おそ》らく、四人の心中に同様の想《おも》いが渦巻《うずま》いた。 「お二人の親御《おやご》さんにも了解《りょうかい》を得て、不肖《ふしょう》私、上社《かみやしろ》が夜の外出に同伴《どうはん》させて頂きました。では浩太君と杏子さん、車に乗って下さい。用事が済み次第《しだい》、すぐに帰宅するのがご両親との約束です」  奈月さんが二人の背中に手をやり、駐車《ちゅうしゃ》場の青い車両へと導く。自家用車を所持していたのか。それと、池田《いけだ》杏子には『さん』づけで、御園《みその》マユが『ちゃん』づけなのはどういう基準で人を分類しているんだろう。  浩太君と杏子ちゃんが足取り重く、僕を見上げている。何だろう。まだ用事か、話でもあるのだろうか。困惑《こんわく》に彩《いろど》られる空気を換気《かんき》するように、「ついでにみーさんもどうぞ」と、奈月さんが僕まで誘《さそ》う。それで二人の足の重《おも》りと、表情の陰《かげ》りは外れた。 「車の中でもう少し、お話とか、」「……うん、そうしようか」  杏子ちゃんに手を引かれながら歩き出し、そして何の障害《しょうがい》もなく車に辿《たど》り着いてしまった。  奈月さんのことだから途中《とちゅう》で、「あ、この車は三人用でした」とか期待していたのに。あ、口に出してしまった。 「残念ですが、そうするとそちらのお二人も乗車せず、みーさんとお帰りになってしまうでしょうから。業務に支障《ししょう》を来《きた》すわけにはいきません」  天上から全《すべ》てを見通しているように、余裕紳々《よゆうしゃくしゃく》に答える奈月さん。 「そうなの?」と僕は二人に確認《かくにん》してみた。 「そうなんだよね?」と浩太君が杏子ちゃんに問いかける。  杏子ちゃんは耳を何らかの要因で朱色《しゅいろ》に染め上げ、「だから、そういうことは聞かなくていいの」と浩太君の手の甲《こう》を抓《つね》った。そして、僕を上目遣《うわめづか》いで見上げる。 「一緒《いっしょ》に、帰って」「……うん」  誘拐犯《ゆうかいはん》の片棒を担《かつ》こうとして、更には殺人鬼《さつじんき》の餌《えさ》として使った人間を慕《した》う少女。  この兄妹《きょうだい》は、何も疑問や嫌悪《けんお》を持たないのだろうか。  ……我ながら、不思議に皮肉な関係だけど。  事件は終わったのだから、  こういうのも、よしとする必要があるのかな。  ジェロニモカーの扉《とびら》を、  勢い悪く開いた。  車内では助手席ではなく、後ろ座席の中央に腰《こし》かけていた。  僕を挟《はさ》む形で、浩太《こうた》君と杏子《あんず》ちゃんが座っている。二人に並んで座らなくていいのかと確認《かくにん》したが、これでいいのだそうだ。 「長瀬一樹《ながせいつき》って子を知ってる?」そう何気なく、浩太君に尋《たず》ねた。 「あ、はい。三年生の時、同じクラスでした。泳ぐのがすごく上手《じょうず》な子ですよね」 「そう、それ」と知ったかぶる。一樹と海水浴にも市民プールにも出かけたことはないからな。姉も同様だ。 「気そうにやってる?」 「えと、クラスが違《ちが》うからあんまり会わないんですけど、知り合いですか♪」 「うん、友達なんだ。暇《ひま》なら仲良くしてみると、退屈凌《たいくつしの》ぎになるかも」  喋《しゃべ》りは鈍《にぶ》いが行動は迅速《じんそく》だから、見ていて飽《あ》きない娘《むすめ》っこなのだ。 「分かりました」と浩太君が頷《うなず》き、一樹についてはそれ以上、話を膨《ふく》らませることは出来なかった。  会話が消失する。残るのは走行音と、奈月《なつき》さんの口笛《くちぶえ》だけ。 「ああ、そういえば……」  右|側《がわ》の浩太君に話題を振《ふ》りかけて、左手の裾《すそ》を二度ほど引っ張られた。扇風機《せんぷうき》の如《ごと》くそちらに首を振ると、 「次はあたしと、お話よ」  杏子ちゃんが窓の外を向きながら、会話を要求してきた。 「あっ。ごめん、あんず」と浩太君が申し訳なさそうに、妹に謝《あやま》る。 「別に、あやまんなくてもいい」と、拗《す》ねた顔で兄を一瞥《いちべつ》する杏子ちゃん。 「ただ、はんぶんこって、思っただけ」 「うん、ええと……」正直、意味分からん。縦か横かもさっぱりだ。  ただ鏡に映る奈月さんの忍《しの》び笑いがアレなので、手裏剣《しゅりけん》を旋毛《つむじ》に刺《さ》し込みたくなったのは内緒《ないしょ》だ。さてと、杏子ちゃんを見つめるか。 「では、何か話そうか」「うん」「そういえば……………………………………………」さっき、浩太君に何の話題で談話を持ちかけようとしたんだったかな。車が右折した影響《えいきょう》でど忘れしてしまった。ちょっと、暖房《だんほう》効きすぎて冷《ひ》や汗《あせ》出るじゃないですか。嘘《うそ》だけど。  そんな困り果てた僕を見かねたのか、杏子ちゃんは会話を諦《あきら》めた。 「電話の番号、見せて」 「んっ?」小学二年生に助け船を出されて安堵《あんど》する高校二年生。 「覚えるから」  杏子《あんず》ちゃんが小さな手の平を差し出す。その上に収まりきらない携帯《けいたい》電話を僕のポケットから抜《ぬ》き出し、電話番号を表示させてから杏子ちゃんへ手渡《てわた》した。 「ぜろ、きゅう、ぜろ……」とぶつぶつ呟《つぶや》きながら、液晶《えきしょう》の数字と格闘《かくとう》する杏子ちゃん。奈月《なつき》さんに頼《たの》めばメモ用紙とペンぐらいなら貸し出しをしてくれるとは思ったけれど、それを見守ることにした。浩太《こうた》君も、微笑《ほはえ》ましそうに杏子ちゃんの様子を眺《なが》めている。  そして奈月さんも、今度は忍《しの》ばずに笑顔でハンドルを切った。 「はい、着きましたよ」  とある一軒家《いっけんや》の前で停車させ、奈月さんは到着《とうちゃく》を報告した。  洋風の建築で、ガレージには車が二台並んでいる。部屋は全室に明かりが灯《とも》り、窓からはみ出している。玄関《げんかん》には小さなモミの木が、季節外れに飾《かざ》ってあった。 「えと、それじゃ、またです」  浩太君が車から出て、ぺこりと頭を下げる。「うん、じゃあね」と挨拶《あいさつ》を返すとドアが閉じられ、浩太君が杏子ちゃんの側《そば》に回り込んでくる。杏子ちゃんはまだ座席に腰《こし》かけ、僕を見つめていた。 「今日も、帰るから」  杏子ちゃんが携帯電話を握《にぎ》ったまま、妙《みょう》な宣言をする。 「うん……?」 「おにいちゃんのところは、いちゃ、だめだから」  杏子ちゃんが僕に弱さをぶつけてくる。そういう、潤《うる》んだ瞳《ひとみ》は卑怯《ひきょう》である。その効力を自覚すれば、この子は将来、かなりの悪女になりかねない。 「また、家に帰りたくない?」  杏子ちゃんがぶんぶんと、以前よりこざっぱりした髪《かみ》を振《ふ》り乱す。 「そういうのじゃ、なくて」  じゃ、どういうのなんだ。浩太君も、妹の背後で困惑《こんわく》顔となっている。 「あんず」「分かってる」と、当人だけに通ずるやり取りで携帯電話は返してもらえたが、このまま帰宅させては、親御《おやご》さんに反感を植え付けさせてしまう。そんな落ち込み方をしている。  ……こういう時は、だな、 「何だか、他《ほか》にも色々と、どうしても困ったらだね……」逡巡《しゅんじゅん》、そして、 「090」 「えっ?」 「この続き、ちゃんと言える?」  一瞬《いっしゅん》、きょとんと、あどけない表情で虚《きょ》を突《つ》かれた杏子《あんず》ちゃん。けれど先程《さきほど》までの間近で暗記していた番号の始まりであることに気付き、喜楽を顔に浮かべる。  彼女は、続きを笑顔《えがお》で暗唱した。大正解だった。「なら良し」「よし!」  それだけで、良い夜だと思ってしまった。 「みーさんは年下にはお優《やさ》しいんですね」  助手席に乗り換《か》えた途端《とたん》、たおやかに椰楡《やゆ》された。 「まだ本当の紳士《しんし》じゃないから、年上にまで手が回らないんですよ」  車が方向修正を終え、走り出す。それに合わせて、懐《ふところ》に仕舞《しま》っておいたチョコレートを取り出す。 「ここで食べるつもりですか?」 「家に持って帰ると妻にやきもちやかれるので」というか、僕が焼かれる。  捨てられるのも、まあ回避《かいひ》した方がいいだろうし。 「やっぱりお優しいみーさん」と僕を苛《さいな》む言葉は無視して一つ目の包みを開く。流石《さすが》にマユの箱よりは希望に満ち溢《あふ》れているけど、これから行う四人分のカカオ菓子摂取《がしせっしゅ》は過剰《かじょう》の範疇《はんちゅう》に思えてならない。十分以内に全《すべ》て食べきった時、僕も血とか涙《なみだ》を吹《ふ》き出しそうだ。ついでに耳穴の排泄物《はいせつぶつ》が全部|砂糖《さとう》に取って代わりそうな気もする。それでも食う。がつがつと。甘いし美味《うま》い。 「みーさんはモテますね」嫌《いや》みだか感嘆《かんたん》なんだか、この人の笑顔からは何も推《お》し量れない。 「正直な話、どうしてあの子達が僕を慕《した》ってくれるのか、明解出来ないんですけどね」 「それは簡単なことです」と、奈月《なつき》さんは考え込みもせず応対してくれた。 「人にも自分にも甘さを許容し続けられる、その性格のお陰《かげ》ですよ」 「そうですかね……」同意出来なかった。二個目を齧《かじ》る。甘いね。 「それと、言い方は悪くなりますが立ち位置の影響《えいきょう》もあるでしょう。みーさんは、普通《ふつう》から少し離《はな》れていますから」 「……………………………………」指を舐《な》める。 「そういう人は、良かれ悪かれ人の目を引くものです。それはつまり、人と触れ合う機会が多くなるということです」  黙《だま》りこくる僕に、奈月さんが前も見ず微笑《ほはえ》みかけていた。ちょっと。 「みーさんはもう少し、自身の価値を自覚した方が楽しく過ごせますよ」  奈月さんに、頭の螺子《ねじ》が緩《ゆる》んでいない忠告をされた。「それから」と、もう一言続く。 「貴方《あなた》はもう少し嘘《うそ》を控《ひか》えれば、もっと私ごの、素敵《すてき》な男の子になれますよ」 「……………………………………」  奈月《なつき》さんは澄《す》ました笑顔《えがお》で運転の乱れもない。  けどなんか今、聞き捨てておいた方が賢明《けんめい》な台詞《せりふ》を途中《とちゅう》で揉《も》み消したような。 「……っく」  自分で名台詞をぶち壊《こわ》したよこの人。面白《おもしろ》格好良すぎる。  けど、人の為《ため》に嘘《うそ》を手放す気にはならない。……そうだな。  マユはみーくんに依存《いぞん》しているけど。  僕は、嘘に依存してるのかもねぇ。  ショッピングモールに通ずる道路を逆走して、養護学校の方へ差しかかる。後は学校の塀《へい》に沿って進み、マユのマンションがそびえ立つ住宅街へ入っていくだけだ。それで、長かった今日もやっと明日になる。  などと、一日の終幕に思いを馳《は》せていたら、 「ところでみーさん、恋日《こいび》の、!」人が道路の真ん中へ落下してきた。  前につんのめり、急ブレーキに食い込むシートベルトが首と腹を圧迫《あっぱく》する。がくんと、首が付け根をすり減らすように上下した、くそ、座席の下に食べかけが落ちた。 「あ、っぶないですね」  どちらが言ったか、確認《かくにん》しないまま前方を見やった。  養護学校の塀を飛び越《こ》えて現れたそいつは、車のライトに差し照らされて表面の個性を失っている。その影絵の人間は、右手に長細い物体、恐らく形からしてバットを握っていた。そして着地の衝撃《しょうげき》で何かを落としたらしく、手早く拾い上げる。あれは、ナイフ、か? 地面についた膝《ひざ》を払いながら立ち上がり、左手で何かを抱《かか》え直す動作を見せながら全力で遁走《とんそう》し出す。脇目《わきめ》もふらず、一直線に駆《か》けて闇夜《やみよ》に溶《と》け込んでいってしまう。何だったんだろう、泥棒か、変質者か。 「みーさん、痛めた部分とかは?」  運転の姿勢を正しながら、奈月さんが幾分真面目《いくぶんまじめ》に確認を入れてくる。 「あ、はい大丈夫《だいじょうぶ》です」  それより、車から離《はな》れる間際《まぎわ》に色彩《しきさい》を取り戻《もど》した、小柄《こがら》なそいつと目が合ったけど。  肘《ひじ》や腰《こし》の下に付着していたのは見慣れた血液の色で、手には子供用の木製バットで。  それに加えて何処《どこ》かで、見たようなあの顔つき、 「……っあ」  額と眉間《みけん》の皮の中を、多足な虫みたいに何かが粘着《ぬんちゃく》質に抜《ぬ》け落ちる。  昔々、半分の血、犬殺し、猫《ねこ》食い、葬儀《そうぎ》、蜜柑《みかん》。  妹がい、いも、? うと、いもうと?僕の! 妹?  今のが?  僕の身肉の内側《うちがわ》を這《は》いずり回るものに、皮越しで爪《つめ》を立て、何かを呪《のろ》った。  もし、僕の記憶《きおく》と眼球が正常だったとしたら。 「ああ……もう、何だ、あれ」  なんで、なんで生き返ってるんだよ。 「みーさん?」と、奈月《なつき》さんに肩《かた》を揺《ゆ》すられる。  今度は、大丈夫《だいじょうぶ》ですと受け答えるのさえ失念した。 「今の……」 「はい、今の子がどうしました?」 「死んだ妹かも、知れないんです、僕の……」  嘘《うそ》もへったくれもない台詞《せりふ》に、奈月さんはただ目を丸くこさえた。  こうして、世のたっくんやひーちゃんやつっくんやあっちゃんやゆっくんやこーち ゃんやなっちゃんやみーくんやまーちゃんが世界で一番浮かれて色ボケる日の締《し》めくくりは、懐疑《かいぎ》と呆然《ぼうぜん》と理不尽《りふじん》を僕に残して過去に消え失せた。  翌日、僕は学校の朝礼で知る。  僕が妹っぽいものに遭遇《そうぐう》した日。  その夜に起こっていた、宗田義人《そうだよしひと》の死。  二ヶ月の短い静穏《せいおん》へ精一杯《せいいっぱい》の反抗《はんこう》を示す、美化委員長の惨殺《ざんさつ》死体。  最悪な、殺人街としての街興《まちおこ》しが再び始まったことを。  それの立て役者は、僕の妹(多分)だった。  ……口癖《くちぐせ》の出番は、あるなら早めによろしく。 [#改ページ]  二章『我が家の妹さま。』 [#ここから3字下げ]  切る砕く刻む切る砕く積む  切る砕く損ねず切る砕く止めず  切る砕く細かく切る砕く正しく  切る砕く濁音切る砕く低音  切る砕くばらばらに。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  父の名は南《みなみ》。母は美沙《みさ》で、兄は司馬《しば》。妹の名は僕の口からはとても言えない。  父は眼鏡と、鳥肌《とりはだ》の出るような笑顔《えがお》が似合う、線の細い男。その温厚な容姿とは裏腹に大酒飲みの大食漢で、午前三時に門戸を叩《たた》いて騒《さわ》ぎ、帰宅することが日常に等しかった。ただ、それでも翌朝には何食わぬ表情で朝飯を食べ、仕事に出かけていたのだから、その点だけは家族に高評価されていた。母が死に、妹の母親が家に住み着くまでは、と限定されるけど。  趣味《しゅみ》はラジオとの軽快なトーク、それと一方的な肉体言語。女性の好みは、十|歳《さい》前後の少女、特にまーちゃんと長瀬透《ながせとおる》が大のお気に入り。……僕の嗜好《しこう》は親譲《おやゆず》りと判明。反吐《へど》が出るほど嘘《うそ》にしたいけど、どうだか。享年《きょうねん》三十九歳。不惑《ふわく》の四十歳は迎《むか》えられなかった。  母は伸《の》びきった背筋と実直な性格の、無理矢理にカテゴライズするなら直線系の女性だった。僕は常に猫背《ねこぜ》であることを注意され、食卓《しょくたく》では正座を推奨《すいしょう》という名の強要をされた。負《ま》けず嫌《ぎら》いで、父と喧嘩《けんか》しても絶対に自分から頭を下げることはなかった。  死因は不明。確か忘れた気がする。享年三十二歳、死体の背筋まで真《ま》っ直《す》ぐな、死《し》に際《ぎわ》までらしさを伴《ともな》う人だった。  兄は末は本好きの青年ぐらいならなれるだろうと極《ごく》一部の期待を集めていた少年だった。五歳の時のお年玉で髪《かみ》を金色に染め始めて、かつて祖父が収集していた本を読み漁る生活が彼の日常。僕は兄と十分以上会話を継続《けいぞく》させたことがない。妹と・妹の母親を嫌《きら》っていたのか、一言も口を利《き》くことはなかった。最後は一学期の終業式に、体育館の天井から飛び降り自殺。全校生徒にトマトケチャップのトラウマという思い出だけを残し、この世を去った。  それ以来、僕はその件で同級生に揶揄《やゆ》され、無邪気《むじゃき》な悪意の存在を知ったわけだけど。  そんな家族のことを、作業に勤《いそ》しむ伏見柚々《ふしみゆゆ》の背景に思い浮かべていた。 二月十九日、放課後。美化委員長の宗田義人《そうだよしひお》が殺害されてから五日後の、午後三時半過ぎ。  僕は寒風の吹《ふ》き荒《すさ》ぶグラウンドで、部活動に参加していた。 「…………………………………」 「はいはい」  伏見が掲《かか》げる手帳に従い、音響《おんきょう》を調節はそれを一瞥《いちべつ》してから、自身の作業に戻《もど》る。ただ、今日は部員が全員参加(言ってて切ないものが込み上げそうだ)している為《ため》か、目尻《めじり》の緩みが普段より強化されている。  伏見柚々。アマチュア無線部の部長で、二年生。彼女を文字で表現するのは難しい。敢《あ》えて挑戦《ちょうせん》するなら、奇女《きじょ》の二文字が相応しいか。容姿、性格共に悪いわけではない。  彼女の最大の問題点は、その言語に対する、独特の価値観である。  伏見の携帯《けいたい》する藍色《あいいろ》の手帳には、様々な単語、文章が書き込まれ、その尻《しり》には『正』の字が幾《いく》つか連なっている。本人曰《いわ》く、ストックしているそうだ。それに何の意味があるかは、他人からは不明瞭《ふめいりょう》だ……。不明瞭《ふめいりょう》、俺ルールの範疇《はんちゅう》なのだろう。生徒会の一員としては基本形だ。  僕が適当に入部し、部室に入った時の伏見の第一声は『歓迎します歓迎します歓迎します』だったからな。僕もつい『よろしくスよろしくスよろしくス』と物腰《ものごし》低く応対してしまったのはまあ嘘としても、溜《た》めた二回の使用される機会は未《いま》だ巡《めぐ》って来ないのがもの悲しい。  それと、もう一つ。伏見に問題点があるとすれば、制服|越《ご》しでも自己主張の激しい胸部か。  日本人の嗜好《しこう》とは相容《あいい》れない部分があるかも知れない。歩くだけで上に参ったり下に参ったりするからな。 「はい、終わったよ」  報告すると、伏見は手帳の『待機』を指さす。僕がそれに対して返事をすると、消しゴムで『正』から棒を一本差っ引く。その二度手間としか感じられない作業に本人がご満悦《まんえつ》そうなので、口を挟《はさ》む余地はないけど。  子供の頃《ころ》は、こんな癖《くせ》のある奴《やつ》だとは知り得ていなかった。  部長の指示通り、手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》で待ちほうける。暇《ひま》なので伏見と見つめ合ってもいいんだけど、Mさん(あ、姓名どちらもだ)に怯える僕がそんな命知らずな行いに出るわけがなかった。  校舎を挟んだ位置にある専用グラウンドから、野球部の金属バットの悲鳴が木霊する。それに加えて背後からは、剣道場の竹刀《しない》の交差する音。そしてそのBGMと、僕らが調整している音楽機材に合わせて歌えや踊《おど》れやの狂乱を見せる演劇部。同校の生徒が一人死亡しようと、殺人鬼《さつじんき》再来とニュースで謳《うた》われようと、世は平穏《へいおん》に事もなし。約一名を除いて。  ……それはさておき。  栄《は》えあるアマチュア無線部の活動とは、演劇部の手伝いだった。  何かしらの活動を行わなければ部費を支給されない為《ため》、伏見はこの仕事を不承不承に請《う》け負っている。部長、副部長共にアマチュア無線の級を取得していないのがその主原因だった。三級アマチュア無線技士など夢のまた夢だ。僕は漢検三級、伏見は英検四級しか資格がない。  つまり僕達は、アマチュア未満である。帰宅部と何ら変わりない。 「新年度は部員|勧誘《かんゆう》とかするの?」  剣道場に続くアスファルトと、黄土のグラウンドを隔《へだ》てる縁石《ふちいし》に腰《こし》を下ろしている伏見に話しかける。伏見は手帳を捲《めく》り、相応《ふさわ》しい単語がなかったのか久方ぶりに口を開く。 「お前に一任する一任する一任する」  再生と巻《ま》き戻《もど》しを交互《こうご》に連打したテープと化す伏見。その声質は特徴《とくちょう》的で、砂漠《さばく》で喉《のど》に砂が張り付いたように掠《かす》れている。声というより、もはや音に近い。手帳にメモる。  伏見から、視線を演劇部に移す。羞恥心《しゅうちしん》を克服《こくふく》する練習として、部員が一人ずつ持ち歌を熱唱している。CDの用意が出来ない奴《やつ》はアカペラだ。今は部長の篠田《しのだ》が、野太《のぶと》い声で負けないでと絶叫《ぜっきょう》している。勝てそうもない歌唱力だった。いやいや、それはどうでもいい。  問題は、というか厄介、というほどでもないけれど、僕が注視するのは演劇部の片隅で活動を無視して運動する、体操着のマユだった。外出用の、余分な表情を切り外した能面状態で四肢《しし》を動かすマユは、人形劇の大役を担《にな》っているようだ。そしてその側で佇《たたず》み、マユを見守るかのように微笑《ほほえ》む男子の姿が何というか、カレーについてくる味噌汁《みそしる》以下というか、付け合わせする意味あるのか、って思うところがあるんだよねっていう、意味分からんけどさ。  男子はこの間、教室でマユを部活に誘《さそ》っていた同学年で、名を稲沢泰之《いなざわやすゆき》と二日前名乗っていた。けれど二日経過しているので、僕の記憶《きおく》が劣化《れっか》したか、彼が改名したかで稲葉一将《いなばかずまさ》になっているかも知れない。よって、以降は稲葉と呼称することに決定した。意味のない嘘《うそ》だ。  さて何故《なぜ》、生物嫌《きら》いのマユが嫌悪《けんお》する集団行動を取っているのか。それはやはり、彼女の脇腹《わきばら》の肉付きに起因するわけだ。  四日前、起床《きしょう》したマユは猛省《もうせい》を自発的に啓発《けいはつ》した。「痩《や》せるのー!」と僕を往復ビンタしながら宣言し直し、マユは奮《ふる》い立った。そして僕のいない間に稲沢に何を吹き込まれたのか、減量の方法を学ぶために演劇部の一員として単独で身体を振ったり跳ねたりしているわけだ。他《ほか》の演劇部員は見て見ねふりという、賢明《けんめい》な態度を取っている。稲沢以外。  初日は僕も側で見学していたのだが、そうすると一分の間に三度はバカップルの目線が合い、その度《たび》にマユの身体が停止してしまうという結果になった。よってマユは泣く泣く、僕と距離《きょり》を取って頑張《がんば》ることにした。その決意は僕の心に使い捨てカイロを張り付け、目頭を煮沸《しゃふつ》消毒した。まあ、数日|経《た》っているので既《すで》に効能は失《う》せているけど。  とにかく、マユは減量の努力に明け暮れている。それを無下《むげ》に止める権利は僕にはない。指摘《してき》した張本人であるという理由もあり、また、彼女の場合は危険な方向性に暴走していく傾向《けいこう》が多々見受けられるので、健全な行いを否定するわけにはいかないという事情もある。 「あん」と目に運べば素直《すなお》に食べてくれるのは夕食で確認《かくにん》済みなので、極端《きょくたん》な断食に走ることはないと若干《じゃっかん》、安堵《あんど》して容認している。  ……しかしだな、稲沢君がだね、うーむ……赤札。 『何睨《にら》んでるの?』と伏見《ふしみ》の手帳。 「電波を送っているのです」 「機械も使わずに?」と、今度は肉声。 「機械に頼《たよ》らないのがプロなのです」嘘だけど。 「プロ電波か」  伏見が目を丸くしている。その反応から察したくないんだけど、無線界ではそんな内角|抉《えぐ》る危険球な単語が平常的に存在していたりするんでしょうか。 「プロ電波プロ電波プロ電波」  伏見のシャープペンが紙面を走る。自身が電波そのものとは、流石《さすが》、無線部の部長さんだけある。無免許カリスマ無線技士とか目指せる逸材《いつざい》を発見した。嘘だけど頑張ってくれ。 「あ、そういえばこの間の召集《しょうしゅう》令状なんだけど」  手帳を横着に捲《めく》り、眼球が左右に反復横跳《と》びと、伏見が挙動|不審《ふしん》になる。……何故《なぜ》に。 「白紙の意昧は、部活来いで合ってるよな?」  やや逡巡《しゅんじゅん》した後『うい』という返事を手帳で示す。その上にある『はい』をどうして使わないのか。 「で、アケチってなに?」  ページを破り取るような勢いで検索《けんさく》し出す。辞書と取り違《ちが》えてないかこいつ。 「……あのな、柚々《ゆゆ》」  片手で伏見の両頬《りょうほほ》を掴《つか》み、タラコ唇《くちびる》を形作った。  マユは「ふぎゅ」と鳴いて、伏見は「うぎゅ」と呻《うめ》く。 「怪人《かいじん》二十|面相《めんそう》と談話するか、友達に明智君でもいない限り、アケチと関連した文章は蓄積されてないだろ」  そしてどんな理由に基づいて動揺《どうよう》していたんだ。  伏見は息継《いきつ》ぎをするように唇を開閉し「ひゅひゅ」と何度か空気を吐《は》き出すので、何か言い分があるのかと手を離《はな》す。  指型に赤みを増した頬をさすってから、伏見が呟《つぶや》いた。 「ゆゆ」 「ん?ああ、つい。気に障《さわ》った?」  幼少期、顔だけは知っていた馴染《なじ》みで。  伏見は昔、電柱の陰《かげ》(と見栄を張る。木の陰だったよ、悪いか)に隠れて僕が妹に殴《なぐ》られるのを遠くから眺めていた。家が、わりかし近所だったのだ。ラベルってライトノベルの略称なんだぜと偽知識を教え込んでいたセピア色の日々に涙《なみだ》が一筋。嘘だけど。  伏見とはその時期、一度さえ会話したことはない。伏見は距離《きょり》を詰《つ》めようとはしなかったし、僕も、歩み寄りはしなかった。その頃《ころ》は、今と違って無気力だったのだ。  伏見の筆が「ゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆ」というか伏見柚々が壊《こわ》れた。  電波がゆんゆんにびびびと彼女を中心に飛び交《か》っている。そんなに下の名前を呼ばれるのが嫌《いや》だったのか? 生理的な拒絶としか取れない反応だ。  手帳も一面の『ゆ』が埋《う》め尽《つ》くしていく。六十数回ストックのあるこんにちはが『ゆ』に塗《ぬ》りたくられ、正が一字記された、パンとか食べればいいじゃないも書き換《か》えられる。何処《どこ》で使う気だったんだこいつは。 「おい、ふし「おぎゃあぁぁぁぁぁぁ!」  いきなり、それまでの行動を放棄《ほうき》して手帳と自身の身体《からだ》を地面へ放り投げ、伏見の鳴き声。てっきり赤ん坊になった時の為に台詞《せりふ》を熱演しているのかと勘繰《かんぐ》ったら、山と谷に恵まれた胸を揺《ゆ》らしつつ目が空を薙《な》ぐ。僕も釣られて振り向「く」派手に飛び退《の》く砂上を転げ回る何故なら目前に金属の物体が飛来してきていたか「ら」!  口内に入り込んだ砂の感触《かんしょく》。次いで、破裂《はれつ》するかの如《ごと》き衝突音《しょうとつおん》。 「……………………………」  舌がもつれるなんて、何年ぶりだろう。  グラウンド整備に使う金属製のトンボを、マユが遠心力を活用してぶん投げてきた。その投擲《とうてき》はパン屋の助手ばりの見事なコントロールで○・二秒前、僕と伏見《ふしみ》が座っていた地点に直撃《ちょくげき》し、その背後にあった演劇部の機材は派手に巻き込まれた。記録はスペアといったところか。 「投げつけられた投げつけられた投げつけられた」  同方向で足を崩してへたり込んでいる伏見は、こんな時でも冷静に補充。お前は以降の人生で、少なく見積もって二度はこんな現場を体験する気なのか。どれだけ修羅場《しゅらば》に誘《さそ》われる人材なんだ。  冷《ひ》や汗《あせ》が気温を超越《ちょうえつ》して溢《あふ》れ出す。演劇部員は悲鳴の余韻《よいん》を周囲にざわつかせ、遠巻きに事の成り行きを野次馬《やじうま》している。顧問《こもん》の教師まで、呆然《ぼうぜん》と、一観客に成り下がっている。  そして我らがまーちゃんは、捻《ひね》った体勢を立て直さず、僕を視線で射殺そうと試みていた。稲沢《いなざわ》もマユから一歩引いている。まだまだ覚悟《かくご》が甘いな、と勝ち誇ってる暇はない。残ったCDオーディオがけたたましく、ちょっと待ってよと主張する。 「お前の彼女は寝不足《ねぶそく》と見た」  伏見の分析《ぶんせき》はある意味で的確だった。マユは今日の授業中、親友である睡魔《すいま》が『あーそーぼー』と誘《さそ》ってきても、涙《なみだ》ながらに(欠伸《あくび》混じりに)断ろうと奮闘《ふんとう》していた。結果は、一時限目だけは頬杖《ほおづえ》を突《つ》いて一勝五敗だ。白星があっただけで大健闘といえる。  しかし、今は伏見にそんな返事をすることは許されない。これ以上、マユの前で伏見と口を利《き》けば後で挽回《ばんかい》することが不可能な領域に登り詰《つ》めてしまう。とにかく早いところ、マユとキャッチボールではなく会話せねば。不意打ちは二度目であるから、多少は慣れもある。心臓の動悸《どうき》の激しさに息を上げながら立ち上がり、マユの下《もと》へ歩き出す。次のトンボが羽を手に入れる前に。 「死んじゃえ」一歩近寄ると、マユの声が校庭に響《ひび》く。その通りだ、と今回は肯定《こうてい》しない。更《さら》に詰め寄る。 「わたし以外になんで触《ふ》れるの?」  マユは怒《いか》りより純粋《じゅんすい》に、不思議がる。人間には相応《ふさわ》しくない質問だけど。  それはまーちゃんより弱いから、だよ。  マユと僕だけの、極小《ごくしょう》の世界で生きるのが怖《こわ》くて、仕方ないから。  それが、僕なりの浮気の正当性。  右足の傷跡《きずあと》にローキックを何発も入れて、業《ごう》を煮やしたマユが僕の横をすり抜ける。僕はそれを追いかけなければいけないのだけど、そこにある義務感に寂寥《せきりょう》を覚え、足が痛むことにして、笑いを込み上げさせながら立ち竦《すく》んだ。マユが伏見《ふしみ》には目もくれず、校舎へ戻《もど》っていくことに多少の安堵《あんど》感を入手して。 「というかさ……」  大人しく、怜悧《れいり》な印象さえ周囲に滲《にじ》ませた御園《みその》マユの人物像は、既《すで》に同級生から失われてる。  マユの学校内での立場は、みーくんと再会したことで目覚ましい変化を遂《と》げているわけだ。  僕も、それを見習って七変化ぐらいしないと駄目《だめ》なわけかな、いい加滅。  などと見え透《す》いた嘘《うそ》つきになってみる。  あははっはは。  洒落《しゃれ》込みで痛感する。  僕と、マユ。  集団生活の場に溶《と》け込もうとする方が間違《まちが》ってるんだよな、きっと。  全くさぁ、妹のこと考える暇《ひま》もないや。  縁石《ふちいし》の上には丁度、剣道場から出てきていた枇杷島《びわしま》と、女子剣道部員も目撃していたのか石像もどきに凝《こ》り固まっている。あ、金子《かねこ》もその後方に発見した。それと、長瀬《ながせ》も体育館から出張してきていた。あいつ、何部だったかな。  僕の彷徨《さまよ》う視線とは異なり、いつの間にか側《そば》にいた伏見は枇杷島その他の方向を直視する。 「奴《やつ》も寝不足《ねぶそく》」  みんな寝不足じゃねえか。しかも誰《だれ》を指してるんだ。 「……じゃあ、あれか僕も寝不足なのか?」 「お前は死《し》に体《たい》」  辛辣《しんらつ》に正直な伏見の評価。  ダウト、とも言えないし、嘘《うそ》だけどとも付け加えられない。  ぼくはマユにとって死んだ人間であり、  僕はマユにとって死んだ人間を利用しているのだから。  それから周囲の視線に対して釈明《しゃくめい》せず部活を打ち切り、マユを追走した。  教室の僕の席が滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に荒《あ》れて、鞄《かばん》が切り刻まれて原型を失っていたので、それの片づけをしていたぶん遅《おく》れたけれど、通学路の半ばでマユの背中を捉《とら》えることが出来た。制服に着替《きが》えもせず、体操着のまま田舎《いなか》道を遊歩している。  歩き方自体は普段《ふだん》と大差ないけれど、立ち上《のぼ》る気迫《きはく》が陽炎《かげろう》のように空気を歪《ゆが》めている……という漫画《まんが》的表現が似つかわしい、『何か』がその後ろ姿に見えた。今、マユの足下《あしもと》や行く先に動物(場合によっては人間含《ふく》む)が頑張《がんば》って生活し、みんなみんな生きていて友達になろうとしていても惨殺《ざんさつ》必至だろう。おや、それだと一連の事件はマユが犯人だったことになってしまう。それはアリバイを根拠《こんきょ》として否定するが、別に犯人であったとしても違和《いわ》感がない。  作物のないたんぼと、買い取った土地に出来た建て売り住宅に挟《はさ》まれた道で、僕はマユの隣《となり》を無許可で立ち位置とする。それからマユの横顔を覗《のぞ》く為《ため》に振《ふ》り向こうとした出合い頭に、頬《ほお》と拳《こぶし》が触《ふ》れ合った。その出会いと別れの経験が熱を帯びて頬を侵食《しんしょく》する。僕はそれで安心した。  眼中にも入れなくなるのが最も危険に厄介《やっかい》であるからだ。 「まーちゃんさ、力持ちだよね」  返事はない。天下取りでも胸に秘めているような、揺《ゆ》らがない真正面への凝視《ぎょうし》。外でのマユには貴重な不機嫌面《ふきげんづら》。  今のところ、僕は電柱や小鳥と差のない風景に扱《あつか》われているらしい。最初の一発は、内包しきれない余剰《よじょう》の憤怒《ふんぬ》の発散だろう。 「手、握《にぎ》っていい?」  馬耳東風《ばじとうふう》の態度を取られる。埒《らち》が明かない。 このまま帰宅しては、鍵《かぎ》をかけられて拒絶《きょぜつ》される公算が大きい。早めに修復しないと。  マユが競歩の速度に加速する。僕も追い縋《すが》ると、鞄《かばん》を投げつけてきた。顔面ブロックしながら鞄を受け止め、認識《にんしき》を訂正《ていせい》する。風景よりは重要視されているみたいだ。  新築が建ち並ぶ住宅街に入っていく。後五分もあれば、マンションのホールにまで到達《とうたつ》してしまう。やむを得ない。身から出た錆《さび》なので蒔《ま》いた種は自ら刈《か》り取り、背に腹は代えられないのだ。 「悪かったよ、けど」と前置きして、 「まーちゃんも、ほら、男子と一緒《いっしょ》にいたよね」  演技で羞恥《しゅうち》心をちらつかせる。この台詞《せるふ》で騙《だま》すには、純情っぽさを滲《にじ》み出すことが重要な課題である。そういった点では、マユにしか通用しない。先生や奈月《なつき》さんには底が割れてるし。  もっとも、マユは僕の底を勝手に作成しているんだけど。  マユが、味付けで例えれば醤油《ししょうゆ》一|滴《てき》ほどの微細《びさい》な反応を見せる。脈ありかな。 「別に当てつけとか、そんなつもりじゃなかったんだけど。ただ、僕みたいな浮気性《うわきしょう》の屑《くず》とは違《ちが》って、まーちゃんは初志貫徹《しょしかんてつ》にみーくんを好いてくれてるからさ。ああいう光景に慣れてなくて、……戸惑《とまど》ったよ」  嘘《うそ》だけど。……いや、本当に嘘ですよ。  マユがようやく、目を合わせる。減速し、僕を見上げる。 「ごめん、我《わ》が儘《まま》だね」と僕は頭を下げた。その際に後頭部に手加減のない拳骨《げんこつ》が降り注いだけど、気にも留めない。問題が解決したら痛がることにする。  面を上げ、見つめ合う。別に宿命の火花は散らさず、電気信号を送受信する要領で。  マユの戦慄《おのの》いた唇《くちびる》は何も語らず、目を逸《そ》らす。  そして、一拍遅《いっぱくおく》れるように、独《ひと》り言《ごと》めいた言葉を漏《も》らした。 「部屋、帰って話す」  微妙《びみょう》に片言《かたこと》な喋《しゃべ》りで、譲歩《じょうほ》してくれた。「ありがとう」と言うほかない。  マユの優《やさ》しさは、これが臨界点《りんかいてん》なのだから。  その後は無言で、手は繋《つな》がず、けれど付《つ》かず離《はな》れずを保ってマンションまで歩いた。  自動ドアを通ってホールに入り、エレベーターを待つ。  口笛《くちぶえ》が何処《どこ》か遠くから響《ひび》いていた。曲は判別し辛《づら》いが、甲高《かんだか》い音程。  その演奏のサビ部分でエレベーターが下りてきて、音楽|鑑賞《かんしょう》は中断された。  昇降機の中は、無言の空間。  壁《かべ》に背を任せながら、点灯《てんとう》している数字を見上げる。  ……鞄《かばん》を失って、トンボ投げて、演劇部の資材を破壊《はかい》して、伏見《ふしみ》もマユの怒《いか》りを買って。  一層、学校に行き辛くなったことを今更《いまさら》のように気付いた。  それから、部屋に入ってリビングまで行って、二人で床《ゆか》に座り込んだ。リモコンで暖房《だんぼう》を稼働《かどう》させるも、木目の床は氷結していると濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せても問題ないほど冷血で、両足が自然と羽ばたいてしまう。早く居ても立ってもいられる環境《かんきょう》に改善されてほしい。  と、いうことで気温の上昇《じようしよう》を待つ間、膨《ふく》れ面《つら》をしているマユと一方的にイチャイチャして暖を取ることにした。手始めに抱《だ》きしめにかかった。  隣接《りんせつ》して腰を下ろしていたマユは目立った抵抗をせず抱きつかれる。むしろ、身体の重心は僕に預けてきている。マユの膨れた頬《ほお》を突《つつ》き、顔を覗《のぞ》きながら尋《たず》ねた。 「まだ怒《おこ》ってる?」「ばかみーくん」ご立腹の様子だ。  マユを移動させ、僕の足の間に置いて抱き直す。マユが一番好ましいと感じる抱き方だ、次点で座っている僕の膝《ひざ》に乗り、正面から抱擁《ほうよう》する体勢。こっちとしては鳥肌《とりはだ》が大暴れするので、敬遠がちだけど。 「明日、一緒《いっしょ》に学校休もうか」  マユの髪《かみ》を人差し指に緩《ゆる》く巻き付けながら、素行不良な休日を提案してみた。  マユは日差しに目を細めるように、薄《うす》目で僕を見上げた。  ご丁寧《ていねい》に教科書も破壊《はかい》されてたから、無理に登校したところで、右|隣《どなり》の席の女子生徒に嫌《いや》そうに教科書を見せてもらう→まーちゃんの逆鱗《げきりん》触《ふ》れすぎ→机が空を飛ぶ日→機嫌《きげん》直しに従事、以下繰り返す、という悪夢が待ち構えているとの電波を眼鏡の編集者から受信した。そして最後は僕が空を駆《か》け下りる日が訪《おとず》れるであろうとも。……ん、それは既《すで》に経験済みか。わはは。 「まーちゃんが何処か出かけたいなら付き合うし、一日中部屋で寝転《ねころ》んでるなら僕が枕《まくら》になるよ。つまり、ご機嫌取りかな」  ここは正直に、鼻の奥からサワヤカを振《ふ》り絞《しぼ》る姿勢で臨《のぞ》む。が、惜《お》しい。出てきたのは『サリバン』って感じか。 「でも僕は、まーちゃんと楽しく過ごしたいからさ。だから、姑息《こそく》な手段にも手を染める」  例えば、偽名《ぎめい》とかね。うふわはは。  先刻、伏見《ふしみ》に行ったようにマユの頬《ほほ》を摘《つま》む。絞《しぼ》ると、二酸化炭素の代わりに出張っていた怒りも含《ふく》め、空気が抜《ぬ》けた。萎《しぼ》んだ頬と吊《つ》りが弱まったマユの目尻《めじり》。  葛藤《かっとう》して、返事を練っているマユを足で挟《はさ》み、抱 《だ》きかかえて達磨《だるま》のように寝転《ねころ》ぶ。ごろごろと寝返りを打ち、抱き心地《ごこち》が素敵《すてき》だなぁと、親近な物思いに耽《ふけ》る。こういうのを総称してバカ(特に省略してない)という。  試験には出ないが世間には頻出《ひんしゅつ》するので、対策は各自で打ち立てておくこと。  警察を恐《おそ》れない蛮勇《ばんゆう》な人には石がお勧《すす》めだゾ☆ 狙《ねら》い目は河川敷《かせんじき》★  架空《かくう》の教育番組のおねえさんが、如何《いか》にして解雇《かいこ》されたかの過程を妄想《もうそう》していたら、マユの呟《つぶや》きによって打ち切りとなった。 「もう絶対|浮気《うわき》しない?」  僕の目を抉《えぐ》れるほど見つめ、マユが確認《かくにん》する。大分、歩み寄ってくれた。 「まーちゃんの浮気の定義って何かな?」 「話したら」それは難易度が「触《ふ》れ合ったら。笑ったら。優《やさ》しくしたら。みーくんはわたしのだもん。みーくんの心とか優しさとか全部、わたしのだから。人にあげるなんておかしいよ」 「人を物扱《ものあつか》いするんじゃありません、メッ」  …………………………………。あ、反対だった。メッした後、嘘《うそ》だけどって訂正《ていせい》を入れる腹積もりだったのに。些細《ささい》な動揺《どうよう》に、些末《さまつ》な失敗を引き起こされた。 「べつにそんなことしてないもん。みーくんはまーちゃんのってことは普通《ふつう》だもん」とマユは幼児《ようじ》な反論をする。不純に貧欲《どんよく》だな、まーちゃんは。  そのうち、今度は僕が監禁《かんきん》されるかも知れないな。  暇《ひま》を見計らい、和室には退屈《たいくつ》を凌《しの》げる玩具《がんぐ》や本を用意しておこう。備えあれば憂《うれ》いなしだ。後は金属製のスプーンを脱出用に常備しておかねば。無理だけど。 「で、どーなの? うわきしょーなみーくん」  幼稚《ようち》な口調で嫌《いや》みを交えてきた。マユも、会話を本能に頼《によ》りきる状態から脱《だっ》しようとしているのか、と買い被《かぶ》ってみた。 「勿論《もちろん》これっきりだよ。まーちゃんこそ男を千切っては投げ、取《と》っ替《か》え引っ替えしないと宣言《せんげん》しなさい」 「するわけないでしょー!」と、伸《の》びた爪《つめ》で引っ掻《か》いてくる。近いうちに切らないとな。 「いくちまーちゃんが大人の魅力《みりょく》でふぇろもんバシバシでも、人間なんか相手にしないもんねー」と首を傾《かたむ》けて同意を求められたので「ねー」と合わせて、内心は『みーくん』が宇宙生物扱いされていることに溜息《ためいき》を吐《つ》いた。  いやはや、マユは難しい。  複雑じゃないから、解決方法がない。  高校卒業後の進路は、山小屋で隠遁《いんとん》生活を送る将来も検討《けんとう》する必要があるわけか。というより、将来。マユとの未来。老婆《ろうば》と老爺《ろうや》になるまで歳月《さいげつ》を重ねても、『みーくん』『まーちゃん』なのか。……月日は残酷《ざんこく》で、若さは何より尊い、と黄昏《たそが》れる十八|歳《さい》の冬。 「機嫌《きげん》、大分直った?」  将来のことは考えなかったことにして、今のマユに尋《たず》ねた。  返ってきたのは「直ってなーいー」と上機嫌な明答で、それに伴《ともな》って体育座りだった足が、テーブルの下へ真《ま》っ直《ず》ぐ伸《の》ばされる。 「だからみーくんはもっともっと、まーちゃんに尽《つ》くさないと駄目《だめ》なのです」  にまぁっと、玩具《がんぐ》を片手にレジへ向かう子供の笑顔。  風邪《かぜ》ひくずっと看病理論の亜流《ありゅう》か。こちらの方が、平和ではあるけど。 「はいはい」肩《かた》を揉《も》んだり髪《かみ》を撫《な》でたりして、ひとまずは状況《じょうきょう》が回復したことに胸を撫《な》で下ろす。  マユがリモコンを取り、テレビが息を吹《ふ》き返した。仰々《ぎょうぎょう》しい効果音に遅れて、刺々《とげとげ》しいテロップが暗闇《くらやみ》から浮かび上がる。おー、やってるやってる。  我が街が殺人街という焼き印を押されることになった、駄目押《だめお》しともいえる今回の殺人事件。  今では全国区に名を馳《は》せ、学者や統計学の権威《けんい》とやらが街の状態を分析《ぶんせき》して饒舌《じょうぜつ》に語って下さるようになった。それを拝聴《はいちょう》する度《たび》、何も食してないのに噴飯《ふんぱん》しそうだ。  美化委員長の宗田義人《そうだよしひと》が殺害されたのは二月十四日の、午後八時過ぎ。丁度、僕が奈月《なつき》さんに送ってもらい、妹(予想)と遭遇《そうぐう》した時刻と一致《いっち》している。殺人現場は、神社から程近《ほどちか》い養護学校の裏手側で、僕らが妹(候補)を見かけたのは学校の表側だ。そんな妹(疑)が轢《ひ》かれることも厭《いと》わず全力で逃亡《とうぼう》したのだから、奈月さんが疑わないはずがない。すっかり容疑者候補である。その上、僕の妹(暫定《ざんてい》)であるとつい口を滑《すべ》らせてしまった為《ため》に、事態は一層、混迷に突《つ》き進むことになった。  しかし、あいつは既《すで》に死んだ人間だった。戸籍《こせき》でも死亡|扱《あつか》いになっている。僕と同様に妹の衣服に付着した血液を目撃《もくげき》して、疑惑《ぎわく》を膨《ふく》らませている奈月さんに、あいつの住所を尋《たず》ねられても答えようがない。僕はずっと、空の上か土の下にいらっしゃると認識《にんしき》して墓参りしていたのだから。というか、あれが本当に妹かどうかまだ、定かじゃないわけで。大体、この街で暮らしていたなら八年間、まるで出会《でくわ》さなかったことも妙《みよう》だし。  義人の死体は制服姿の学校帰りで、顔面や上半身は破裂《はれつ》して中身が飛び出していたけど、下半身は土|汚《よご》れだけで無傷だった。微妙《びみょう》に中途半端《ちゅうとはんぱ》ではあるけど、ただ、その死骸《しがい》へのこだわりからこれは、動物を殺害していた事件と同一犯であると大多数の人が結論づけている。また、学者の中には犬の死骸を眺《なが》めることで殺人欲の同調を見せ、人間を殺害した第二犯人説を主張する人もいた。つまり、この街の住人はすべからく殺人|狂《きょう》だと遠回しに指摘《してき》しているわけだ。 「ニュースは好きくない」とマユがチャンネルを変える。この子の好む番組は、人や動物が出演していないという条件を満たせばジャンル問わず該当《がいとう》する。つまり大自然を雄大《ゆうだい》に撮影《さつえい》した刑事《けいじ》ドラマや用水路の絶え間ない水の流れに人生を感じさせるバラエティ番組などだ。冗談《じょうだん》で捏造《ねつぞう》してみたが、一度ぐらいなら観賞しても吝《やぶさ》かではない気がした。  マユがひっきりなしにチャンネルを変更《へんこう》し、自分好みの放映内容を探す。午後四時の、ドラマの再放送が重なる時間帯にお目当てのものが見つかるわけもない。マユは「つまんない」とリモコンを放《ほう》り捨て、僕にもたれかかってくる。喉《のど》を撫《な》でると、「うじじじじじ」と奇声《きせい》を発した。せめて猫《ねこ》の鳴き声を出そうよ、まーちゃん。  ……しかしなあ。  この子が夜に散歩を始めた日に、殺意が人にまで広がった。  無自覚の悪意って、伝染するものなのかねぇ。  同日、午後七時。完全な夜が空に上映されて、添《そ》え物《もの》には三日月。その目映《まばゆ》く儚《はかな》い月光に風流とか、現《うつつ》を抜《ぬ》かしてられる環境《かんきょう》ではない。冬の夜の外は寒いのだ。  僕らは今日も今日とて、散歩に励《はげ》む。マユが痩《や》せる為《ため》に。 「けどなぁ……」  殺人現場の近辺・ある公民館の駐車場を通過しながら、黙贅前進するマユ。溜自心を掌えた。  この子が犯人なんじゃないかってぐらい、周囲の危険とか考慮に入れないんだよな。外出に一応反対したけど、効果があるはずもない。それに否定が極《きわ》まるとマユの場食、直接肉を切り落とすといった電波・ダイエットを発案してしまう可能性も否めないので、結局は夜空の下で二人、散歩デートすることになる。  それに、僕も妹のことが、少し気がかりなわけで。 「みーくん? そっちじゃないよ」  マユに右手を引っ張られる。そこで思考は潰《つい》え、視界の暗雲が霧散《むさん》する。正面には仄暗《ほのぐら》い闇《やみ》の中、僕と菅原《すがわら》が喧嘩《けんか》した神社。僕は街灯《がいとう》に照らされた交差点から、そちらへ一歩踏み出していた。  この道を真《ま》っ直《す》ぐではなく右手に曲がり、小学校の方へ向かうのが僕らの定番だった。 「ごめんごめん。ちょっと考え事してた」 「なに考えてたの?」  進むべき方向を修正した後、マユが、関心の薄《うす》そうな無表情で尋ねてくる。 「殺人犯のこととか。出会《でくわ》したら危ないなって」 「大丈夫《だいじょうぶ》だよ」  マユが無機質な、抑揚《よくよう》のない台詞《せりふ》を返してくる。 「ん、大丈夫《だいじょうぶ》って、何が?」 「これ」  マユが肩《かた》かけ鞄《かばん》から、サラシ巻きの包丁《ほうちょう》を難なく取り出す。 「みーくんは守れるから、大丈夫」 「…………………………………」  頼《たよ》りがいがありすぎて、目眩《めまい》がした。そんな物を常備してたなんて。  この際、一度忠告しておいた方がいいか。  マユの正面に回り、肩を掴《つか》んで歩行を停止させる。きょとんと、瞼《まぶた》の開きが増量する。 「あのね、まーちゃん。もし君が人を殺したら、僕らは一緒《いっしょ》にいられないんだよ?」 「刑務所《けいむしょ》に入れられるから?」 「うんうん」  外では賢《かしこ》いな、まーちゃん。えらいえらい。 「じゃあ、みーくんも刑務所に来ればいい」 「あー……」なるほど、こいつはみーくんも一本取られた。みんなで渡《わた》れば怖《こわ》くない赤信号の理屈《りくつ》ね。いや、少し違《ちが》うか。 「でもね……」言葉に詰《つ》まる。どう説得すればいいのか。マユの納得《なっとく》する言い分……方向性は、あっちか。仕方ない、羞恥心《しゅうちしん》に耐《た》えよう。 「刑務所ではまーちゃんの手料理が食べられないから、僕が困ったりする。入院よりずっと長い期間だろうからね。それにほら、一緒に寝《ね》たりとか、出来ないし、さ」  顔面が使い捨てカイロに変貌《へんぼう》したようだった。頬《ほお》どころか、こめかみや顎《あご》の下まで熱血している。これこそ冬を乗り切る為《ため》の、庶民《しょみん》の知恵《ちえ》である。それは嘘《うそ》だけど、肌《はだ》がむず痒《がゆ》いのは本当なので困る。季節外れの蚊《か》の大群がいたことにした。  マユもほんのりと頬を染め、「ふぅん」と意地悪げに反亦する。目を心地《ここち》よさそうに閉じ、口元がうっすらと緩《ゆる》む。余所《よそ》行きと二人きりの状態が、控《ひか》えめに混じり合う。 「みーくんはそうやって、普段から素直だともっと素敵なのに」  既視《きし》感のある批評だった。このマユが大人なのか、酋長《しゅうちょう》が女子学生なのか。 「とにかぐ、包丁を携帯《けいたい》したり人に使うの禁止。約束できる?」  苛《さいな》めの追加を避《さ》ける為《ため》、強引に発言して締《し》めることにした。 「うん、分かった」  ご機嫌《きげん》なマユは簡単に同意した。そして、小指の立った右手を僕らの間に掲《かか》げる。 「指切りする」「いいよ。でも、懐《なつ》かしいね」と先手を打って嘘を仕かけた。マユは柔和《にゅうわ》な態度で顎《あご》を引く、僕の小指が絡《から》め取られた。 「最後にした約束、覚えてる?」 「えっ? あー……っと」口ごもる。三択《さんたく》問題なら自信あるんだけど。 「忘れたの?」  小指が締《し》められる。第一関節より上が鬱血《うっけつ》しそうなほどの、能面顔の怒《いか》り。 「まーちゃんこそ覚えてるのかな?」  開き直って切り返す。マユが忘却《ぼうきゃく》するはずない、と確信して。  まーちゃんにとって一番大切で、××しているものはみーくんとの思い出なのだから。  もしそれが失われたら、まーちゃんは人間じゃなくなっちゃうのかもねぇ。 「おはぎを食べる時は服を汚《よご》さないように気をつける、でしょ。ちゃんと覚えてないと駄目《だめ》だよ」  マユが若干《じゃっかん》、怒気《どき》を孕《はら》んで思い出の取《と》り扱《あつか》い方を注意してくる。 「あ、そうだったね。っていうかそれ、まーちゃんが注意する方でしょ」  朗《ほが》らかに騙《だま》しながら心中で舌打ちする。惜《お》しかったな、大福と取り違《ちが》えていたぜ。嘘《うそ》だけど。  小指の締めつけは弱まらず、そのままマユの宣誓《せんせい》に移行した。 「わたしはえっと、包丁《ほうちょう》しない。みーくんは浮気《うわき》しない。嘘ついたら……」鼻から心臓引きずり出す。いや、これは僕の捏造《ねつぞう》だけど。実際のマユの言葉に続きはなく、繋《つな》がった小指を上下に揺《ゆ》らすだけだった。というか、ちゃっかり僕も約束させられている。別に良いけど。  その後、小指が結ばれたまま歩き出した。これは人の繋がりを赤い糸|如《ごと》きに頼《たよ》るな、己《おのれ》で結び合えという真理の啓蒙《けいもう》活動であることはそれ以上の言葉が必要ないほど嘘っぱちなのですが、小指の先端が血液で重みを増しているのは紛《まぎ》れもない事実である。指切れてないじゃんとか突《つ》っ込んではいけない。 「明日は家にいる。家でみーくんと遊ぶ」  マユが、明日の予定を決め終えたのか報告してくる。 「ん、了解《りょうかい》」  遊ぶといっても、ソファでぎゅーだのちゅーだのしながらテレビ見たり、ベッドでぎゅーだのちゅーだのしながら昼の景色《けしき》を楽しむといった、懐《ふところ》と環境《かんきょう》に優《やさ》しい内容ですよ。脳細胞には飢饉《ききん》が訪《おとず》れている気もするけど。それと並行して、教科書と鞄《かばん》も用意する必要がある。  いやぁ、明日が楽しみで、今日はまるで遠足の前日だな。もっとも僕らの小学校の遠足は、移動の全《すべ》てが徒歩で、目的地が山頂だったけどな。  ……さて、そんな明日を迎《むか》える前に。  昨日は帰りも自前の足で頑張《がんば》っていたけど、今日はどうかな。 「駄目《だめ》でした」 「は、何がですか?」  僕の近況《きんきょう》報告に、形ばかりの丁寧《ていねい》語で疑問を発したのは激ラブリーにジーニアス(一部、誇張《こちょう》表現と詐称《さしょう》表現あり)なマユではない。  小学校の周囲を一周し、それが折り返し地点となってマンションに帰宅する。マユはその途中《とちゅう》、小さな道路の信号待ちで力|尽《つ》きた。今は僕の背中を噛《か》みながら、寝息《ねいき》を立てている。  そして僕は両足と腰《こし》に負荷をかけながら帰巣《きそう》中に、宗田義人《そうだよしひと》の殺人事件の現場周辺で、二人のうら若き乙女《おとめ》と遭遇《そうぐう》した。表現の真偽《しんぎ》は、まあ、僕より年下だから採用しましょうってことで。  枇杷島八事《びわしまやごと》に、一宮河名《いちみやかわな》。友達同士の二人が、夜の散歩に興じていた。  学校の同級生と、殺人事件で警戒《けいかい》中の夜道で遭遇《そうぐう》することになるとは予想外だった。多少面食らいながらも、僕はその夜に似つかわしくない二人組に話しかけ、今に至る。 「っていうかせんぱいは何してるんですか? 御園先輩《みそのせんぱい》背負って」  胡乱《うろん》そうな目つきで、枇杷島に詰問《きつもん》される。一宮は、何が可笑《おか》しいのかくすくす笑い。 「うんまぁちょっと、夜のPKをね」  咄嵯《とっさ》に口走った理由は、追及《ついきゅう》されれば際限なく嘘《うそ》を重ねることになりそうな、意味不明の代物《しろもの》だった。ほら見ろ、枇杷島は呆《あき》れてものも言えないし、一宮は、やっぱり微笑《ほほえ》んでいる。  二人は学校指定の制服を着用し、そこに追加して枇杷島は、恐《おそ》らく中身入りの竹刀袋《しないぶくろ》を肩《かた》にかけている。二人だけで、生徒会からのお達《たっ》しを守ろうと夜の街を警戒《けいかい》する美化委員のつもりかな?  それについて質問すると、「護身用です。こんなの背負って歩いても部活帰りを装《よそお》えば、ある程度はごまかせるんですよ」との返事。「はー」と重要視せず納得《なっとく》しかけるが、所持している理由が若干《じゃっかん》、物騒《ぶっそう》を含《ふく》んでいることに疑問を抱《いだ》く。それが呼び水となり、同級生と夜更《よふ》けに殺人現場で遭遇《そうぐう》したという状況《じょうきょう》に更《さら》なる違和《いわ》感が生まれ始めた。 「そういえば、せんぱいって御園先輩と同棲《どうせい》してるって噂《うわさ》ですよね」  下世話《げせわ》な態度ではなく、厳粛《げんしゅく》に、侮蔑《ぶべつ》を混じらせて枇杷島が言う。「不潔」とも付け足してくる。潔癖《けっぺき》なのかバカップルに個人的な恨《うら》みでも持ち合わせているのか。その目線は僕を越《こ》え、マユを苛《さいな》む。僕も見たかった。それは嘘だけど、少し肩を引いて視線との遮《さえぎ》りを作る。 「不潔な人は、美しい世界に相応《ふさわ》しくない気がします」  流石《さすが》美化委員、汚《よご》れが人聞の形を伴《ともな》っていても敏感《びんかんむ》に糾弾《きゅだん》してくる。それは全くもって正しい。でも何処に美しい世界とやらは広がっているんだ。  人間は強いし、世界は広大だけど、決して小綺麗《こぎれい》ではない。  どちらも、使用されているのだから。 「いやいや、噂を鵜呑《うの》みにするのはどうかな。現代の科学なら、火のない所にも煙《けむり》は立つよ」 「じゃあその背中のはなんです?」 「ん、だから夜の始球式が」「うらやうらやま羨《うらや》ましいのね」  初めて一宮が発言を挟《はさ》む。お上品な澄《す》まし顔と、産《う》み立ての新言語を駆使《くし》して。  改めて耳にしても、日本語の奥深さを堪能《たんのう》させてくれる。嘘《うそ》だけど。 「私も義人《よしひと》と同棲《どうせい》したかったのに、けいけいさ警察の方に奪《うば》われてしまったの」 「それはご愁傷様《しゅうしょうさま》です」  年下相手につい咄嵯《とっさ》に、丁寧《ていねい》語で接してしまった。というか、今の日本語は耳慣れない。  警察に奪われたって……遺体《いたい》だよな。それと一つ屋根の下の暮らしを望んだわけですか。  生前の義人君じゃないのかよ、と背中に虫を這《は》わせて悪寒《おかん》を味わうことはなかった。  一宮《いちみや》が、義人の死に発狂《はっきょう》したことは全校生徒が朝礼で目撃《もくげき》しているのだから。  その後、授業にも参加せずに校内を俳徊《はいかい》している姿も、注意に向かった教師が返《かえ》り討《う》ちに遭《あ》った様子も、皆《みな》の目に焼き付いている。それと、枇杷島《びわしま》と並んで深夜の街を彷徨《さまよ》っているという噂《うわさ》も学校で聞き及《およ》んでいる。  一宮|河名《かわな》は、急速に分解し、再構成されてきているのだ。  ただし、今まで彼女の諸要素を接合していた常識という要素を、狂気《きょうき》に置き換《か》えて。  一宮にとって、宗田《そうだ》義人の存在を埋《う》め合わせる物体は地球上に見当たらないのだ。  それで、一宮。  彼氏が撲殺《ぼくさつ》された現場で、何を彷徨《うろつ》いてるんだ?  僕の戸惑《とまど》いを察したかのように、一宮が一足分、前に出る。  そこで彼女の手に、野球少年|御用達《ごようたし》、デートのお供にも使える金属バットが握《にぎ》りしめられていることに気付かされた。僕にとって原初の凶器なので、つい身構えてしまう。 「私義人を殺害した人間を捜《さが》してるの殺すの殺し返すのことにしたの」  にこやかに流暢《りゅうちょう》な日本語で復讐《ふくしゅう》声明を行った美化副委員長。ああ、そっちの方面に逸《そ》れていったわけか。もっとも厄介《やっかい》な、ハムラビ法典の芽生えに。  一宮の手が引くことでバットが夜に紛《まぎ》れ、切っ先を見失わせる。マユが噛《か》むのを取り止《や》めて背中を吸《す》い出したけど、冷《ひ》や汗《あせ》でも味わってるのだろうか。 「貴方《あなた》、犯人?」 「いえ滅相《めっそう》もない」  即座《そくざ》に否定した。犯人だってそうするだろう。  何というか、田舎《いなか》の若者間で、局所的に凶器《きょうき》片手のお散歩が大ブレイクしている模様だ。大人しくバッティングセンターで使うか、板前修行《いたまえしゅぎょう》にでも上京してほしい。 「ではそちらの雌《めす》は?」 「雌じゃなくてまーちゃんだよ」  一宮の暴言に、何の躊躇《ためら》いもなく訂正《ていせい》を求めてしまった。いや、脳は危険を訴《うった》えているんだけど、僕のバカップル成分の八割を担《にな》う脊髄《せきずい》が勝手にね、嘘だけど。全面的に主張しました。 「あらそうどうでもいいわ豚《ぶた》でいいもの。それで貴方、何故《なぜ》犯人ではないといいきいいきれ言い切れるの?」  一宮《いちみや》の言葉の表面を覆《おお》うものは、どことなく、外にいる時のマユと同質に感じさせる。そんな一宮に対し、もう一度訂正《ていせい》を入れる気概《きがい》は湧《わ》かなかった。どうせ次は蛆虫《うじむし》か、塵《ちり》になるだけだ。 「義人《よしひと》とは小学校に集団登校する時の班が一緒《いっしょ》で、友達だったから」  空手日本一の同級生と友達なんだぜ、と自慢《じまん》する男子校の生徒みたいな身分証明だった。そして、何の理由にもなっていない。が、効果は抜群《ばつぐん》だ。 「そうだったの。うらやうらやま羨《うらや》ましい」  活用形みたいな羨望《せんぼう》を語る一宮には、正しく、天使の姑《しゅうと》の微笑《ほほえ》み。撲殺《ぼくさつ》天使との違《ちが》いは、一撃で殺し切れないことと、復活の呪文を唱えても『じゅもんがちがいます』と天の声に拒絶《きょぜつ》されることぐらいだ。  是非《いちぜひ》とも一宮には良い病院を紹介《しょうかい》したい。お勧《すす》めの女医さんはもういないけれど。 「で、枇杷島《びわしま》が付き添《そ》ってる理由は?」  一宮から目線を背《そむ》け、枇杷島に話を振《ふ》る。 「まあ、河名《かわな》がこれで納得《なっとく》するなら……ってとこです」  道と螺子《ねじ》を外した友人への憐憫《れんびん》を、その口調で包み隠《かく》さず表現する俯《うつむ》きがちで、一宮を横目でしか凝視《ぎょうし》しない。 「河名がやるって言うなら、協力ぐらいはします」 「でも八事《やごと》、あなたに手出しはさせないわ。義人の義人による義人の為《ため》の私が殺さなければいけないもの」  文法に支障《ししょう》を来《きた》している一宮。枇杷島は「そうだね」とほのかに優《やさ》しい、保護者の調子で頷《うなず》く。 「それに私がこの手でとりかとりかえ取り返さなければいけないものもありますの」  一宮が、疲労《ひろう》を示す目の隈《くま》を歪《ゆが》めて安穏《あんのん》に微笑《ほほえ》む。……取り返す?  取《と》り敢《あ》えず僕としては『お嬢様《じょうさま》言葉になってーらー』とか反応したかったけど、今はマユを背負っているので自粛《じしゅく》した。咄嵯《とっさ》に逃《に》げられないし。 「ま、警察に補導されないように頑張《がんば》って。後、一応女性だから、夜道は気を付けて」  それと、狙《ねら》い撃《う》つ相手を間違えないように。 「言われなくても注意してますよ」  枇杷島が先輩《せんぱい》の忠告を無下《むげ》に突《つ》っぱね、一宮に「行こ」と移動を推奨《すいしょう》する。今度は一宮が保護者のように「はいはい」とたおやかな同意を示し、バットを虚空《こくう》に一振《ひとふ》りしながらその場を離《はな》れる姿勢を取る。その直前、一宮の虹彩《こうさい》が爛熟《らんじゅく》したように、不自然に明瞭《めいりょう》な眼球が僕を捉《とら》えて苛《さいな》む。 「貴方《あなた》も、犯人をみつみつけ見つけても殺さないように」  心得ておく必要性のない言いつけだった。  一宮《いちみや》と枇杷島《びわしま》が、僕の横をすり抜《ぬ》けて遠ざかっていく。ソフトボール部と剣道部が、それぞれの部活道具を所持して。これで殺人犯が、既《すで》に深夜|俳徊《はいかい》を打ち切っていたら、彼女達はいつまで夜の街に繰《く》り出すことになるのか。春になったら夜桜も楽しめるし、良い趣味《しゅみ》になるまで昇華《しょうか》してほしい、と他人事なのでいい加減な願いを持った。 「……よっ、と」  見送りを打ち切り、マユを背負い直す。重くはない。それでも、僕に『あなたはごんぶとですね』と言われてしまったら、マユは減量に励《はげ》まざるを得ない。  まーちゃんが痩《や》せたがる理由は、みーくんに嫌《きら》われない為《ため》だからなぁ。 「それが、まーちゃんの全《すべ》てだものね……」  何とも、一途《いちず》に迷走《めいそう》してる女の子だ。せめて帰り道ぐらい、迷わず進もう。  そう、無益な決意をして歩き出す。  そして、数百メートルを進んだ先で。  僕はもう一人、遭遇《そうぐう》を想定していなかった人物と相|見《まみ》えることになる。  僕には妹がいた。ああ、もう過去形にしなくていいのか。  街灯《がいとう》の下で、そいつは僕を正面から睨《にら》み付けているのだから。 (仮)も(予想)も取り除かれ、確信していい頃合《ころあ》いだ。  左手には小川と、その上に小さな橋が架《か》かっている。進んだ先には二面のテニスコート。照明は無人のコートを淡《あわ》く照らし、転《ころ》がるボールから闇夜《やみよ》を遠ざけている。右には窓のない家屋の壁《かべ》がずらっと続いている。さて、目線の逃避行《とうひこう》はそろそろ終《しま》いとしよう。  妹の服装を少し眺《なが》める。オフタートルプルオーバーが手首まで、というか手の平も若干《じゃっかん》覆《おお》っている。先の成長を見|越《こ》してか、或《ある》いは実物を見ずに購入《こうにゅう》したのか。その上からは、胸元《むなもと》にリボンをあしらった灰色のニットワンピース。こちらも少しサイズが大きい。  いつかと同様の服装だが、誰かの血液は流石に洗い落とされていた。  背丈《せたけ》の成長が芳《かんば》しくないのか、小学生じみている印象だ。  誰が近寄っても、今回は後ろに向けて前進しない。  唾《つば》を飲み、事実に触《ふ》れる為に覚悟《かくご》を決める。  一度だけ空を見上げてから、僕も街灯の日を浴びる位置に立った。  対峙《たいじ》する。僕と、妹が。  死者を演じる生者と生者を演じる死者が。  妹の小さな唇《くちびる》が、気負いなく蠢《うごめ》いた。 「あにーちゃん」 「にもうと」  肩《かた》を竦《すく》める二人。流石《さすが》、僕の妹だけある、真っ当に兄呼ばわりすることなど、その研《と》ぎ澄《す》まされ、捻《ひね》くれた感性が許すはずない。僕も口頭では同様だ。  本来ならここで、今までの墓参りに使用した往復賃と涙《なみだ》を請求《せいきゅう》するところである。だが、その為《ため》の請求書を作成する過程で、どちらも零《ゼロ》だったことに気付いてしまった。危《あや》うく先走った脅《おど》しをかけて、要《い》らぬ恥《はじ》をかくところだったぜ。嘘《うそ》だけど。  ……さて、ならばどうしよう。  言葉は続かず、ざわめくものを、僕は溜《た》め込む。  何年もの歳月《さいげつ》を経て再会したのは、マユも一緒《いっしょ》だけど。  それとは別種の、焦燥《しょうそう》と燻《くすぶ》り。  行方《ゆくえ》不明だった妹とこの間、偶然《ぐうぜん》再会し、そして言葉を交えて出会《でくわ》す今夜。  色々と、ぐるぐると、身中を渦《うず》巻いて。  額を押さえたいのか、頬《ほお》を掻《か》きたいのか強く足踏《あしぶ》みしたいのか、発散の方法も定まらず。  寒気にさざめく肌《はだ》と、乾《かわ》く鼻先、じくりと膿《う》む頭部の傷跡《きずあと》。  嬉《うれ》しいのか空虚《くうきょ》なのか夢現《ゆめうつつ》なのか。  全《すべ》て放棄《ほうき》して踏《ふ》み潰《つぶ》したくなる衝動《しょうどう》の源泉、この霧《もや》。  生きていた人間に何を言えばいいのか。  混乱に吐《は》き気《け》が催《もよお》され、それを危険と察した心が処置を施《ほどこ》す。  焼け付いた脳髄《のうずい》が、僕の耳元で囁《ささや》く。  それでようやく、嘘の真理を手に入れる。  事実を、語ればいいのだと。 「生きてた、んだな」  単なる確認《かくにん》にしか思えない、この言葉。それでも万感の思い、籠《こ》もっただろうか。  妹が一瞬《いっしゅん》だけ目を逸《そ》らし、低い鼻を鳴らす。湿《しめ》り気《け》路線を閉鎖《へいさ》すべく、妹の手が唸《うな》るのを僕は甘んじて受け入れた。胸の中心をぶん殴《なぐ》られ、呼吸の乱れが著《いちじる》しくなる。 「勝手に殺すな、働《はたら》き蟻《あり》」  男性的な口調で、かつての僕を呼ぶ。一見死亡イベントに見|舞《ま》われながら後半、主人公を助けつつ復活をアピールする敵組織のライバルばりに気取った口調が面白《おもしろ》みを増している。 「今、中学生か」  他《ほか》に幾《いく》らでも、義務に等しい尋《たず》ね事《ごと》があるのに、まずはそれが口から出た。  妹はそんなこと確認するまでもない、と無言の対応。活《い》き活きと劣悪《れつあく》な目つきで、僕を睨《にら》み付けてくる。ああ、この目だ。代《か》わり映《ば》えも成長もない、妹の眼球。 「さっきの女、誰《だれ》?」  妹が嫉妬心《しっとしん》丸出しで兄を問い詰《つ》めてきた。勿論《もちろん》それは大嘘で、あり得ないけど、さっきの女? さっきという時間の指定から導き出され、該当《がいとう》するのは枇杷島八事《びわしまやごと》と一宮河名《いちみやかわな》の取り合わせしかない。けど、それを尋《たず》ねているとするなら、妹は立派なストーカーということになる。  妹の目線が更《さら》に険しくなる。まーちゃんみたいだな。 「女って、どっちだ?」僕は試《ため》しに質問してみた。 「馬鹿《ばか》そうな方」  だから、どっちだ。主観すぎて、僕には答えようがない。ただ、彼女らを指していることは理解できたけど。妹は、早急《さっきゅう》な回答が返ってこないので見切りをつけたのか、その会話を打ち切る。 「背中のは?」  妹の追及《ついきゅう》が続く。やはり、マユの眉目秀麗《びもくしゅうれい》には誰《だれ》しもが注視せざるを得ないようだ。うんまあ、誰だって背中で寝《ね》てれば尋ねるとは思うけど。 「まーちゃん。僕の」詐欺《さぎ》相手。「大切な人だよ」  妹の頬《ほお》が一瞬《いっしゅん》、引きつった気がした。何だ、その反応は。あまりの似つかわしくなさに、笑いでも堪《こら》えてるのか?  酷《ひど》い奴《やつ》だ、僕だって顔面の筋肉が働き者だったら腹を抱《かか》えて笑い転げているけど。  妙《みょう》な間が辺りに形成され、沈黙《ちんもく》の耳鳴りが囀《さえず》る。風雪の巻き起こりそうな冷風が駆《か》け抜《ぬ》け、夜に染まった木々が身をしならせる。僕にとって、それは追い風となった、  ここは、兄たる僕が発言して場を取り繕《つくろ》わねば、と使命感の火が強風に煽《あお》られ、燃え盛《さか》る。嘘《うそ》だけど。  ただ寒かったから、話を終わらすなり続けるなり、早めに済ましたかっただけだ。 「あっと、今日はこれから用事でもある?」  まるで食事に誘《さそ》う文句となってしまった。妹の所在やら今まで何して柴沖ら、尋ねることは幾《いく》らでもあるだろうに、切り出せない。何で会いに来なかった、も質問|事項《じこう》としては優先度が高かろうに。  そして、あっさりと妹の不信感を買う。 「いや、夜の散歩には何か目的でもあるのかなって。この前も」殺人現場の近所を「夜遊びしてたみたいだからな」  街の現状を、知らないわけでもないだろうし。  妹は明後日《あさって》か昨日か方向は判別きないけどそっぽを向く。僕も対抗《たいこう》して夜空を見上げた。ついでに、マユの太股《ふともも》を深く掴《つか》み直して背筋を伸《の》ばした。  街灯《がいとう》が朧気《おぼろげ》に発行する先、絶え間ない闇夜《やみよ》の住処《すみか》。暗黒の雲が立ち込める空に、蛍光灯《けいこうとう》の瞬《まばた》かない家屋。不純物なく、黒々とした景色《けしき》。そして妹が僕の臑《すね》を蹴《け》る。……何してんのこの子。  まあ、昔は石とか使ってたわけで、それと比べれば「            」  耳をつんざくという表現を理解した。  野良犬《のらいぬ》が背中で炮吼《ほうこう》をあげたのだと勘違《かんちが》いした。  僕の固有の時間は、数秒、吹《ふ》っ飛《と》ばされたのではないかと錯覚《さっかく》した。  誰《だれ》も彼もが怯《おび》えるよりまず、不意の出来事に身を竦《すく》めるだけだった。 「#�%」(=(((&')(’&%$#$)((〜)(〜)=!」  マユがざわめく、絶叫《ぜっきょう》する、吠《ほ》える。  四肢《しし》を千切り飛ばすように暴れ、僕の腕《うで》を振《ふ》り解《ほど》いて地面へ落下する。 「マユ!」と叫《さけ》んで身体《からだ》を反転しながら、僕は自身の失態を悟《さと》った。  暗闇《くらやみ》は何も、室内に限った話じゃないのに。  僕は何を、こんな環境《かんきょう》で、眠《ねむ》らせてたんだ。  悶《もだ》え苦しみ、地面に頭を打ち付けるマユの腕を引っ張り、抱《だ》き起こして押さえ込む。それにより、帽子《ぼうし》は地面に落下する。マユは彼女らしく反抗《はんこう》し、肩《かた》の肉を食い千切ろうと歯を振りかざす。食い込んだ箇所《かしょ》に、熱と痛覚が流れ込んでくる。薄手《うすで》の服だったら容易《たやす》く破り取られるほどの握力《あくりょく》で僕の腕と首筋を握《にぎ》り潰《つぶ》し、引き剥《は》がれようと尽力《じんりょく》する。このまま、マユが一時間も抵抗《ていこう》を継続《けいぞく》したら、僕は確実に死ぬだろうと予感するほど筋に指が食い込み、肩は血で溢《あふ》れかえる。それでも一時間もあればマユは冷静になるから、このままでいようと思った。 「ごめん。でも大丈夫《だいじょうぶ》だから。大丈夫だよ、まーちゃん」  背中を撫《な》でながら、空虚《くうきょ》って言葉の意味を味わう。  無反応に佇《たたず》んでいる妹が、何処《どこ》か遠くに感じられた。  服と、屑の皮が千切れて。それに肉が挟《えぐ》れた時点でようやく、マユは全身を虚脱《きょだつ》させた。僕もマユも汗《あせ》が目に侵入《しんにゅう》するのを防ぐ手立てがなく、端《はた》から見れば泣いているようだった。  否《いな》、マユは正真正銘《しょうしんしょうめい》に涙《なみだ》を流し、鳴咽《おえつ》を漏《も》らしているか。  彼女が時間をかけて寝癖《ねぐせ》を直した髪型《かみがた》は、寝起き以下の乱れになり下がっていた。  マユの口端《こうたん》から、白泡《しらあわ》として染《し》み出てくる唾液《だえき》が肩を濡《ぬ》らす。  それと、鼻水。額の血液。目玉の涙。  どれもこれも暖かみなんかなくて、冷めた感慨《かんがい》しが伝わってこない。  マユが、僕の肉片を飲み込む。  動いたのは喉《のど》だけで、他《ほか》には何処にも力が籠《こ》もらず、ただ僕に抱《だ》かれていた。  いつかの僕が、妹の母親にそうされていた時のように。 「かみさまかみさまかみさま……」  たすけてよぉ。  目を伏《ふ》せ、ぎゅ、とマユの背中を強く抱く。  いつまでも耳に残響《ざんきょう》する、マユの痛切なる祈《いの》り。  マユはサンタを信じていたし、七夕も信じていた。そして、神様のことも。  だけどあの時、彼女は裏切られて。  ……開眼。ついでに「んが」と嫌《いや》な記憶《きおく》を吐《は》き出す。早く年取って、忘れたいねぇ。 「まーちゃん、落ち着いて。ほら、周り見て」  背中に回した手を緩《ゆる》め、マユの顔を上げさせる。それを手伝いながら、マユの眼球が滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に駆《か》け巡《めぐ》るのを見届ける。腕《うで》を組み、口元を一文字に結ぶ妹を視界に捉《とら》えないのか、家の塀《へい》と同様の扱《あつか》いで無視する。 「ここはお外だよ。まーちゃんはね、もう助かったんだ。苛《いじ》める奴《やつ》も、みんないなくなったんだよ」  全部、君のお陰《かげ》なんだ。所為《せい》なんかじゃないよ、多分。  マユが身体《からだ》の使い方を取り戻《もど》す。僕の首を掴《つか》み、縋《すが》る瞳《ひとみ》で寄りかかる。 「ほ、んと?」「ほんと」「ほんとほんとほんと? みーくん、みーくんは、」 「ほら、ここにいる」と、また騙《だま》す。頭を撫《な》でて、マユと、一欠片《ひとかけら》の良心をごまかす。 「忘れたの? まーちゃんは今、僕と一緒《いっしょ》に暮らしてるんだよ」  にこーっと、笑顔《えがお》の仮面を被《かぶ》る……ことも出来やしない。  なんでだろう。マユと触《ふ》れ合うと、顔の筋肉がサボタージュする。  やっぱり、あれかな。後ろめたさ? まっさかぁ。  僕がそんな殊勝《しゅしょう》なもの、持ってないよな。  マユの首がもげそうなほど縦に揺《ゆ》れる。ちゃんと憶《おぼ》えてたので、感心。 「そう、そうだよね、みーくんはいる、からわたしもいる、し、し……」  涙腺《るいせん》からの分泌液《ぶんぴつえき》が口に流れ込み、言葉が中断される。それで、「なみだ?」とマユが初めて、自身の感情の水を意識したらしい。僕の首に指跡《ゆびあと》を残した手が離れ、顔を拭《ぬぐ》う。 「これ、涙《なみだ》。嬉《うれし》し、なみだだから。ね、えへ、えへっへ、へ、えへへへへ」  泣き笑いで噎《む》せながら、僕に騙《かた》りかけるマユ。それに容易《たやす》く騙《だま》されることにした。 「泣き虫だなぁ、まーちゃん。そういうとこも好きだけどね」 「うん、うん、わたし泣き虫だよ、ね、みーくんいないとだめ、なの」  マユが捕食するように僕にしがみつく。本人は意識していないだろうけど、僕の肩《かた》のクレーターに指がずぶりと突《つ》き刺《さ》さった。「っふ、ふ」とか鼻の奥にまで来るものがあったけど、奥歯を噛《か》みしめて堪《こら》えた。本当はエイリアンが腹から飛び出るほど悶《もだ》え苦しみたい。  粘《ねば》る血潮と、角張った骨に触《ふ》れた為《ため》かマユが柔《やわ》らかみのない首の傾《かし》げ方をする。丁度、加減を知らない少女が、人形の首を折り曲げるように。 「肩、出てる。血も、白いのも出てる」 「これ? よそ見運転で電柱にぶつかっちゃったんだ。まーちゃんこそ怪我《けが》ない?」 「え、うんうんうんないよ平気だよわたし、みーくんいるから」  額から流血している程度では、マユにとって怪我と認められないようだ。格闘家《かくとうか》に向いていそうだけど、凶器攻撃《きょうきこうげき》の常習犯だからなあ。駄目《だめ》かな。  マユの頬《ほお》に触《ふ》れる。自分の手が如何《いか》に熱いか分かるほど、冷却《れいきゃく》されきった肌《はだ》の温度。  いつまでもアスファルトに座らせて寒風に吹《ふ》かれていては、身体《からだ》に毒だ。よし、 「はい、目を閉じて、ゆっくり深呼吸して」  素直《すなお》に指示に従ってくれるので、催眠術《さいみんじゅつ》師にでも就職した気分だ。  後頭部の髪《かみ》の感触《かんしょく》を手の平で楽しみながら、マユを抱《だ》き寄せる。 「たとえ真っ暗でも、僕が側《そば》にいづ、いるから。だかっつ、だから、安心して寝《ね》ていいよ」  舌を途中《とちゅう》で二度ほど噛《か》んだ。何なんだ僕は、シリアスアレルギーか? 「……寝る。明日、遊ぶから」 「そうだよ、お休み。良い夢見るんだよ」 「うん……みーくんの夢見るね……」  儚《はかな》げな一言で僕の心の陥没《かんぼつ》した部分に触れるまーちゃん。  五分ほど経過し、再度、寝息を立て出す。  ……みーくんの夢、か。  的確だなぁ。直感に優《すぐ》れてるだけあるよ、ほんと。  でも、いつまで見てられるのかな。  一段落して、首だけ振《ふ》り向く。妹は、逃亡《とうぼう》も隠遁《いんとん》もせず立ち尽《つ》くしていた。  ……豪胆《こうたん》な奴《やつ》だな。今のマユを目撃《もくげき》しながら、足腰《あしこし》を一歩も引かずに。 「で、それ、何?」  妹は、先程《さきほど》と同じような言葉で、全く違《ちが》う意味合いの質問をしてきた。  その目に宿る感情を無視して、僕はもう一度、目を逸《そ》らさず言ってやった。 「御園《みその》マユ。僕とバカップルを営む同棲《どうせい》相手だよ」  内容は、全く違うけど。  しかし、こちらの方が胸を張って言い返せた。  マユをしっかりと背負う。僅《わず》かに肩《かた》が痛んだ、と痩《や》せ我慢《がまん》。実は『ぎゅらぎゅらー!』とか夜空に号泣《ごうきゅう》したいほど痛い。風呂《ふろ》に浸《つか》かったら『ウリィィィィィ』とか天井《てんじょう》を仰《あお》ぎそうだ。 「じゃ、僕は帰る。そっちも夜更《よふ》かしは程々《ほどほど》にね」  塾《じゅく》帰りの殺人|鬼《き》とかに出会《でくわ》すかも知れないし。  ああ、そういえば妹は立派な犯人候補だったな。  どうでもいいけど。  一宮《いちみや》達の真似事《まねごと》のように脇《わき》をすり抜《ぬ》ける僕とマユを、思惑《おもわく》の内在した視線で見送る妹。  困惑《こんわく》している気もするけど、僕の読み取り能力などたかが知れているのであてにはしない。 「元気そうで、安心した」  妹を通り過ぎてから、それだけは伝えておいた。  妹は首を捻《ね》じ曲げて僕の背中を見つめた気がした。けれど振《ふ》り向かず、歩む。  諦《あきら》めと疲弊《ひへい》と、心に入り交じって、満たされる。  一宮|河名《かわな》、枇杷島八事《びわしまやごと》、妹。  何一つ解決していない夜の中で、僕は薄《うす》っぺらな達成感を|錯覚《さっかく》していた。  妹の無事という、僕にしては前向きな確認《かくにん》。  後は引《ひ》き際《ぎわ》を心得て、退場するだけ。  ……しかし、僕はよくよく、格好をつける空気に恵《めぐ》まれてないみたいだ。  十五メートル弱、妹と離《はな》れた頃合《ころあ》い。ばこん、と中身の空虚《くうきょ》な音が後頭部に命中した。意外と痛むが、さするほど暇《ひま》な手は余らせていない。地面にぽてりと落下し、転がるものに目を凝《こ》らすと、それは白い運動|靴《ぐつ》だった。首だけ振《ふ》り向くと、妹が投球の姿勢を保持していた。  自前の、左足の靴を脱《ぬ》いで投擲《とうてき》してきたらしい。 「何をする」  マユに当たったらどうする気だ。あにーちゃんはそういうとこだけ厳しいぞ。嘘《うそ》だけど。 「聞かない理由は?」  妹が、会話のキャッチボールを一往復分省略して疑問系を駆使《くし》する。 「何を?」正確には、どれを? 「あたしの今まで、住んでる場所、何してたの……とか」 「聞いてほしいの?」  第二|陣《じん》、右足の靴を投擲してきた。今度は命中せず、僕の足下《あしもと》で跳《は》ねて道路に転がった。  妹が靴下の両足で地面を踏《ふ》みしめ、僕を射殺すように睨《にら》み付ける。 「今まで連絡しなかったってことは、僕らに所在を明かしたくなかったってことだろ。だったら、無理に尋《だず》ねて訪《おとず》れるわけにもいかないよ」  妹は虚《きょ》をつかれていた。珍事《ちんじ》だな、無防備だ。自分の母親の前でも、そういった表情は見せなかった。気に入られようと、猫被《ねこかぶ》りに神経を遣《つか》ってたから。  虚脱《きょだつ》状態を脱した妹がやぶにらみを再開する。それから、捨て子の靴を拾い直しに移動してきた。後先考えないのは、血筋かな。 「これから言う内容を覚えて」「ん?」蹴《け》られた。「分かったよ」  妹は若干《じゃっかん》、速度を緩《ゆる》めながら「〜町」や「〜番地」といった内容の日本語を羅列《られつ》した。マユをしっかりと背負ってから妹に集中し、僕は二度目の視聴で何とか、覚えきる。 「今の、住所だから」 「はあ」部屋に帰ったら、メモ帳に書き込んでおこう。 「聞きたいことがあるから、必ず訪ねて。平日の昼でもいい」  意図の読めない行動を取り、鼻を鳴らす妹。僕も鼻血が出そうな勢いで鳴らしてみる。 「今まで音沙汰《おとさた》なしだったのに、随分《ずいぶん》と手前勝手に」蹴られた。だから黙《だま》った。  こういう奴《やつ》のことを、えーと何だったかな、ツングース諸語?ま、いいや。 「分かった。暇な時にでも」足を踏《ふ》まれた。「作れ」「はいはい」膝蹴《ひざげ》りが脇腹《わきばら》に入った。  咳《せ》き込む僕と、平然な妹が距離《きょり》を取る。そこで改めて、妹を観察する。  銀糸のような白髪《しらが》が混じった、癖《くせ》の強い長髪《ちょうはつ》。釣《つ》り上がったどころか渓谷《けいこく》みたいになってる目、低い背と低い鼻と低い胸部。何だか、昔と変わってる部分を探す方が難しそうな気が。しかもウォーリー並みの難易度で。  そんな兄の感慨《かんがい》深い視線に、妹は「変態蟻《へんたいあり》」と吐《は》き捨てる。どんな誤解をされたのやら。 「さて、と」  一拍《いっぱく》置いて、帰路に向き直る。「さらば」と、二度目の別れはシリアスを無視して態度を砕いてみた。そして妹も、一宮《いちみや》達が向かった方角へ、僕と正反対に歩き出して。  その背中が暗闇《くらやみ》に吸い込まれる直前まで、妹は振《ふ》り返らなかった。  ただ、氷雪の一言を置き去りにして。 「生きてたんだね、あにーちゃん」 「………………………………………」  停《たたず》んで、肩《かた》の血を鬱陶《うっとう》しいと感じて。  今なら、  悲喜こもごもな気がするから、  季節外れの蜂《はち》にでも刺《さ》されれば、泣けそうだった。 「……いないけどさ」  だから、笑ってしまった。 「みーくんみーくんみーくん!」  日も昇《のぼ》りきっていない朝方、僕は肩を揺《ゆ》さぶられ「みーくんみーくんみーくんみーくんみーくん」マユに起こされるなんて「みきゅるーみーくんみーきゅんきゅんみーくんみーみーくんみーくんみーくんみきゅるきゅるみーくん!」  すわ昨日の続きか、とシェイクされた脳味噌《のうみそ》を立て直して真剣《しんけん》を装《よそお》う。が、マユの表情は普段の幸せ一色の笑顔《えがお》で、額に絆創膏《ばんそうこう》が不細工に張り付いているだけだ。……いや、少し顔が赤味を帯びているか?  それに裏打ちをするように、マユが報告してきた。 「まーちゃん、風邪《かぜ》ひいた!」 「……わー」喜ぶな。諸手《もろて》を挙げるな、拍手《はくしゅ》するな。 「ほらほら、体温計」と差し出すマユのパジャマがはだけて肩《かた》が露出《ろしゅつ》し、うむエロいとか感心してる場合じゃない。この部屋に体温計なんかあったんだなと妙な部分に関心を持ちつつ、液晶《えきしょう》に浮かび上がっているデジタルの数字を確認《かくにん》した。 「…………………………………おい」 「ねー、四十度もあるでしょ」「何座ってんの寝《ね》なさい」「むぎゅ」  有無《うむ》を言わせず寝かしつけた。布団《ふとん》に押し込み、枕《まくら》に頭を押しつける。マユは「らんぼー」と唇《くちびる》を尖《とが》らせながらも、歓喜《かんき》の滲《にじ》みが隠《かく》しきれていない。 「これは明日も明後日《あさって》もお休みで、みーくんと一緒《いっしょ》ですな」 「……そうだね。身体《からだ》は辛《つら》くない?」 「うん、ぜーんぜん……にゃ、いやいやちょー苦しいですぞ」  けほけほ、と腐《くさ》った大根演技。加えて足がじたばたと活発に上下する。元気すぎて苦しいのか? 「まーちゃんね、氷枕《こおりまくら》ほしい」 「うん。すぐ持ってくるよ」 「後ね、おかゆ作って食べさせて」 「いいよ。味は保証しないけど」 「後ね、絵本読んで、身体|拭《ふ》いて、」「取《と》り敢《あ》えずそこまで。一つずつね」  甘《あま》えん坊《ぼう》が加速して、矢継《やつ》ぎ早《ばや》の要求を放ってくるマユを制する。「わがままだなー」と僕を咎《とが》めるマユの台詞《せりふ》は聞かなかったことにした。まずは、氷枕か。そもそも、道具があるのか?  疑問を持ちながらベッドから一歩分|離《はな》れたところで、「みーくん」と呼び声に振《ふ》り向く。  寝転《ねころ》んだまま、目線だけが全力で稼働《かどう》し、僕を見|据《す》えていた。 「昨月ね、みーくんの夢見たよ。そのお陰《かげ》かな」 「にゃるほど。じゃあもう見ないように気を付けなさい」 「なんでそういうこと言うかなー」と膨《ふく》れるマユを残し、寝室《しんしつ》から出る。廊下《ろうか》の冷え具合に身を縮《ちぢ》み込ませながら、僕が利用する機会は少ない台所へ足を運ぶ。 「病院、絶対に嫌《いや》がるだろうな……」  彼女にとっての風邪《かぜ》の意義は、みーくんとの引力を強めるということに尽《つ》きるからな。  昨夜の振《ふ》る舞《ま》いを全く引きずっていないから、精神の方は安心したけど。 「何というか、極端《きょくたん》だよな」  今更《いまさら》だけど。でも、それが一番マユらしいか。  僕が志願した居場所なんだ。なくさない程度には努力しないと。  今日はマユが眠《ねむ》っている間も、手を握《にぎ》っていないとな。 「…………………………………」  手を握《にぎ》る誘拐犯《ゆうかいはん》の物語、ってところか。  微妙《びみょう》に幸福っぽいのが、皮肉めいてるよなあ。  マユの熱が引くのに、五日を要した。  その間、当然ながら学校には通わず、『薬なんて飲んだら早く治っちゃうでしょー!』と憤慨《ふんがい》する病人を説得したり、叔母《おば》に電話で、家へ戻《もど》るよう遠回しに説得されたり、教科書一式の注文をしたり、『はい、これでかんぺきー。ふぉーえばーらぶー』と僕が看病の途中《とちゅう》で眠《ねむ》っていたら、目覚めたマユに、互《たが》いの小指の端《はし》にシャープペンで穴を空けられて糸を通して繋《つな》げられたり。糸は当初白かったけど、お互いの血液に染まって奇《く》しくも赤くなった。その甲斐《かい》あって、熱は三十六度にまで降下し、多少の喉《のど》の痛みと鼻炎《びえん》を残すだけとなった。マユは不満顔ながらも、再びベッドから出て生活するようになった。ただ、多量の発汗《はっかん》の影響《えいきょう》か、体重が減退していたことには小躍《こおど》りして喜んでいた。これで、夜の散歩は控《ひか》えてもらう目処《めど》もつきそうだ。  それから二日後。丁度、学校を休んで一週間経過した日。  スーパーで一緒《いっしょ》に買い物をした後来年の分のチョコレートを作製し出したマユに部屋を追い出された(作製現場は乙女《おとめ》の心意気として非公開らしい)ので、暇潰《ひまつぶ》しのついでに所用を済ませる外出中だった。小指の赤い糸はスーパーの肉売り場の前で耐久力《たいきゅうりょく》を失って、自然に切れた。帰宅したら結び直される可能性が高いけど。  二月|下旬《げじゅん》にしては、日差しの強い昼間。平日で、車の通りや歩道は寂寞《せきばく》としているのに、パチンコ屋の駐車《ちゅうしゃ》場は満杯《まんぱい》だった。僕は子供なので、大人って不思議だなぁとしか思えませんでした。感想文、了《りxちう》。  車の姿が見えない、赤信号の道路を横断する。正面には、キオスクみたいにこぢんまりとした和菓子《わがし》屋と、有料駐車場が接合して営まれている。それに沿いながら、左へ進む。  五分ほど歩いて見えてきた、ドラッグストア手前の曲がり角を右へ曲がり、土の色が目立つ方向へ歩く。田舎《いなか》が剥《む》き出しになっている、旧市街ともいえる住宅の集《つど》う方へ。しかし、その牧歌の似合う場所が市と呼ばれる地域の縁《ふち》に分類され、文明化のメッキ塗装《とそう》が行われている今の場所の方が町と名付けられているのだから、いい加減なものだ。  てくてくと歩く。歩いていると、自転車に追い抜《ぬ》かれた。口笛《くちぶえ》を吹《ふ》きながら僕と何馬身も差をつける、主婦のママチャリを見送る。そういえば、叔父《おじ》の家にある自転車、錆《さ》びてないかな。  畑を十二ほど通り過ぎ、元パン屋の進学|塾《じゅく》が建っている交差点で、一度立ち止まる。標識の下で鞄《かばん》から地図を取り出して広げ、メモ帳の住所と照らし合わせる。  僕は今、妹の下《もと》へ訪ねようとしていた。 「ここが喫茶店だから……バッティングセンターが、ここで……」  この近所には寂《さび》れたバッティングセンターがあり、そこでバットを振《ふ》った男女は一ヶ月以内に別れるという忌《い》まわしき伝承がある。某《ぼう》高校のNさんやA君の体験談が、その逸話《いつわ》の信憑性《しんぴょうせい》を高めている。ま、若干嘘《じゃっかんうそ》だけど。 「よし、後は土地勘《とちかん》で行こう」  地図を折り畳《たた》み、メモと一緒《いっしょ》に仕舞《しま》う。移動を再開した。  ……それから、迷って、門並みを駆《か》け抜《ぬ》け、天を仰《あお》ぎ、喫茶店《きっさてん》で一服して。  一時間以上は捜索《そうさく》に費やし、ようやく該当《がいとう》する住宅を発見した。  立ち止まっていた位置から迷わず行けば、十分も必要としない距離《きょり》だった。 「……もう少し緊張《きんちょう》とかした方がいいのかな」  と益体《やくたい》もないことを思考しながら、建物を見上げる。  保育所の隣《となり》に、その家はあった。  田舎《いなか》にあって尚《なお》、随分《ずいぶん》と古風な建物だった。表には小さめの、緑藻《りょくそう》の張り付いた水車が回り、夏場なら心の清涼《せいりょう》に効果的な水音を鳴らしている。建築物の全体像を見|渡《わた》しても、白川郷《しらかわごう》に合併《がっぺい》できそうな、金属の見当たらない作りだった。  それと、表札の名字には既視《きし》感があった。何故《なぜ》かぐにゃりと、立《た》ち眩《くら》みのように視界が歪《ゆが》む。一歩下がり、一息吐《は》く間にそれは治まった。気にせず、扉《とびら》をけたたましく横に開いた。開けきってから、鍵《かぎ》がかかっていないことに気付く。 「すいませーん」  内装は、カウンターに席が並び、奥には囲炉裏《いろり》があった。居酒屋を住居として使用しているみたいだ。天井《てんじょう》に設置されたスピーカーから、テレビでもよく耳にする流行歌が演奏されている。有線放送でも流しているのだろうか。  反応は返ってこない。  音楽に声が飲まれたのか、と考慮《こうりょ》し、もう一度|挨拶《あいさつ》しようとして、それと同時に恐《おそ》らく調理場から暖簾《のれん》をくぐって住民が姿を現した。 「どちらさん?」  腰《こし》の曲がっていない、白髪《しらが》でも禿《はげ》でもない老人が出迎えてくれた。サンダル履《ば》きで、鱗《うろこ》みたいな柄《がら》の作務衣《さむえ》を着こなしている。色黒で、皺《しわ》も目立たない。犯罪者となる以前の度会《わたらい》さんとは将棋《しょうぎ》仲間になれそうな爺《じい》さんだ。 「初めまして。僕は、えーとですね」どう名乗ればいいんだ。妹の兄です、いやいや、頭を疑われたいわけじゃないんだよな。  さりとて、妹の名を口にするのも憚《はばか》られるわけで。どうしてあの家に暮らす母親は、憎《ぞう》の対義語を我が子の名前に組み込みたがるのだろう。妹は多少の付け合わせがあるけど、僕などすっぴんである。自身の化粧《けしょう》は怠《おこた》らないのだから、飾《かざ》り気《け》をそんなところで出し惜《お》しみしないで頂きたい、と何年か前の墓参りで、そんな墓前の祈《いの》りをした過去が海馬《かいば》の縁《ふち》から滲《にじ》み、現実さえ侵食《しんしょく》する。それに抵抗《ていこう》するうち、目前の老人の存在を意識の墓、すなわち無意識に埋《う》めかけていたことに気付き、首を横に振《ふ》って目覚ましする。  その熱い眼差《まなざ》しから推測《すいそく》するに、すっかり不審者|扱《あつか》いされているようだ。ここは汚名《おめい》と名誉《めいよ》を挽回《ばんかい》する一手を打たねば。 「ここに、中学生ぐらいの女の子がいますよね? 僕はその子の兄です」  固有名詞を用いず、可能な限り胡散臭《うさんくさ》さを脱臭《だっしゅう》することに努めて自己紹介《じこしょうかい》した。  老人は一瞬《いっしゅん》、鋭利《えいり》に目を細める。警戒《けいかい》心が湧き立つように。が、僕の存在が脳の片隅《かたすみ》で引っかかったらしく、狼狽《ろうばい》を見せる。 「イルカが嫁《とつ》いだ家の……」  老人の目に浮かぶ、猜疑《さいぎ》と驚愕《きょうがく》。海豚《いるか》。妹の母親の名前。呼ぶと真顔で怒《おこ》る、本人が忌避《きひ》していた名称。……そうか。ここ、あの人の実家だったのか。虫歯になったことを娘《むすめ》が報告したら『暖かくして寝《ね》なさい』と指示したあの人の。どうりで、表札に見覚えがあったわけだ。初めて紹介《しょうかい》された時は、まだ親父《おやじ》と結婚してなかったからな。 「あの、事件の?」老人が間接的に僕の身元を確認《かくにん》してくる。  それに「そうです」と端的《たんてき》に返事をする。  老人は「ああそう」と落ち着きなく呟《つぶや》き、腰《こし》に手を当てる。眼光は陰《かげ》りを帯び、地面を彷復《さまよ》う。 「ああ……確かに数日前、あん子が言うとったな。自分を訪ねる奴《やつ》が来たら通せと」  そう語る老人の口調は苦々しく、敵愾心《てきがいしん》混じりだけど。 「ここのことは、それにあん子のことをどうやって知った?」  口調はほぼ詰問《きつもん》だった。僕を悪い虫|扱《あつか》いするつもりなのか、この祖父は。 「あ、妹本人から教えてもらいました」  兄弟《きょうだい》の絆《きずな》に導かれて、などと妄言《もうげん》は慎《つつし》んだ。ここまで来て電波の片鱗《へんりん》をちらつかせて、面会の許可が下りないという事態を招くわけにもいかない。僕の一時間半が無駄足《むだあし》になる。 「本人……ん、ああ、最近は外出てるからか」  老人が愚痴《ぐち》るように、横を向きながら呟《つぶや》く。どうやら妹は幼少期から、本格派の引き籠《こ》もり教育に自主的に励《はげ》んでいたようだ。それもそうか。小さな街で深夜の散歩が趣味《しゅみ》なら、今までに僕と顔を合わせないはずがない。 「このこと、他言しとらんだろうな」  老人の言葉に対し、首を軽く縦に振《ふ》る。 「それにしても、よく会いに来る気になったな」  首が横から僕へ向きを変更《へんこう》し、据《す》えた目線で微量《びりょう》な敵意を放つ老人。……何だろう、僕を汚《よご》れ物《もの》とでも見定めたのかな。 「妹に誘《さそ》われましたから」と、一週間前のやり取りを都合良く解釈《かいしゃく》することにした。  老人はその受け答えに、小さく鼻を鳴らす。妹の癖《くせ》なんだけどな、それ。 「一体、何の用があって来た?」 「妹に呼ばれただけですので、」「違《ちが》う、お前はどういうつもりで……」  老人は何かを言いかけ、しかし自制するように顔の側面を掻《か》く。  そして関《かか》わり合いを断ち切るように、最後は、文章をポイ捨てされた。 「奥の家におるから」  老人は微笑《ほほえ》まず、むしろ素性《すしょう》が明かされたことで一層、素っ気ない態度を取る。違和《いわ》感を味わいながらも会釈《えしゃく》し、外へ出た。  しかしあの爺《じい》さん、死人と一緒《いっしょ》に生活を営んでるわけだよな。妹を復活させないでさ。  小屋の左|脇《わき》から奥に入ると、同様の面積を持つ家が三|軒《けん》ほど並んでいた。縦長ではあるけど、敷地《しきち》が相当に広いことを理解した。で、どの奥の家なんだ?  老人の奥という言葉に運命を受信し、最奥《さいおう》の家に入ることにした。虚言《きょげん》はさておき、そこは洋風で、妙《みょう》に真新しい。この家も鍵《かぎ》は外れて入り放題だった。拝観料とか払《はら》わないでいいのかなと一抹《いちまつ》の心配をしながら、闖入《ちんにゅう》することにした。ノンフィクションではない。  玄関《げんかん》から廊下《ろうか》に上がって、脇の部屋の扉《とびら》を二度、ノックした。すぐに中から反応がある。 「祖父《じい》ちゃん〜お昼ご飯?」 「いや、どっちの期待にも応《こた》えられないあにーちゃんなのだが」  そう名乗ったら、中で柔道《じゅうどう》部が受け身の練習をする時の音がした。合宿中なのか? 「大丈夫《だいじようぶ》んが!」扉に全力でぶちかましされた。  ほんと、学習しない奴《やつ》だな。危《あや》うく自己|嫌悪《けんお》しかけたぞ。 「遅《おそ》いんだよ!」  今回は僕の血潮を太陽に透《す》かして見ている暇《ひま》もない。背中を手で押さえてしかめ面《つら》と怒《いか》り面の両方を兼任《けんにん》している妹は、まーちゃんほど僕の来訪を心待ちにしていないようだし。 「いや遅いって、明らかに来客に驚《おどろ》いてた気がするけど」  部屋の中央で椅子《いす》が仰向《あおむ》けになってるし。机に足を載《の》せていて、重心の調整に失敗したんだな。横着な、と父親の着眼点で憤慨《ふんがい》した。嘘《うそ》、というか憤慨したのは妹の方だった。 「馬鹿《ばか》みたいに遅いから本当の馬鹿だと確信してた! そんな奴が今更《いまさら》来るとは思わなかった! だから驚いてやったの!」  支離滅裂《しりめつれつ》だけど「仰《おっしゃ》るとおりです」と同意せざるを得ない日本語は嫌《きら》いじゃない。  赤々とした耳鼻や殴打《おうだ》を加えつつ身振《みぶ》り手振りな妹の姿も、まあ嫌《いや》じゃない。 「だいたい、このトンチキ」「あ、ちょっと待て」  振りかざす妹の手首を掴《つか》む。丁度、口を開けてくれたのでありがたい。  その開いた口内へ、指先を入れる。奥歯を直視する為《ため》に。 「んな、な、な!」  妹が奇声《きせい》をあげているけど、診察《しんさつ》を続けた。 「やっぱり虫歯だ。相変わらず、歯を磨《みが》くのサボってるのか?」  舌を指で押さえながら、妹の歯を一通り眺《なが》める。歯並びは悪くないんだけどな。後、唾液《だえじゅ》の分泌《ぶんぴつ》も潤滑《じゅんかつ》なのか、舌上が随分《ずいぶん》とぬかるんでいる。触《さわ》り心地《ごこち》は悪くないな。  などと妹で戯《たわむ》れて歯科医の気分を満喫《まんきつ》していたら、頬《ほお》の真っ赤な妹が小刻みに震《ふる》えているではないか。肩《かた》は突起《とっき》が生えそうなほど怒《いか》ってるし、握《にぎ》り拳《こぶし》も完備されている。 「こにょ……」 「まさかとは思うけど、何か怒《おこ》ってる?」 「へんっひゃい!」  舌足らずに罵倒《ばとう》して、思い切り指を噛《か》んできた。 「いっでぇ!」と一歩退いた瞬間《しゅんかん》、妹の肘《ひじ》が腹部にめり込んだ。更《さら》に足払《あしばら》いをかけられ、廊下《ろうか》で無様に転倒《てんとう》する。壁《かべ》に背をつけて座り込んだ姿勢まで、無我夢中にもがきながら復帰すると足の裏が飛来した。顔面にめきゃっ。 「こっのっ! へんったい! やろぉっ!」  そのまま妹に蹴《け》り潰《つぶ》される。マッハふみふみも目じゃない、踵《かかと》と爪先《つまさき》の応酬《おうしゅう》。スカート穿《ば》きだからって下着を拝んでる余裕《よゆう》もあるわけがない。 「変態! 死ね! 変態! 死ね! 変態! 変態! 変態変態変態!」  僕に対する怨恨《えんこん》は尊厳の問題について流れて固定されたらしい。死を強要されなくて良かった、と安《あんど》堵していいものだろうか。だって僕、脇腹《わきばら》の柔《やわ》い箇所《かしょ》に爪先蹴りが捻《ねじ》り込まれて死にそうになってるし。 「足踏み、足踏み止《や》め。休めの姿勢でっ」「うるせぇ!」  すっかりヤンキー口調になられた妹さま。足技《あしわざ》も尻《しま》上がりに絶好調のご様子。  ちょっと、誰《だれ》か体育教師の笛《ふえ》持ってきて。ああでもこいつ、学校に行ってないんだよな、きっと。平日の真っ昼間に兄貴を足蹴《あしげ》にする生活送ってるものな。どんな暮らしだよ。 「この引き籠《こ》もりが! 人のこと言えないんだけどさ!」「わけ分かんない逆ギレするな!」顎《あご》を下から蹴り抜《ぬ》かれて、目の中で火花が散る。その影響《えいきょう》か、妹の薄桃色《うすももいろ》の下着がウルトラショッキングピンクに映ってしまった。重傷のようだ。  それから、妹の足は本人が廊下に尻餅《しりもち》をつくほど疲弊《ひへい》するまでフル稼働《かどう》した。  今度は僕が発熱する番なのかと危惧《きぐ》するほど、身体《からだ》が隈《くま》なく熱っぽい。  肩《かた》で息をし、冬には相応《ふさわ》しくない発汗《はっかん》に濡《ぬ》れる妹。色っぽさが微塵《みじん》もないので、悪い虫は当分付かないなとあにーちゃんはちょっと安心した。やだな、嘘《うそ》だよ。  にもうとの息は荒《あら》く、それでも僕への恨《うら》み節が籠もった凝視《ぎょうし》を欠かさない。  元気そうで安心したから、『そう』を抜《ぬ》き取りたい。 「なあ、血とか出てない?」「まだ出てないのか!」  次は左足の裏だった。ああ、藪蛇《やぶへび》。 「あにーちゃんは変体蟻《へんたいあり》になった」  椅子《いす》の背もたれを前にして腰《こし》かける妹が、そう愚痴《ぐち》る。あ、今気付いたけど変態蟻《へんたいあり》って軍隊蟻と一音しか違《ちが》わないのな。どうでもいいけど。 「昔はあんなことする変態じゃなかったのに」 「大人になるってのはそういうことなんだよ」  しれっとした言い分に「そんなわけあるか!」と妹の切れの良い返しが心地《ここち》良い。でも、この街のおねえさま方と交流すれば、訂正《ていせい》を余儀《よぎ》なくされるかも。  入室を許可されて、お邪魔《じゃま》した妹の部屋は五感のうち、四つは健全だった。もっとも、触覚《しょっかく》は投げつけられた座布団《ざぶとん》に準じているし、味覚はセルフサービスの井戸水《いどみず》である。聴覚《ちょうかく》は妹の歯ぎしりぐらいで、視覚もまあ、多少眼界を狭《せま》くすれば問題ない。  六畳《ろくじょう》間、薄紫《うすむらさき》のカーテン、二つ並んだ箪笥《たんす》に、少年|漫画《まんが》と少女漫画が半々、それと天野可淡《あまのかたん》の人形写真集が一冊立てかけてある年頃《としごろ》っぽい本棚《ほんだな》。型は一つ古いけど黒色のノートパソコンもあり、朝に脱《ぬ》ぎ散らかしたと思《おぼ》しきパジャマが床《ゆか》に投げ出されている。ジッと見つめていたら回収し、ついでに殴《なぐ》られた。これが兄妹《きょうだい》の、最も近寄ることが出来る交流だった。でも痛いのは僕だけだ。それにしても、引《ひ》き籠《こ》もりが棚《たな》の漫画や衣服類をどうやって収集しているのか。まさか祖父を使い走りに行かせているわけではないだろうし、ネットかな。  さて、更《さら》に疑問系が生まれてくるのはここからだ。  部屋の角にコンロが設置されていて、室内は全体的に異臭《いしゅう》がする。後、小型の冷蔵庫も本棚の隣にあって。……虫歯だけじゃなく、こっちも相変わらずみたいだな。何処かの病院みたいに、開けたら人間が押し込まれていないことを祈《いの》ろう。  後は部屋の片隅《かたすみ》に立てかけられた、木製と金属、二|振《ふ》りのバットか。 「で、今日は何の用だ?」 「あんたが来たんだよ」うむ、そうだった。けどお前が呼んだわけだし。  確か、えーと、「そうそう、聞きたいことあるんだろ? だから聞かれに来てみた」  飲み慣れた井戸水を啜《すす》りながら、妹に話しかける。妹は答えず、冷蔵庫から自分用の瓶《びん》を取り出して直接口をつける。その背中|越《ご》しに覗《のぞ》けた冷蔵庫には、克明《こくめい》な赤色の肉が、塊《かたまり》で保管されていた。種類は何だろうねえ、と傍観《ぼうかん》しながら水をずるずる吸い込む。唇《くちびる》の右端《はし》に染みる、と感じて指で確かめたら、血が少量、滲《にじ》んでいた。そりゃあ、あれだけ蹴《け》られて傷の一つなら妹に感謝しないとハッピーってことにした。嘘《うそ》だけど。 「聞きたいこと、あるよ」  喉《のど》を潤《うるお》した妹が冷蔵庫を閉じて、椅子《いす》に座り直す。回転させて、僕を正面に捉《とら》えて。  妹の唇《くちびる》が震《ふる》える。 「お母さんのこと」  鼻から意図しない水芸をしそうになった。コップに口をつけたまま、泡《あわ》を吐《は》き出して目線だけを妹に一直線させる。相手は、何とも無表情だった。 「あたしのお母さん、死んだんでしょ? 八年前に」 「う[#「う」に濁点]ん」  鼻の奥の、ツンとお澄《す》ましさんな痛みに耐《た》えながら頷《うなず》く。まあ、八年も部屋に引き籠《こ》もってたら、同じご町内とはいえ大した情報は入ってこないか。 「あにーちゃんは、お母さんが死ぬのを見てたの?」  妹の剣呑《けんのん》な視線が僕を射|抜《ぬ》く。嘘《うそ》でごまかすのは難しそうだった。  何故《なぜ》ならその目つきは、自身の意見を肯定《こうてい》されない限りは到底《とうてい》、納得《なっとく》しないと思わせた。 「見てたよ。助けることも出来なかった」  当時の僕はヘタレだったから。嘘もまともにつけない人間の出来損ないだったし。  何にも、出来なかったよ。  諦《あきら》めに近い、この感情。表に出たのか、妹が苦虫《にがむし》を噛《か》んだ容姿になる。嘘だけど。虫を咀嚼《そしゃく》した程度で、妹はしかめ面《つら》に縁《えん》を持たない。蝉《せみ》を食べた時は『土の味がする』と不味《まず》さに渋《しぶ》い顔となっていたけど。後、猫《ねこ》は『せっけんの味がする』と苦い顔だった。 「じゃあ、何してたの?」 「怯《おび》えてた」まーちゃんに。人の死に。血に。刃物《はもの》に。暗闇《くらやみ》に。滑《ぬめ》り気《け》に。  生きることに。これは、その後の話ね。  妹は、憐憫《れんびん》を含《ふく》んだような目つきになる。鳥肌《とりはだ》が何故《なぜ》か先走った。 「……あにーちゃんは昔からそう。肝心《かんじん》なところで人を助けてくれない」  溜息《ためいき》まで吐《つ》かれ、酷《ひど》い言われようだった。けど、何処《どこ》か、引っかかりを覚える言い方だった。  まるで、妹に対してもそうであったような、そんな口振《くちぶ》り。 「へたれで、そのうえ今は変態」  妹が肩《かた》の力を抜《ぬ》き、冗談《じょうだん》を交ぜたような軽蔑《けいべつ》の目線で見下《くだ》してくる。僕は消化しきれないものを腹に詰《つ》め込みながら、相好《そうごう》を崩《くず》した。 「変態って、心外だな。虫歯の心配をしただけなのに」薄型携帯《うすがたけいたい》ゲーム機が滑空《かっくう》してきた。右肩《かた》の傷に直撃《ちょくげき》して「ぎゃーす」内心では『gyaaaaaaasu』とか米国風味な叫《さけ》びが木霊《こだま》。  そんな僕の事情を与《あずか》り知らない妹は投球フォームを解除して更《さら》に罵倒《ばとう》を重ねる。 「女の趣味《しゅみ》も悪いし」「……それは、聞き捨て、ならないな」 「何で息|荒《あら》いの? 変態」肩の激痛と戦っているからだろうが。 「マユの何処が悪いというのだ」 「明らかに頭の螺子《ねじ》が足りないところ」  淡々《たんたん》と事実を指摘《してき》された。なんて奴《やつ》だ、浩太《こうた》君に叱《しか》ってもらえ。 「あの女、病気なの?」 「あの女じゃない。君の将来のお義姉《ねえ》さんだ」不確定だけど。ていうか、あり得ないけど。 「あたし、別にあにーちゃんと兄妹《きようだい》じゃないから」  鼻を鳴らしながら、淡泊《たんぱく》に否定する妹。  矛盾《むじゅん》したことをお言いになってるような気がしてならない。  それについて「にもうとさー……」と口当たり爽《さわ》やかに言及《げんきゅう》したら中身のない鉛筆《えんぴつ》立てが投擲《とうてき》されてきた。左手の甲《こう》で格好つけて弾《はじ》いたら、余計な痛みを負った。しかも「拾え」と命令され、部屋の隅《すみ》にまで転がった鉛筆立てを取りに移動しなければいけなくなった。何で従うこと前提なんだろうなあと疑問を抱《いだ》きながらも忠実な働《はたら》き蟻《あり》であった。回収ついでに、その方向にあったバットを両方とも観察する。……ふむ、多少は使い込まれた形跡《けいせき》ありと。  それから、回収し終わったら「帰れ」と命令される変態蟻。理不尽《りふじん》な仕打ちと褒美《ほうび》のなさに、蟻さんは怒《おこ》りました。傍若無人《ぼうじゃくぶじん》になるぞ、と心に誓《ちか》ったのです。  そんなわけで、妹の眼前に立ち塞《ふさ》がって質問攻《しつもんぜ》めすることにした。 「こっちからも質問してもいい?」 「いやだ」無視した。 「今まで何して過ごしてた?」 「部屋で蜜柑《みかん》とか食べてた」ほお、なら良し。ずっと家に籠《こ》もってたわけだ。 「十日ぐらい前、神社の側《そば》でお前を見かけた。その時間帯、あの付近では殺人事件があり、お前の服には誰《だれ》かの流した血液が付着していた」 「あたしがやったって?」意外と律儀《りちぎ》に応じてくれる。 「いや。学習|塾《じゅく》とか行ってるのかなって」 「嘘《うそ》つき」と正当な評価を下す妹。僕を視界から消す為《ため》、椅子《いす》を左に回す。常識的に、僕も回り込んだ。鳩尾《みぞおち》を殴《なぐ》られたけど怯《ひる》まない。新鮮《しんせん》な空気を求めて深呼吸はした。 「実際のところ、どうなんだ?」 「さあ、知らない。あたしだったらどうするってのよ」 「別に。僕の知り合いは見逃《のが》せよって」「知らないよそんなの」「長瀬《ながせ》とか恋日《こいび》先生とかジェロニモさんとか浩太《こうた》君とか杏子《あんず》ちゃんとか叔父《おじ》さんとか叔母《おば》さんとか一樹《いつき》とか金子《かねこ》とか、後は伏見《ふしみ》とか」「だから知らねーよ!」  ヤンキー魂溢《だましいあふ》れる否定と、椅子を応用した回《まわ》し蹴《げ》りが肋《あばら》に激突《げきとつ》した。まあ、僕の知人はさておき、妹自身は外出しないなら知り合いもいないんだろうな。 「後、もう一個質問」  早朝ランニングの帰り、運動不足で脇腹《わきばら》を押さえる人と見間違いそうな体勢になりながら妹に質疑の前振《まえふ》りをする。妹は僕に背を向けながら、首だけを後方に曲げて上下逆転の世界をその目に映していた。返事はなく、真赤の舌だけが僕を侮辱《ぶじょく》する為《ため》に下唇《したくちびる》へ伸《の》びる。 「これを聞いたら帰るよ」 「聞かずに帰れ」 「では帰らずに聞こう」  睨《にら》まれた。了解《りょうかい》が出たようなので視線は無視し尋《たず》ねた。 「昔、山で行方《ゆくえ》不明になったやつ。あれ、ワザとか?」  妹は目をぱちくりとか、そんな動揺《どうよう》と間も空けずに「そう」と短い肯定《こうてい》。捻《ひね》くれてるだか、素直《すなお》なんだか。 「家出する為《ため》に?」「うん」 「家、そんなに嫌《いや》だったか?」  若干の間に何を含んでいたかは知らないが、それでも顎《あご》を大仰《おおぎょう》に引いた妹。 「……そっか」  だったら、しょうがないか。  その理由までは根掘《ねほ》り葉掘り、聞き出そうと踏《ふ》み切らない。  自身の、無関心と関心の境界線というやつを実感出来て、少し新鮮《しんせん》。  けど、家はさておき自分の母親については、多少は気にかけてたんだな。 「でも、運が良かったよ。あのまま家にいたら、お前も地下暮らしだったろうから」  更《さら》に兄も自殺せず生存していたら、閉鎖《へいさ》的な監禁《かんきん》生活も大所帯で賑《にぎ》やかだったろう。  ただし、阿鼻叫喚《あびきょうかん》のBGMで。  妹は舌を引っ込めるだけで、無反応を貫《つらぬ》く。これ以上は僕がどれだけ饒舌《じょうぜつ》を気取っても、独《ひと》り言《ごと》の多い青年を演じることになりそうだった。引《ひ》き際《ぎわ》だな。 「じゃ、帰る。歯はちゃんと磨《みが》くように。後は生き返らないように気を付けろよ」  物が飛来してくるかと衝撃《しょうげき》に備えたけれど、特に何もなく、不自然にそのまま起立してしまった。拍子抜《ひょうしぬ》けである。喜ばしいことのはずなんだけどな。  入り口の扉《とびら》へ向かう。その最中、机の方からも物体が移動する効果音が鳴る。妹も、昼食を取りに祖父の下《もと》へ行くつもりなのかも知れない。  我が家に戻《もど》ったら、マユの爪《つめ》でも切るかと予定を取り決め、扉のノブに手を引っかけた。  それを見計らったように、声がかかる。 「あにーちゃん、こっち向いて」 「ん?」と頬《ほお》を朱《しゅ》に染めて、恥《は》ずかしがりながら振《ふ》り向いた。う、そ、だけど、  包丁。  刃物《はもの》+にもうと+あにーちゃん=僕が今見ているもの。  本人の足で五歩分、距離《きょり》の離《はな》れた妹の両手には、マユが使うのと同型の肉きり包丁がしかと握《にぎ》りしめられていた。  ……こっちも嘘《うそ》がいいんだけど。  臍下丹田《せいかたんでん》の位置で構え、対象を刺殺《しさつ》するには基本の姿勢だ。 「……どう、解釈《かいしゃく》すべきだ?」  まさか、僕を食べるって気じゃないだろうな。鍋《なべ》でグツグツじゃないだろうな。ミキサーでギュイーンじゃないだろうな。野菜スライサーでシャキシャキじゃないだろうな。どれもパーセンテージを零《ぜろ》にすることが出来ない相手である。努々《ゆめゆめ》、油断なさらぬように、と架空《かくう》の臣下《しんか》の進言が空耳《そらみみ》として頭蓋骨《ずがいこつ》に反響《はんきょう》する。  妹が、一歩|詰《つ》め寄る。表情が先程《さきほど》までと変化ないので、余計に恐怖《きょうふ》感と現実味が湧《わ》かない。 「話し合いの余地は?」 「……ある」と肯定《こうてい》しながら更《さら》に一歩、摺《す》り足で寄る。包丁の他《ほか》に、灯籠《とうろう》が似合いそうな挙動だ。あな恐ろし。  というか、包丁は止《や》めろよ。僕のポイントが溜《た》まるだろ。 「随分《ずいぶん》と落ち着いてるんだね」妹が顔の素材の中で、唇《くちびる》だけを作動させる。 「場数を踏んでるから」  健忘症《けんぼうしょう》の殺人|鬼《き》と戦ったり、甘えん坊《ぼう》な元人殺しと同棲《どうせい》したり。  それに、にもうと殿《どの》も物腰《ものごし》が定まっておられるご様子で。  人を殺すことには、手慣れてらっしゃられるとか? 「どういう意味で、僕を殺す?」  動機は何だ。心当たりが、曖昧《あいまい》に存在するだけで実体化しない。  母親のことか。僕自身への嫌悪《けんお》か.殺人の目撃《もくげき》者を払拭《ふっしょく》する為《ため》か。  妹は目を逸《そ》らさない。瞬《まばた》きも、捷毛《まつげ》の震《ふる》えもない。妹は迷わず、そして、 「あたしにも正直、区別ついてない」オイ。「だから、少し試《ため》してみた」一歩、迫《せま》ってくる。  妹の包丁と僕の腹は、間柄《あいだがら》が急速に迫っている。ドアノブにかかっていた筈《はず》の手は、いつの間にか外れて振《ふ》り子《こ》のように宙を揺《ゆ》れていた。妹が本気に目覚めれば、逃亡《とうぼう》することは既《すで》に不可能だろう。  残された手立ては、抵抗《ていこう》か、甘受《かんじゅ》か。  死人に殺される死人モドキという構図を、確立させるのか。  ……はっ。心の鼻で笑うというこの高等技術。嘘《うそ》だけどよ。 「ちょっと待て」  手の平を突《つ》き出し、少女と刃物《はもの》を制止させる。  考えるまでもなく、捻《ひね》くれ者はどちらも選ばないのだよキミィ。  それが、僕の選択《せんたく》した生きる術《すべ》なのだから。 「僕は手首とか切られるのが大嫌《だいきら》いなんだ」  力強く、腹に力を入れて宣言した。自分のヘタレは今|尚《なお》健在であると。  妹も「は?」とか露骨《ろこつ》に不意を突《つ》かれ、硬直《こうちょく》している。さて、次は何を口走ろうか。  頑張《がんば》れ脊髄《せきずい》、お前に懸《か》けた。 「それに、生死の瀬戸際《せとぎわ》に立つのも飽《あ》きた」  まずい、これでは単なる俺語り。生徒会の一員を目指してる状況《じょうきょう》じゃない。  妹の硬化《こうか》現象も解け出しているし。崖《がけ》っぷちだ。だからこそ、ここで決めるんだ。 「そして何より、僕はお前に刺《さ》されるより蹴《け》られたいのだ」  途中《とちゅう》、枇杷島《びわしま》に言われたことを、思い返していた。  なるほど、馬鹿《ばか》が馬鹿なふりを装《よそお》ってたらさぞかし、不快だろうな。  それはそれとして、後悔《こうかい》は周回|遅《おく》れで訪《おとず》れた。もの凄《すご》い嘘《うそ》をついてしまったのではないか、自分。いやしかし、嘘とも言い切れないわけではある。いやいやしかし、それは足長蜂《あしながばち》と雀《すずめ》蜂、刺《さ》されるならどっちという質問に、苦渋《くじゅう》とともに選択《せんたく》するという行為《こうい》に等しいわけで。 「そっちの方が気ぃ楽だと思うよ。お前も、僕も。人を殺すのは気疲《きつか》れするし、殺される方も面倒《めんどう》だし。殺人ってのは生活の一部にするか完全に忘れでもしない限り、背負った生活をすれば必ず何処《どこ》かで息切れを起こす、疲労《ひろう》の源泉なんだよ」  綺麗事《きれいごと》をほざいてごまかす。これが僕の第三の選択だったんだけど。  なんだか、演出の方向性を誤《あやま》ってるよな。 『何故《なぜ》、人を殺してはいけないのですか?』『お前には人を殺す意味があるの?』  ああ、何か、昔を想起した。確か兄と、母さんだったか。 「それに僕は、今のにもうとがそんなに嫌《きら》いじゃない。嫌いじゃない人間に殺されるってのは、まあ良い気分じゃないよな」  嘘《うそ》だけど。好ましくない人間に殺される方が、気分を害するに決まってる。  そんな僕のお年頃《としごろ》の心境を余所《よそ》に、妹は落ち着いたものだった。  凶器《きょうき》を握《にぎ》っていた当初から薄《うす》かった敵意を、更《さら》に希薄《きはく》としたように透過《とうか》した顔つき。  その悟《さと》りきった表情がどういう意味合いを持つか、僕は堪《たま》らなく不安だった。 「あにーちゃんは、ちょっと変わった」ちょっとなのが些《いささ》かもの悲しい。 「うむ。にもうとは何も変わってないな」  良いところも、駄目《だめ》なところも。……多分。  おや、情緒《じょうしょ》なく、ずかずかと歩いて近寄ってきた。説得は見事に失敗に終わったようだ。  妹が、僕の胸元《むなもと》まで最接近する。こうしてみると、やはりその体格は小柄《こがら》に尽《つ》きる。  そして、包丁は振り下ろされる。  僕に触《ふ》れないように、気を遣《つか》って。床に落下した。  妹が肩《かた》に手をかけて背伸《せの》びし、僕の口端《こうたん》を舌で拭《ぬぐ》った。血の滲《にじ》んでいた箇所《かしょ》だ。  ざらりと、こそばゆい感触。唾液《だえき》が肌《はだ》を蹂躙《じゅうりん》し、寒気が穿《うが》つ。  代打逆転サヨナラ満塁《まんるい》本塁打が飛び込んできた観客席ぐらい、鳥肌《とりはだ》総立ち。 「刺されるとでも思った?」  思春期な妹の、優《やさ》しさと癒《いや》しがない捻《ひね》くれた笑顔《えがお》。具体的には、笑顔のはずなのに目つきが異様に悪い。あ、これは生まれつきか。思春期関係ない。 「……いや。女課長、午後のセクハラ業務?」  取《と》り敢《あ》えず、僕の足首を蹴《け》っ飛ばしながら「その疑問系の意味が分からない」 「噛《か》み砕《くだ》いて言えば、にもうとも十分変態だなと」  蹴り飛ばされた。また流血、舐《な》め、蹴りの連鎖《れんさ》に繋《つな》がらなくて僥倖《ぎょうこう》だった。  その後、包丁のことには深く触《ふ》れずに妹宅を去った。  見送らない妹からは『もう来るな』も、『また来てね』もなかった。 [#改ページ]  三章『とある家族の罪状目録』 [#ここから3字下げ]  ゆっくりと、中身をかき混ぜる。  ぐちゃっともするし、時折、ごりっと硬いものもある。  全部、混ぜきっていく。  そうすると同時に、こんな風になるなんてという思いも、心の内側で渦を巻く。  汗が少し滲む。  それは、気分の高揚が収まり出す前兆だった。  そして訪れるのは、ふと冷静になって、色んなことを思い出す瞬間。  今原型を失わせているものに纏わる、微かな思い出。  だけどそれは、心を迷わせない。  むしろ、一層に手は作業に勤しむ。  新鮮なのに、乾いた気分。  飛び散って指先に付着したものを舐めとり、作業を続ける。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 「こんにちは」と挨拶《あいさつ》された。もぐもぐ。 「御園《みその》さん、今日は部活来る?」と稲沢《いなざわ》が喋《しゃべ》った。むぐむぐ。  僕もマユも、黙々《もくもく》と食事を取る。野菜ジュースとか吸う。  稲沢は、それでも笑顔《えがお》だった。  三月二日、金曜日。妹に蹴《け》り尽《つ》くされてから三日後。  僕らは自作の冬休みを終えて、登校を再開していた。今は昼休みで、購買《こうばい》部の惣菜パンをマユと一緒《いっしょ》に摂取《せっしゅ》している。弁当という代物はマユが早寝早起きを実践出来た日にしか恵まれない。つまりフィクションな品物ってことだ。  で、教室の喧喋《けんそう》に包まれ、トンボ投げの影響《えいきょう》か、時折|訪《おとず》れる視線を意に介《かい》さず過ごしていたら別クラスの稲沢が僕らを、正確を期すればマユを訪問しに現れた。いつ見ても鼻から色とりどりのビー玉が噴出《ふんしゅつ》しそうな男だ。生ける瞳《ひとみ》の人形、操《あやつ》れない人形、暴走身代わり人形などとある一人の女性に賞賛される僕とはえらい違《ちが》いだ。二つ嘘《うそ》だけど。  稲沢は、僕の隣《となり》、マユが座る席の正面に立つ。ちなみにその席は数ヶ月前、菅原《すがわら》に解体工事された五人目か六人目、どちらかの生徒が使用していた。机に置かれていた花瓶《かびん》はある日|忽然《こつぜん》と姿を見せなくなってしまった。不登校かな、等と実に無意義な思考を働かせながら、マユの動向を静観している。僕が話しかけられたわけではないので、口を挟《はさ》むのも面倒《めんどう》だった。 「はい。半分ずつ」 「うん」と僕は唐揚《からあ》げパンをマユに渡《わた》し、代わりに卵パンを受け取る。マユは稲沢を一度として見上げず、食事に集中している。僕は僕で、マユがパンを啄《つい》ばむように食べる姿を眺《なが》めて写真にでも収めようかなと寝惚《ねぼ》けたことを考えて、稲沢が何か口を動かしているのを視界の端《はし》で受け止めながら、その内容は聞き取っていなかった。  そうこうしているうちに、稲沢が机に腕《うで》をつけて屈《かが》む。マユと目線の高さを合わせる。それへの対処としてマユは瞼《まぶた》を閉じて食事を取る。合間のジュース注入は、僕が役目を担《にな》った。  しかしこいつ、爽快《そうかい》な面容のくせにコールタールな行動をする奴《やつ》だな。 「閉鎖《へいさ》的なのは、よくないと思うんだ。殻《から》に閉じ籠《こ》もってるっていうか、色んなものを狭《せば》めるのは。いつか必ず、大損をすることになるから」  マユが最後の一口を飲み込み終える。感情を見せないまま、僕が口元に差し出すストローをくわえ、紙パックをへこませながらじゅるじゅると中身を吸いきる。その姿を写真に収めようと以下略。  さて、食事は終了《しゅうりょう》してしまった。ゴミをビニール袋に纏《まと》め、後片づけも済む。  これから僕らは残りの時間、無言で触《ふ》れ合うこともなく適当にイチャイチャしなければいけないのである。自発的義務なのである、自分で言ってて意味わからんが。  その空間に異物があってはならない、とマユが結論を出したかは定かじゃないけど。  開眼したマユはようやく、パンを頬張《ほおば》る以外の工程で口を開いた。 「邪魔《じゃま》です、消えて下さい」  ピシャリと、王将の目前に歩《ふ》を打つ棋士《きし》の如《ごと》く、筋の通った拒絶《きょぜつ》。稲沢《いなざわ》は一瞬《いっしゅん》だけ自身の時を停止させてから、「そうするよ」と笑顔《えがお》で受諾《じゅだく》する。立ち上がり、去《さ》り際《ぎわ》、 「じゃ、えと、気が向いたら校庭の方に来てね」「行きません」  マユの否定に稲沢は落胆《らくたん》せず、むしろ嬉《うれ》しがっているのか目の皺《しわ》が増えた。 「またね」と廊下《ろうか》へ出る稲沢。その後ろ姿を一瞥《いちべつ》せず、「触《さわ》られなくて良かった」とマユが独白した。僕は何も口にせず、首と肩《かた》を回す。  机に上半身を委《ゆだ》ねながら、顔だけ上げている金子《かねこ》と目が合った。  下世話《げせわ》な好奇心が透《す》けて見えながら、それでも人の良さそうな容姿。  僕は誰《だれ》かの真似《まね》で、鼻を鳴らしてから正面を向いた。  ……『またね』か。  その言葉をあまり用いない人間関係を構築してきたことに、今更《いまさら》に気付く。  一期一会《いごいちえ》で茶道部の素質ありですねと、奈月《なつさ》さんみたいに自分を納得《なっとく》させておいた。  さて、放課後になった。僕は帰《かえ》り支度《じたく》をした後、マユを目覚めさせる前にトイレへ向かった。目的は、などと一々表明する必要があるか、真に疑わしい目的地だ。トイレするに決まってる。  月が春に更新《こうしん》されても、廊下《ろうか》の気温は肌寒《はだざむ》いの遥《はる》か下に位置している。薄《うす》ら寒《ざむ》いとかでは太刀打《たちう》ちできない寒冷な肌触りの空気。夏場の冷房《れいぼう》はともかく、冬場の施設費は何処《どこ》に注《つ》ぎ込まれているのだろう、と学校経営に興味と疑問を引き起こし奨励《しょうれい》する、流石《さずが》は学校の廊下である。嘘《うそ》だけど。  学業から一時解放された学生で賑《にぎ》わう廊下はとりわけ、部活動に足を運ぶ学生の姿が際立《きわだ》つ。そういえば、伏見《ふしみ》は演劇部の裏方に励《はげ》んでいるのだろうか。そう思うと同時に、派手に横転した音響《おんきょう》機材についても脳裏から浮かび上がったので、しっかりと忘却《ぼうきゃく》することにした。  廊下の突《つ》き当《あ》たりにあるトイレへ入り、色々経験して乗り越《こ》え、颯爽《さっそう》とその場を後にした。  が、廊下に戻《もど》り、そこで、乗り越えるべき試練がもう一つ追加された。  鞄《かばん》片手に、階段を下りかけている稲沢と遭遇《そうぐう》した。「おっ」と何故か嬉しがるような声をあげて僕に気付き、巻き戻し再生で階段から廊下に背走する。  それから「やっ」と軽く手を挙げて距離《きょり》を詰《つ》めてくる。マユの生《い》き霊《りょう》でも僕の肩《かた》に発見しているのかと無反応を貫《つらぬ》いていたら、「御園《みその》さんの側《そば》にいつもいる人だよね」と気さくに話しかけてきた。ふむ、僕に用事があるのか。 「えっと、俺の名前とか覚えてる?」 「うん? うん」名字は一応。あやふやながら、確証なく。  稲沢《いなざわ》と僕はトイレ前で対峙《たいじ》する。いや、別に敵対心《てきたいしん》は互《たが》いに持ち合わせてない、はずだけど。 「御園《みその》さんとは付き合ってるの?」 「一つ屋根の下で暮らしてる」  質問を袈裟懸《けさが》けに斬《き》り捨てた。稲沢は目をむいた後、苦笑いを浮かべる。 「あーこれ、ちょいと参ったなぁ」  苦笑する稲沢。後頭部を掻《か》き、僕を窺《うかが》っている。期待するなよ、『嘘《うそ》だけど』なんて。 「あーっと」年下な同級生に対してとはいえ、「君ねぇ」と先輩面《せんぱいづら》するのも憚《はばか》られた。呼びかけ方は適当で良いか。『この寝取《ねと》り系同級生が』いや嘘だけど、口に出しかけた。 「稲沢だっけ。マユの周囲を彷徨《うろつ》くのは、もう止《や》めた方がいいよ」  皆《みな》の為《ため》になる警告を、この機会に行《おこな》っておくことにした。  マユと、稲沢と……あれ、皆と括《くく》った割に二人しか当事者がいない。誰《だれ》か数え忘れてる? 「名前うろ覚えなのね」と軽く冗談《じょうだん》めいてから、稲沢は軽々《けいけい》に返答する。 「いやでも、御園さんと仲良くなりたいわけなんだ」 「…………………………………」僕に言うなよ。 「正直、好きだし」「…………………………………」だから、僕に告白するなよ。  男の照れや赤み差す頬《ほお》など見て微笑《ほほえ》ましくなるわけもない。早期にこの場を去りたくなる。 「ほら、こういうことはちゃんと彼氏に言っておいた方がいいと思ってさ」  稲沢が口からミントを栽培《さいばい》出来そうな爽快《そうかい》さを含《ふく》む笑顔で、僕に告げてくる。  何だそれは。今から貴方《あなた》の彼女を寝取りますと正々堂々宣言か。 「御園さんと出会ったのは中学の時なんだけど、正しく一目惚《ひとめぼ》れだったんだ」  窓の外を眺《なが》めながら語り出したし。僕も何か騙《かた》って教室に戻《もど》ろうかな。 「一貫《いっかん》して、澄《す》ましの途絶《とだ》えない態度とか。大人びた言葉遣《ことばづか》いとか。横顔とか。全部、同級生には片鱗《へんりん》も望めない要素だったんだ」  そりゃ、一つ年上だからな。  稲沢は一度|溜《た》めを置き、次の一言を殊更《ことさら》に重要視する言い方を取った。 「何より、あの純粋《じゅんすい》なところに惹《ひ》かれた」 「……純粋?」  それには思わず、聞き返していた。  稲沢が誇《ほこ》らしげに深々と頷《うなず》き、肯定《こうてい》する。稲沢が頭を下げると、背後の窓から差す日光が眩《まぶ》しいことを理解した。眼球の表面に、淡い刺激《しげき》が滲《にじ》む。 「常識の線引きに殴われてない。この間だって、君が不実に他《ほか》の女生徒と仲良くしてるのを怒《おこ》って、凄《すご》い行動に出たじゃないか」  稲沢《いなざわ》の言葉に、微《かす》かな棘《とげ》が生やされる。毒の含有《がんゆう》していないそんなものでは、まるで意味を成していないけれど。あの不器用な長瀬《ながせ》以下だ。あいつの剥《む》いた林檎《りんご》は、鉄分が豊富だったものな。 「嫉妬《しっと》をあんな風に素直《すなお》に表現することは、とても普通《ふつう》の人には無理だよ。表向きの人付き合いに縛《しば》られず、嫌悪《けんお》感を正確にぶつけたり。そういう、制限の存在しない振《ふ》る舞《ま》いに魅力《みりょく》を覚えるのは、結構自然だと思うんだ」 「…………………………………はぁ」としか言いようがない。  勘違《かんちが》いしてるようだし。  マユの何処《どこ》に、純粋《じゅんすい》なんてものが備わっているのか。そんなもの、入り込む余地はない。  彼女が見ている世界に、如何《いか》に幻想《げんそう》が撒《ま》き散らされているか、稲沢は理解していないのだ。  そんなことは露《つゆ》知らず、稲沢の台詞《せりふ》は続く。 「そう前置きしてるのに、言わせてもらうんだけど」 「特に聞きたくないんだけど」 「御園《みその》さんは君と一緒《いっしょ》にいるから一層|孤立《こりつ》するし、評判も悪くなるんじゃないかな」  などと稲沢が本質を突《つ》いてきた。ふむ正しい。  実際のところ、冷静になってみれば僕とマユって一緒にいる理由は既《ずで》にないんだよな。  僕がみーくんである必要性も、霧散《むさん》している。誘拐《ゆうかい》された兄妹《きょうだい》は解放されたのだから。 「御園さんが如何に君を慕《した》っていても、目線を周囲に向けさせる必要があるんだよ」  だけど今更《いまさら》マユに、ドッキリでしたと告げる勇気を振《ふ》り絞《しぼ》らないと駄目《だめ》なのか?  そしてそれが本当に、まーちゃんにとって有益となるのかね。  名答が存在しないから、あの人は治療《ちりょう》を放棄《ほうき》したというのに。 「御園さんの、昔の事件は知ってるよ。それでも……」途中《とちゅう》からは音声を遮断《しゃだん》した。  ……知っていて、ねえ。ほぉ。ほほぉ。ほっほっほぉ。  僕が熱血|野郎《やろう》だったら、有無《うむ》を言わさず稲沢を殴《なぐ》ったんだろうなぁとか仮想した。 「勿論《もちろん》、御園さんには難しいって分かってる。人に合わせるのも、周囲の人が同和するのも。だけど、やっぱりやる前から諦《あきら》めるのは変で損で、間違《まちが》ってるよ」  稲沢は言い切った。彼なりの価値観を露出《ろしゅつ》し、公《おおやけ》に晒《さら》した。 「…………………………………んが」「えっ?」  それで、来た。  頭中《ずちゅう》にひしめき、足の踏《ふ》み場《ば》も手の付き場も埋《う》め尽《つ》くす、切《き》り換《か》えスイッチの群れ。  それの一つが無造作に、稲沢の言葉に後押しされて電源を入れた。  虹彩《こうさい》に供給される、歪《ゆが》みの光。 「あのさ、本気?」 「ええと、何が、かな?」  目映《まばゆ》くない、永劫《えいごう》の光線。底冷えしない事理と、熱に爛《ただ》れない事実。  もっとも、それはまかり間違《まちが》わなければ光明などには変化しないが。 「やらない、出来ない。この二つに違いがあると、本気で思ってたりする?」  もしそうだとしたら、友好的になれないわけが解明出来る。  この健全に異常を改善しようと奮闘《ふんとう》する鼻穴ビー玉学生は、僕と徹底《てってい》して相違《そうい》なのだ。価値観も、人間関係への姿勢も。大きな枠組《わくぐ》みの中で、共通する部分が抽出《ちゅうしゅつ》し合えない。  それでは、無理なんだ。  人間っていうのは、自分に似通った要素が存在しない相手とは相|容《い》れず良好な仲を築けない、臆病《おくびょう》で繊細《せんさい》で保守的な生物なのだから。そういうとこ、動物的でいいよな。  同族|嫌悪《けんお》とかだって、意識の表れだし。  楽しい人付き合いはまず、相手の良悪ではなく、類似した部分を発見することに努《つと》めましょう。そこから、意識の領域に相手を収めていくことが始まるのです。  さて、そんな自己教育はともかくとして、稲沢《いなざわ》君である。呆気《あっけ》に取られている。彼の目線は今、疑心に揺《ゆ》れている。本当に自分は人間と会話していたんだろうか、と。  そう、彼は人間さんなのです。無自覚に、価値まみれに。 「そんなの、当たり前じゃ」「その背中」  稲沢の反論に背後から割り込んできた、優雅《ゆうが》の成分を中量|含《ふく》む声調。  僕と稲沢が舌戦を停戦し、同時に振《ふ》り返る。  今日は金属バットではなく、学生の使う木製|椅子《いす》。足を片手に掴《つか》んで、廊下《ろうか》を闊歩《かっぽ》してくる一宮河名《いちみやかわな》が微笑《ほほえ》んでいた。通りがけの生徒を軒並《のきな》み三歩ほど引かせ、悠々《ゆうゆう》としたご登場。 「うらやうらやま羨《うらや》ましい貴方《あなた》ね」  口癖《くちぐせ》になったのか、三段活用で僕を名指しする一宮。彼女のお陰《かげ》で、スイッチは元通りになった。息を吐《は》いて、溜《た》め込んだ感情の不燃物を掃除《そうじ》した。 「犯人は殺していないでしょうね?」 「勿論《もちろん》、副委員長の言いつけは守ってるよ」  犯人を殺害することにも、一宮に情報を提供することにも興味はないし。今のところは。  報道関係は、義人《よしひと》以降の死屍累々《ししるいるい》が街の道端《みちばた》に転がらない為《ため》、話題の発展性がないとお嘆《なげ》きだ。小粒《こつぶ》に、犬猫《いぬねこ》が解体される事件は二件ほど存在したけれど、人の後だとどうにも印象が薄《うす》い。街の人間も既《すで》に慣れてしまったといえる。  下《した》っ端《ぱ》委員の報告を受けて満足げな一宮が、初めて稲沢を捉《とら》える。線となり、意志の宿る眼球を覗《のぞ》かせないまま。  今の一宮はそれを自然に嗜《たしな》み、奈月《なつき》さんは意識して、日頃から実践《っつせん》している。 「貴方、犯人?」 「あーいえ、違うんじゃないかな」  稲沢《いなざわ》が困惑《こんわく》気味の微笑《びしょう》で、当然ではあるけど否定する。冗談《じょうだん》でも『イエス』のあらゆる同意語を口走れば、病院に送られるだけ幸せだったとベッドの上で噛《か》みしめる週末を送ることになるか、或《ある》いは、赤い天国に一直線か。稲沢は地獄《じごく》行きではないだろうなと、ハンカチを噛んで妬《ねた》むふりをした。嘘《うそ》だけど。僕は天国や地獄など信用してない。  虚偽《きょぎ》と悪事を重ねてる身の上だから、あったら面倒《めんどう》なんだよな。  それに、マユがどちらにご招待されるのかも悩《なや》ましくなるし。嘘だけど。  一宮《いちみや》が椅子《いす》と右手を腰《こし》の後ろで組み、稲沢を品定めする。稲沢は所在なさそうに口元だけ笑い、目を泳がせる。僕と目線が合ったけど、稲沢は美化委員ではないので、助け合いの精神は芽生えなかった。薄情《はくじょう》者の言い訳は、それで十分だろう。  一宮がウィンドーショッピングの姿勢を終了《しゅうりょう》して、前髪《まえがみ》を椅子と指で直し、「そうね」と稲沢を否定する。その表情は、多少の疲労《ひろう》と多大な失望に満たされていた。 「貴方《あなた》は違《ちが》いそう。そちらのうたがうたがわ疑わしい貴方と違って」  僕を比較《ひかく》対象にするのはどういう心積もりたい、お嬢《じょう》さん。しかも思い切り信用されてない。  この場合は人間として疑惑《ぎわく》的なのか、犯人候補に数えられているのか、どちらで解釈《かいしゃく》するのが都合良いのだろう。 「義人《よしひと》とは、少しは仲良かったんだけど」十年ほど前。 「繋《つな》がりのある方が疑わしいのよ」  僕の一応の弁明を、一宮は正論ではね除《の》ける。そして片手持ちの椅子で僕を物理的にはね除けようと、  躊躇《ためら》わず後方に飛び退《の》いた。椅子の前足が顎《あご》の先を掠《かす》り、風を薙《な》ぐ。  右手を先付けして受け身を取り、背面で廊下《ろうか》を滑走《かっそう》する。摩擦熱《まさつねつ》で冷《ひ》や汗《あせ》が程良《ほどよ》く温まり、新陳代謝《しんちんたいしゃ》が活発になるなら良いこと尽《づ》くめなんだけど。運動不足の右足に、痛みが粘《ねば》つく。  尻《しり》と背中を手で払って立ち上がり、距離《きょり》を保ったまま顎をさする。  椅子を無形の位に持ち直し、一宮の首が傾《かたむ》く。そのまま頭部の糊付《のりづ》けが甘くて床《ゆか》に落下したら、この危機は円満解決なのだが。僕も随分《ずいぶん》と、楽観視するようになってきたなと自嘲《じちょう》してしまう。それもこれもまーちゃんの頬《ほお》の触《さわ》り心地《ごこち》が悪い、と責任|転嫁《てんか》した。 「避《さ》けるということは貴方、やはりはんはんに犯人?」  武闘《ぶとう》派すぎるよ、この探偵《たんてい》。不審《ふしん》者が森に隠《かく》れたら火を放って焙《あぶ》り出し、崖《がけ》から海に飛び込もうものなら栓《せん》を引き抜《ぬ》こうと海底を探索《たんさく》に出かける人を相手になど出来ない。けど、背後には壁《かべ》と窓、右《 》手にはトイレ。男子便所には……踏《ふ》み込むに決まってる。最近の女子は恥《は》じらいっちゅうもんがね、と老人気取ってる余裕《よゆう》はない。ないのに思考する自分は馬鹿《ばか》なのか、危機感が欠如《けつじょ》しているのか。……両方|該当《がいとう》が、模範《もはん》解答だな。 「心にやまやまし疚《やま》しいものを抱《いだ》いているから避《さ》けるのでしょう?」 「ちょっと待て。じゃあ一宮は僕に殴《なぐ》られても、避けないと?」 「ええ、もちもちろ勿論《もちろん》」とにこやかに肯定《こうてい》する一宮《いちみや》。無駄《むだ》な質問をしてしまった。  僕は別に一宮に暴行を加える理由がないのだから、これでは相手の正当性を立証するだけとなってしまっている。ああ、周囲の生徒のざわめきが遠い。実際見て見ぬふりして逃げていくから、ざわめきもあったものじゃない。更《さら》に問題なのは、誰《だれ》かが教師を緊急《きんきゅう》手配しようとも、一宮に対する抑止力《よくしりょく》となり得ないことだ。 「ああな貴方《あなた》がよしよしひ義人《よしひと》をさつさつが殺害したのねゆるゆるさ許さない」  仇敵《きゅうてき》を狙《ねら》い定めた興奮《こうふん》からか、口泡《くちあわ》と狂《くるい》が大増量している。笑顔《えがお》も失せ、充血《じゅうけつ》して出番を待ちぼうけていた瞳《ひとみ》が露出《ろしゅつ》し、完全に役割を取り戻《もど》す。末期の度会《わたらい》さんと同格の症状《しょうじょう》だな。 「それは誤解だよ。早合点しないでくれ」  夢遊病の足取りで近寄る一宮に言葉で一時停止を試みる。効果のほどは、ない。 「かえかえし返して義人の、臓物《ぞうもつ》を」 「……モツ?」相手は僕の話を聞いてないが、こちらはつい尋《たず》ねてしまう。鍋《なべ》か? 「足りないのよ、義人の内臓が! 警察がそう言ってたわ、犯人が盗《ぬす》んだのよ!」  一宮が目鼻から体液を垂《た》れ流して絶叫《ぜっきょう》する。これでは気軽に、警察に発見される間の時間帯で野良犬《のらいぬ》とかが食い漁《あさ》っただけじゃない? と意見を挟《はさ》めない。大体、そんなものが今更《いまさら》必要か?  まさかとは思うけど、「内臓を取り返したら義人が生き返ると思ってたりする?」 「貴方《あなた》はそんなことも思えないのか%&〜$$&$’&!」  中盤《ちゅうばん》から一宮が大フィーバーした。非常に汲《く》み取り辛《づら》いが、肯定《こうてい》の意を示しているようだ。それなら、犯人を殺してでも内臓を奪《うば》い取ろうとする姿勢は分からないでもないけど、理解したくはない。とっくに遺骸《いがい》は火葬《かそう》されているし。  ……ん? 内臓? んー、まさかね。心当たりに用はないよ、にもうと。 「それにそれにそれにぞれにいいぎぎぎぎい!」  一宮の口から泡が大放出。怪異《かいい》、蟹女《かにおんな》といった風情《ふぜい》である。……ふむ、それに、ね。 「落ち着け、僕はそんな物好《ものす》きこのんじゃいない。焼肉屋でもカルビとロースしか注文しない贅沢《ぜいたく》者なのですよ。ホルモンとか大嫌《だいきら》い」身振《みぶ》り手振りを交えて、嘘《うそ》だけど。 「ても貴方、さけさけ避《さ》けたわ」  あ、笑顔に舞《ま》い戻《もど》った。足も止まったし。けど少し喋《しゃべ》りが戻りきってない。 「それは仕方ない。咄嵯《とっさ》の攻撃《こうげき》に思慮《しりょ》の挟まる余地がないのは、動物の本能だ」  そう釈明《しゃくめい》しながら、未《いま》だ廊下《ろうか》で突《つ》っ立っている稲沢《いなざわ》を一瞥《いちべつ》した。  稲沢は一宮|側《がわ》に寄った状態で、壁《かべ》に沿って事の成り行きを見守っている。彼の良心の度合いから察するに、この事態を収めようという気概《きがい》はありそうだけど、手の出しようがないといったところか。腰《こし》も引けてるし。 「では今は、むてむてい無抵抗《むていこう》に受け入れると?」  一宮が、際《きわ》どい質問をしてくる。これに『はい』で晴れて無罪|放免《ほうめん》、椅子《いす》でぼっこぼこ。『いいえ』でめでたく有罪判決、椅子《いす》でぽっこぼこ。」……勇者もびっくりじゃねぇか、何だこの二択《にたく》。何とか妥協《だきょう》案を講じねば、マユと下校出来ないじゃないか。 「その通り。ただし、その証明には一撃で十分だろう? それ以上は選別でなく、僕への攻撃と見なす」見なしたところで、反撃する意味は未《いま》だ手元にないのだが。 「それでいいのよ」と一宮《いちみやし》が承諾《しょうだく》する。僕は「ありがとう」の一言がどうしても言えなかった。  上履《うわば》きの踵《かかと》を踏《ふ》んでいる一宮が、緩《ゆる》やかな速度で僕の下《もと》へ来る。どうしてこうなったのだうう。僕は今回、まだ何一つ悪事に加担《かたん》していないのに。一応、容疑者候補の名を隠匿《いんとく》しているけど、一宮が尋《たず》ねないのなら答ようがない。たとえ問い詰《つ》められようと口にしないだろうけど。  一宮が、僕の前で静止する。丁度、妹に包丁の切っ先を突《つ》きつけられた時と似た距離《きょり》だ。 「一発ね」と念を押す。「ええ一発」と了承《りょうしょう》する。そして、ソフトボール部の剛腕《ごうわん》が縦にフルスイング。え、横じゃないのか、「げべ」  我ながら一山幾《ひとやまいく》らの雑魚キャラでも無理があるやられ台詞《ぜりふ》だなあとか、現実|逃避《とうひ》したくなる激痛が襲《おそ》いかかってきた。耳鳴りと白濁《はくだく》した視果、崩《くず》れる膝《ひざ》。昏睡《こんすい》していない自分を不思議がるほどの一撃。廊下《ろうか》が目の中で捻《ひね》られ、摩詞不思議《まかふしぎ》に渦巻《うずま》く。  流石《さすが》に、毒物で弱った老人と運動で鍛えた狂人には雲泥の差がある。痛感した。  一宮が腰《こし》を屈《かが》め、稲沢《いなざわ》と同様に僕を品定めする。恐《おそ》らくその成果としては限りなく黒なのだろうけど、無抵抗主義《むていこうしゅぎ》を貫《つらぬ》いた為《ため》に認めざるを得ないようだ。嘆息《たんそく》し、椅子を、今度は横に一振り。壁《かべ》を破損させ、容疑者の消失という無念に目を伏《ふ》せる。 「これで貴方《あなた》は犯人ではない、としんしんよ信用するわ」 「そりゃあ、どうも」  背もたれの部分で良かった。金属部分が直撃していたら、コブどころでは済まされない。  けど一宮、一つ言おうか。  まさか頭とは思わなかったよ。  普通《ふつう》に痛い。外どころか中身まで割れたかも知れない。  一宮は約束通り、一撃以上の行為《こうい》には及《およ》ばなかった。被害《ひがい》は最小限に抑《おさ》えられたようだ。  生きてて良かった、とは感涙《かんるい》しない。正式に死んだこともないのに、比べようがない。  一宮は軽やかに去っていった。「ごきげんよう」とか似合いそうな面構《つらがま》えなのに、挨拶《あいさつ》もない。普通に今のは傷害罪であり、彼女は既《すで》に停学中ではあるのだけれど、周囲は恋人を殺害されて精神に病《や》みを得た『被害者』として扱《あつか》っている。マユだって、敬遠されてはいるけど『被害者』として、憐憫《れんびん》を含《ふく》んでいる人間だ。菅原《すがわら》の世評は微妙《びみょう》だけど。  けれど、  僕は、明確に違うんだよな。  何せ誘拐《ゆうかい》・監禁《かんきん》・暴行の非人道|三拍子《さんびょうし》を兼《か》ね備えた犯罪者の、『息子《むすこ》』なのだから。  僕は、『加害者』の血縁《けつえん》なんだ。  ……どうでもいいけど。 「大丈夫《だいじょうぶ》?」  稲沢《いなざわ》に心配されたかと顔を上げた。けど、その途中《とちゅう》で靴下《くつした》の色と上履《うわば》きのサイズと下半身のお召《め》し物《もの》がきゅーちくるに変化していることに目敏《めざと》く着眼した。半死にのザリガニぐらい腐乱臭漂《ふらんふしゅうただよ》う今の脳味噌《のうみそ》でそれだけ気付けば大天才だ、と自画自賛してから顔を上げる。稲沢は、先程《ささほど》と同じ、もはや定位置と呼んで過言でない居場所で、唖然《あぜん》と僕らを眺《なが》めていた。 「……見学してたのか?」  僕の目前には、西日を肩《かた》に纏《まと》った、伏見《ふしみ》が立っていた。肩には鞄《かばん》、手には当然、見慣れた手帳。僕に影《かげ》を被《かぶ》せながら、頭頂をつぶさに観察している。こら、指でたんこぶを突《つつ》くな。 「先生を捜《さが》してたけど、見つける前に事が終わってしまった」  さして無念そうでもない伏見。天然で浜砂や卵の殻《から》を噛《か》むような声音《こわね》だから、そう解釈《かいしゃく》してしまうのかも知れないけど。 「保健室行く?」 「いや、そこまで酷《ひど》くないよ」と謙虚《けんきょ》な日本人を演じながら頭をさすり、立ち上がる。  ……おや? 違和《いわ》感が耳に所在《しょざい》なく漂《ただよ》っていたけど、そうか。 「なあ、大丈夫って手帳にまだあっただろ。さっき使わなかったのか?」  僕の指摘《してき》に、伏見は絶え間ない瞬《まばた》き。「あっ」とか自覚した反応の後は、早送り再生。  伏見は何故《なぜ》か大慌《おおあわ》てで鞄をひっくり返し、教科書や弁当箱を床《ゆか》に散乱させる。そして床にスカートの処置を無視して屈《かが》み、筆箱を掴《つか》む。この一部分だけ目撃《もくげき》すれば、僕が伏見を苛《いじ》めているようにしか取られない気がした。  筆箱からペンを取り零《こぼ》しながら、消しゴムを取り出す。手帳をバサバサと開き、『大丈夫』の尻《しり》にある正の字を一本どころか、丸々消去してしまった。いやだから使用してないからして。  そんな回りくどいやり取りを行っている僕らに、「あー」と控《ひか》えめに割り込んでくる。金子《かねこ》かと予想したけど、稲沢だった。間違《まちが》えさせやがって、と逆恨《さかうら》みが募《つの》る。嘘《うそ》だけど。 「じゃあ、俺はお先に失礼するよ。部活はまた誘《さそ》うから」  思惑《おもわく》を悟《さと》らせない、乎凡《へいぼん》な笑顔《えがお》で去ろうとする稲沢。どうも、先程までの一宮《いちみや》と僕のやり取りはなきものとして、平坦《へいたん》な日常を取り戻《もど》す腹積もりらしい。だから僕は意地悪してやった。 「ちょい待ち」とその背中を呼び止める。好青年らしく、律儀《りちぎ》に振《ふ》り返る。 「さっきの言い分に照らし合わせれば、一宮にも同様の評価を下せると思うんだけど。純粋《じゅんすい》に一途《いちず》まで追加されてる淑女《しゅくじょ》だよ?」 「……それはそうだけど。けど……容姿も大事だから」  はは、と照《て》れ隠《かく》しの笑い混じりで稲沢が言う。こいつも良い根性《こんじょう》してるな。 「じゃあ、御園さんによろしく」「はいはい」「それと、伏見さんも。つか、喋れたんだね」  その軽妙《けいみょう》な感想に、伏見は髪《かみ》を弄《いじ》って受け流す姿勢。どうやら稲沢《いなざわ》は、伏見の肉声を拝聴《はいちょう》する機会には恵《めぐ》まれてこなかったらしい。部員である僕はかなりの回数、耳にしているが。  稲沢が制服の寄りを直しながら、軽快な足取りで階段に駆《か》けていく。背後から追走して跳《と》び蹴《げ》りでも入れようかなあと思慮《しりょ》深く悩《なや》みながら見送った。まあ嘘《うそ》だけど。  で、残るは伏見。手慣れたように教科書類を鞄《かばん》に詰《つ》め直し、僕の背丈《せたけ》を超《こ》えるのではという勢いで直立。残念ながらその頭部は僕の首もとあたりで成長を中断してしまった。  そして、伏見は身動《みじろ》ぎも特にせず、僕を見上げる瞬《まばた》きの回数が飛躍《ひやく》的に増加する。 「んー、今日は部活は不参加だけど」  部長にサボりを報告してみた。こくこくと受理する伏見。  それから唇《くちびる》が窄《すぼ》まり、そこで硬化《こうか》する。「ひゅ、ひゅ」と短く息を吐《は》き、練習が終わったのか、「しゅ、」「…………………………………………しゅ?」凍結《とうけつ》した伏見を揺《ゆ》さぶり、続きを促《うなが》した。 「シュレディンガーの猫《ねこ》は、好き?」  緊張《きんちょう》に追いつめられた伏見から、不可解な質問が飛び出した……うーむ、引っかけ問題? 「悪いが、僕は暗所恐怖症《あんしょきょうふしょう》なんだ」  それは嘘《うそ》だが、箱の中など真《ま》っ平御免《ぴらごめん》である。後、毒ガスも敬遠気味だ。  伏見は「そうじゃなくて」と、『それはさておき』のジェスチャーを両手で行う。僕もそれに従って頭を切り換《か》えるが、当の伏見は一向に話を紡《つむ》がない。口ぱくしたり手帳を捲《めく》ったり、両|腕《うで》を回転させたり。……暫《しばら》く無言で付き合ったが、焦《じ》れた。 「えーっとだな、僕も帰っていいか?」  頭痛まで催《もよお》してきたから、ベッドで横になりたい。  伏見は「あ、うん……」と落胆《らくたん》を隠《かく》さず、僕に道を譲《ゆず》る。……何なんだ?  突《つ》っかかりはあったけど、「さよなら」と控《ひか》えめに挨拶《あいさつ》し、伏見を取り残して歩き出す。  振《ふ》り向くと子犬になって尻尾《しっぽ》を振っていそうなので、敢《あ》えて前を見|据《す》える。  伏見|柚々《ゆゆ》。妙《みょう》ではある。  しかし、普段《ふだん》から変なのだから、さして大差はないよねと結論づけて教室を目指した。  教室には、まだまばらに生徒が座り込み、雑談に興じていた。  その中で、寝惚《ねぼ》けて飛びかかってこないよう気を遣《つか》いながら、快眠《かいみん》中のマユを起床《きしょう》させる。  のたくたと目覚めたら、鞄《かばん》を持たせて背中を支えながら退室する。  廊下《ろうか》に出る。  そこで僕は稲沢との約束を果たした。 「まーちゃん、よろしく」  おっと、何か抜《ぬ》かしてしまった気がするぜ。  でも聡明《そうめい》なまーちゃんは「まかせて」と納得《なっとく》してくれた。  よかったよかった。  そして、僕らは仲睦《なかむつ》まじく帰宅しましたとさ。  車輪が回る度《たび》、記憶《きおく》も巡《めぐ》る、浮かび上がるのは、定食屋の看板。 『ええ、小腸《しょうちょう》が発見されてません。あ、回鍋肉《ホイコウロウ》を単品で追加です』『すいません、それと水お代わり。他《ほか》に現場からなくなったものはあります?』『ご飯の並を一つ。そうですね、確か鞄《かばん》が紛失《ふんしつ》していたかと』『鞄、ですか。あ、水お代わり』『鮭《さけ》のみりん焼きお願いします。殺害現場に行くまでに、自宅へ戻《もど》ってもいないようですし』『へぇ……水お代わり……あ、セルフサービスですね。……義人《よしひと》の死体って、腹とか切り裂《さ》かれてたんですか?』『たこわさ追加で。そうですね、鈍器《どんき》による致死傷《ちししょう》、それと刃物《はもの》傷が一つ……ところでみーさん、こんなことを尋《たず》ねるということは、何か心当たりでも?』『警察は民事|不介入《ふかいにゅう》ですので、それをこちらから破らせるわけにはいきませんよ』『みーさんのお気遣《きづか》いが心に染みます。ではそろそろ、妹さんをご紹介《しょうかい》して頂けますか?』『そんな……死んだ妹に会おうとするなんて、奈月《なつき》さんまで死んだら僕は、僕は……』『みーさんったら……まぁ……では、清く正しい浮気《うわき》付き合いですので、ここのお勘定《かんじょう》は割り勘ですよね』『……失礼、鼻から水が』  いやいや、こんなつい今《いま》し方《がた》の酸《す》っぱいやつじゃなくて。もっとほろ苦いやつとかね。  ええと……よし、自転車関連な。  自転車に乗る練習を放課後、一人でこなした記憶。家にあったのは大人用の自転車で、転ぶとやたら痛かった記憶。乗れるようになってからは、父が飲む酒や兄が読む本を買いに行かされた記憶。それと、兄の亡骸《なきがら》を見送る為《ため》に、妹を荷台に乗せて斎場《さいじょう》へ行った記憶。  ……妹は、後輪に足を入れる癖《くせ》があった。当然、そんなことをすれば運転手の僕はバランスを失い、横倒《よこだお》れになる。足は車体と地面に挟《はさ》まれて、擦《す》り傷《きず》と痣《あざ》を拵《こしら》える。妹も当然、巻き込まれる。そうすると妹は自分の所為《せい》にも関《かか》わらず僕を蹴《け》り、手を掲《かが》げる。その手を掴《つか》んで引っ張り起こし、自転車を立て直して、また運転を再開する。行き帰りに、必ず一回だけそんな悪戯《いたずら》をする妹を、僕は未《いま》だに理解できないでいた。  叔父《おじ》の家から無断借用したママチャリを利用して、夜の街をかっ飛ばしていた。今し方定食屋で奈月さんと密会し、懐《ふところ》から温《ぬく》もりを奪《うば》われてその帰りだった。  まぁ、会おうと言い出したのは僕なので、自業自得《じこうじとく》ではある。けれど奈月さんも、犯人候補である妹の情報を僕から聞き出そうとしていたわけで。警察の魔手《塞しゅ》が妹に迫《せま》ったり、ついでに一宮《いちみや》達と遭遇《そうぐう》して惨殺《ざんさつ》加工される未来を想像した結果、ごまかしてはおいた。孫を庇《かば》う度会《わたらい》さんの気持ちが、今なら多少は理解できる。多分、嘘《うそ》だけど。  午後九時半、マユが活動しているはずもない時間帯。けれど糸の切《き》れ端《はし》は互《たが》いの小指にぶら下がったままだ。離《はな》れていても見えない糸で繋《つな》がってる的なアレだね、白々《しらじら》しい嘘《うそ》だけど。  この小指の穴が見事に化膿《かのう》した為《ため》、薬を購入《こうにゅう》すべく今は帰りがけに、深夜営業のドラッグストアを目指していた。薬品を購入すれば財布《さいふ》は紙幣《しへい》を全《すベ》て失うけれど、背に腹は代えられない。  砂利道の多い近場を過ぎ、市街地の方へ入っていく。アスファルトの整備が行き届き、車輪が石に遮《さえぎ》られる感覚がないのはありがたい。多少、横着な運転を取っても転倒《てんとう》する危険性が薄《うす》まる。代わりに、自動車のアメフトごっこに巻き込まれて空を舞《ま》う可能性は増えたけど、気にしない。  深夜営業している乾物《かんぶつ》屋の前を通り過ぎ、駅前に出ると三階建て以上の建物が増えてきた。顎《あご》を上げないと視界に収まらないビルの屋上。金属の錆《さび》が浮き出て、寂《さび》れてはいるけど市の中では発展している方だ。それでも、この時間では人影《ひとかげ》の蠢《うごめ》きが既《ずで》になくなっている。殺人事件の影響《えいきょう》か、深夜|俳徊《はいかい》している人間は少数で、故《ゆえ》にその姿が闇夜《やみよ》の中でも目立つ。  信号が赤で、駅からタクシーの流出が始まっていたので、大人しく横断歩道の手前、先客の左に停止する。金券ショップを背中にして、赤光に地面や自転車の車体が染まる。  吐息《といき》の漂白《ひょうはく》を目で追いかけ、空や、正面の駅のホームを見上げた。発車時刻を告げる女性の声が、車の走行音に紛《まぎ》れて耳に流れてくる。新幹線の通行しない、市名を冠《かん》した駅。最後に電車を利用したのは、中学の修学旅行だったかな。 「……せんぱい?」 「ん?」と、右に流し目。そこで相手と目線が合い、懐疑《かいぎ》的だった声の調子も和《やわ》らぐ。 「あ、やっぱりせんぱいだ。こんばんは」  隣《となり》の信号待ちは、枇杷島八事《びわしまやごと》(自転車付属仕様)だった。  今日はいつぞやと異なり私服で、長物《ながもの》の装備《そうび》も見当たらない。籠《かご》には、赤褐色《せっかっしょく》のリュックサックが一つ。帽子《ぼうし》と手袋《てぶくろ》で肌《はだ》の露出《ろしゅつ》を避《さ》け、残るは顔面と首下だけだった。いや、どんな目的かは意味不明だが、達成感は得られそうだなと。 「こんばんちは。何してるのさ」 「習い事の帰りです。せんぱいは、何でしたっけ夜のオフサイド? ですか」  小馬鹿《こばか》にした調子で先読みをする枇杷島。「惜《お》しい、土合戦《つちがっせん》だ」 「サボり学生のくせに色々と余裕《よゆう》ですね。それで、たんこぶは平気なんですか?」  僕の頭上付近に視線を定め、枇杷島が社交辞令のように伺《うかが》ってくる。ベルを一度鳴らした。 「今、宴会《えんかい》してる鬼《おに》達を捜索中《そうさくちゅう》だよ。踊《おど》りに自信はないから、小話で頑張《がんば》ってみるつもり」 「……はぁ」と溜息《ためいき》を吐《つ》かれた。露骨《ろこつ》に盛大に、祭り事のように豪勢《ごうせい》な肺活量の振《ふ》る舞《ま》いだった。ついでに欠伸《あくび》もされた。 「せんぱいは宇宙人とかに拐《かどわ》かされて手術されて、たんこぶを真面目《まじめ》スイッチにでもしてもらった方がいいですね」  眠たげな目を擦《す》りながら、人外生物への転向を推奨《すいしょう》された。そのお陰《かげ》で、真面目《まじめ》スイッチが中途半端《ちゅうとはんぱ》に入る。 「枇杷島《びわしま》も、僕が一宮《いらみや》に仕置きされるのを見物してたのか?」 「せんぱいみたいに帰宅部じゃないんですよ、部活に出てました。人づてに聞いただけです」  軽い嫌《いや》みで刺々《とげとげ》しい態度を演出する枇杷島副部長。副部長という肩書《かたが》きを誇示《こじ》する前に信号が青に変わり、左右も確認《かくにん》せず僕らの自転車は道路を横断し始める。 「まあぶっちゃけ、私も殴《なぐ》られました」  枇杷島が頭部を指で押す。ふむ、彼女のたんこぶはしかめ面《つら》スイッチのようだ。 「それは災難《さいなん》。で、何が頭にごっつんこした?」 「素手ですけど、避ける暇もなかったです。その後の河名《かわな》の落ち込み方は忘れがたいですよ」  一宮さんはフェミニストだなぁ、と友情の暖かみが頬《ほお》を濡《ぬ》らす夜露《よつゆ》を乾《かわ》かした。嘘《うそ》だけど。 「そういえば、さっき伏見柚々《ふしみゆゆ》とも会いましたよ。宗田《そうだ》君が死んでた近所をうろうろしてましたけど、あの人、何してるんです?」 「僕に聞くなよ」初耳だし。 「話しかけても声一つ返さないし。病気か何かで喋《しゃべ》れないんですか?」 「そんなことはないよ。僕とはけっこう喋るし」 「へぇ……」と感慨《かんがい》なく枇杷島が反応しながら、予備校の前を右折するので、僕も追走してみた。単にドラッグストアへ向かっているだけなのに、まるで枇杷島の尻《しり》を追跡《ついせき》しているようでもある。 「せんぱい、何処《どこ》行くつもりなんです?」  枇杷島が減速しながら、首を後方の自転車に向けて捻《ひね》る。 「枇杷島の部屋」とか、たとえ冗談《じょうだん》でも本気で引くか嫌《いや》がるかするのは明白だったので、「漫画喫茶《まんがきっさ》」と遠くに見える建物を指さして嘘をついてみた。 「そうなんですか……私、入ったことないんですよね」  枇杷島がベルを一度鳴らす。癖《くせ》なのだろうか。軒並《のきな》みに沿って緩《ゆる》やかに左に曲がり、道路を横断する為《ため》にまた信号を待つ。枇杷島も、僕に隣接《りんせつ》して停止した。 「隣《となり》の映画館なら行ったことあるんですけど」  枇杷島が、興味津々《きょうみしんしん》の空気を包み隠《かく》さず纏《まと》い、僕を見る。「簡単に説明するとだね」と言ってみたら、童女《どうじょ》みたいにあどけなく首を振《ふ》って食いついてきたので、詳細《しょうさい》を語った。 「個室で、時間制。一時間で四百円ぐらいかな。女性はもう少し安いけど。パソコンも備わってる。で、飲み物は飲み放題。そんな感じ」  各要素を区切って説明する。枇杷島は「ふうん」とまんざらでもない反応。目線が僕から、ネオン輝《かがや》ぐ喫茶店に移行する。 「明日にでも来てみたら? 休みだし」 「んー、別にいいです」と僕の適当な提案を却下《きゃっか》し、「今から行きます」 「……さいですか」と、枇杷島《びわしま》の笑顔《えがお》に答えた。ドラッグストアは自分の中で閉店させて、僕も口から出任せを有言実行する為《ため》に付き合うことにした。それに、一宮《いちみや》と事件の現場を巡《めぐ》っていたこいつから、何か情報収集出来るかもと、多少の期待を持ったり。  信号が変わり、今度は左右|確認《かくにん》を行って歩道を走る。道路を渡《わた》りきり、店の前に並べて自転車を置いた。駐車《ちゅうしゃ》場は裏手にあるが駐輪場はないので、客が好き勝手に停《と》めている。  枇杷島は手袋《てぶくろ》を外し、鞄《かばん》を籠《かご》から引き上げる。それから、僕を先頭にして自動|扉《とびら》をくぐった。  店内ではまず暖房《だんぼう》の熱気に鼻が浸《ひた》される。次《つ》いで、投げやりな店員の挨拶《あいさつ》がカウンターからかかる。店内は程良《ほどよ》く薄暗《うすぐら》い。睡眠《すいみん》を取る人にも考慮《こうるp》してある為だ。机上に電気スタンドが常備されているから、本を読む際の調節は可能にしてある。  入り口の周囲に設置された、入室の待合い椅子《いす》は満員だった。それを見て「少し待つことになるけど」と枇杷島に言ったら「いいですよ」と返した。  受付で、店員に入室の意を伝える。「お待ちして頂くことになりますが」と申し訳なさの一切《いっさい》ない台詞《せりふ》を受諾《じゅだく》し、一旦《いったん》受付を離《はな》れた。  店のお勧《すす》めの棚《たな》にある漫画《まんが》を立ち読みしながら、名前を呼ばれるのを無言で待った。枇杷島は時折、店内に目線を彷徨《さまよ》わせている。おのぼりさんだなぁと和《なご》んで見守っていたら睨《にら》まれた。  それから、呼ばれるまでに漫画を二冊|読了《どくりょう》した。  店員が僕の名字を様づけで呼んだので、カウンターに立つ。 「時間は?」「えーと、一時間で」枇杷島の人差し指がピッと立つ。 「部屋はどれにする?」 「はい? 種類あるんですか」  枇杷島が店員に尋《たず》ね、説明を受ける。それによると、空いたのは通常の個室と、カップル御用達《ごようたし》のソファ席だった。  枇杷島が微妙《びみょう》な間を置く。それから僕らの後から入ってきた、店内の待合い椅子に腰《こし》かける背広の男や、制服姿の女子の集団を見回した後、枇杷島が決定の意見を告げた。 「このソファ席でいいですよ。これ、二人で一部屋使うんですよね」 「……ま、そうだけど。いいの?」 「別にいいですよ」こいつ、僕のこと嫌《きら》ってなかったっけ。あ、好きになれないだけか。 「これには不潔、とか言わないんだな」 「同棲《どうせい》と一緒《いっしょ》くたにしないで下さいよ。せんぱいこそ、御園先輩 《みそのせんぱい》はいいんですか? 浮気と勘違《ちが》いされても知りませんよ」 「まあ、こういうのも必要なんだよ」それに、ネタ探しには好都合かも。 「全くそうは思えませんけど」  などとやり取りを継続《けいぞく》して、店員の眉毛《まゆげ》を繋《つな》げる手伝いをするのも忍《しの》びない。  ソファ席を取り、室番を確認《かくにん》してから、僕らは各々の趣味《しゅみ》に基づいた本棚《ほんだな》へ向かった。  折《お》り畳《たた》みの携帯《けいたい》電話を開く。部屋に入ってから、四十分が経過していた。  僕と枇杷島《びわしま》は赤い合成|皮革張《ひかくば》りのソファに、肩が偶《たま》に当たる程度の距離《きょり》を空けて腰かけている。枇杷島は店内の暑さに対応すべくコートを脱《ぬ》ぎ、靴《くつ》も脱ぎ散らかしてくつろいでいた。  僕は借金による地下暮らしのススメを、枇杷島は多重人格になった場合、如何《いか》に手に職をつけるかの入門本を、それぞれ熟読《じゅくどく》している。内容の紹介《しょうかい》に多少、虚偽《きょぎ》と曲解があるけど。 「せんぱい、さっきのアレなんですけど」本を取り替《か》えながら、枇杷島が久しぶりに口を開く。 「ああ、やっぱり気になった?」何のことか全く見当つかない。 「こういうのも必要だ、ってどういう意味です?」 「うん? ああ、そのままの意味だよ」漫画《まんが》に夢中なことを利用して上《うわ》の空《そら》っぽく答えているなぁ、と自覚する。 「さっぱり意味分かりません」枇杷島が新たに本を開く。 「つまり、人付き合いは大事にしようってこと」 「普段《ふだん》のせんぱいからすると、とてもそうには思えませんけど」 「そう見えるかな。本人としては、昔よりはマシな気がする」  理由が出来たから。  自分を維持《いじ》するという必要性。  マユと同居してると、自身の構成物が爛《ただ》れ溶《と》けることを自覚する。幼少期の余り物として食い繋《つな》いでいる理性や倫理《りんり》観が、根こそぎ消失していく。  ……犯罪|嗜好《しこう》まで、本家のみーくんを模倣《もほう》するわけにはいかないしね。  みーくんとして頑張《がんば》るのにも、多少の労力は伴《ともな》わないとってところだ。  ……うむ、浮気《うわき》の言い訳にしては正当性の香《かお》りが漂《ただよ》っている。  枇杷島にはそれ以上、何一つ語る意味がないので強引に話題を変えた。 「一宮《いちみや》って今日も街を巡回《じゅんかい》してるのか?」 「夜の見回りは明日から再開するそうです。今は学校内を探索《たんさく》してるんだって、知ってますよね。授業中も彷復《うろつ》いてるの。……どっちも、河名《かわな》の気が済むとは思い難《にく》いんですけどね」 「ふぅん、学校の捜索《そうさく》は打ち切ったわけだ。何か入《い》れ知恵《ぢえ》でもした?」 「ええまあ。先生から何故《なぜ》か私に苦情が来たので、学校は止《や》めさせた方がいいかなって」 「なるほど。で、そっちには付き合わないんだな」 「河名が私の全てじゃないですよ。自分の成績も大事ですから」  枇杷島が本を閉じ、紙コップに注《つ》いできたウーロン茶を一気飲みする。いつぞやより、一宮から距離《きょり》を置いた印象のある枇杷島の態度。この十日以内に何かあったのだろうか、と一度は疑問を渦巻《うずま》かせたが、拳骨《げんこつ》で不意打ちされれば、そうもなるかと即座《そくざ》に解決した。  お茶を飲み干し、空になった紙コップを握《にぎ》り潰《つぶ》す枇杷島《びわしま》。退室の時間も徐々《じょじょ》に迫《せま》ってきているので、僕も本を閉じて帰《かえ》り支度《じたく》をする。その途中《とちゅう》、 「それに、特殊《とくしゅ》な価値観を持ち出した河名《かわな》との付き合いには、少しだけ休憩《きゅうけい》を挟《はさ》んだ方がいいかなって思いますし」 「まあ、」確かに疲《つか》れるだろうけど。それでも付き合ってやるわけで、生温《なまぬる》い良心さである。 「この前から、用事がある日は付き添《そ》ってませんしね」 「ん? ああ、習い事とか言ってたな」 「英会話教室行ってるんです。母が強く勧《すす》めるから」 「そうなんだ」と返事をしながら、英語で話してみようかとこの場で提案し、ハーワーユーだけを繰り返す自分の姿を想像した。……結構、板に付いているじゃないか。 「それに、気乗りしない部分もあります」 「ほう」していた方が怖《こわ》い。 「正直なところ、せんぱいとはまた別の方向性で宗田《そうだ》君のことは苦手でしたから、どうもね」 「……………………………」  僕を比較《ひかく》対象にするのはどういう心積もりだい、お嬢《じょう》ちゃん。 「どしました?珍《めずら》しく悩《なや》みの深そうな顔になってますけど」 「いや、君らの仲の良さに感動してね……僕は普段《あだん》どんな顔してんだか……」 「脳味噌《のうみそ》の皺《しわ》が減るような顔ってとこです。それで宗田君ですけど……初めて河名《かわな》に紹介《しょうかい》された時から、どうも苦手だったんですよ。服の趣味《しゅみ》とか、笑い方とか」  体育会系|娘《むすめ》は、爽《さわ》やか鼻からベースバンド系より鉄下駄でピアノ演奏する帯がギュッとした柔道《じゅうどう》一直線野郎が好みらしい、と勝手に決めつけた。 「何より、性格に尽《つ》きますよね」  今日は多少なりとも気を許しているのか、饒舌《じょうぜつ》な枇杷島。今なら話を合わせて誘導《ゆうどう》すれば、好きな男子の名前ぐらいなら白状しそうだ。どうでもいいけど。 「せんぱいも見てたでしょ、委員会でチョコレー卜見せびらかしてたの」 「ああ、覚えてる」 「あれは駄目《だめ》ですね、頂けません。彼女から一個貰《もら》えるなんて当たり前じゃないですか。でもそれ一つで満足してるような人を私は認めません。向上心のない人間は駄目です」 「いやけど、他《ほか》の奴《やつ》から貰ったら喧嘩《けんか》の火種《ひだね》だ」 「それを乗り越《こ》えるのも人生の醍醐味《だいごみ》です」  十七|歳《さい》の女子高生に得意顔で人生を語られた。  僕は「それもそうかもね」と笑顔《えがお》で半同意を示すだけだった。  どうしても、嘘《うそ》だけど。  部屋から退出し、店の前で別《わか》れ際《ぎわ》、枇杷島《びわしま》に質問した。 「枇杷島って、剣道の段位とか所持してる?」 「一応、初段ですけど……?」手袋《てぶくろ》を着けながら枇杷島の返事。  ふぅん。 「じゃ、いいか。僕より強そうだ」 「はい?」 「いや、夜道とか一人で危なくないのかなって」 「へー……偶《たま》には親切なんですね。お気遣《きづか》いどーも」  枇杷島にしては柔和《にゅうわ》な態度で礼を述べる。 「でも、せんぱいが優《やさ》しいと裏がありそうですから、信用は出来ませんね」  一言多い奴《やつ》だな。一歩間違《まちが》えれば、性悪《しょうわる》に入門する性格だ。仲間が増えて嬉《うれ》しいことだね。 「それに初段って、けっこう簡単に取れますしね。強さの証《あかし》にはならないんですよ」 「あ、そうなんだ」 「はい。……せんぱい」  自転車のペダルに足をかけながら、声のトーンを秋から冬に変化させる枇杷島。 「なに?」 「せんぱいは私と二人部屋に入る時、いいのって聞きましたよね」 「うん、まあ」 「あれって、男女的に云々《うんぬん》とか、そういう意味合いですか?」 「別に、そういう気はお互《たが》い起こらないだろうけど一応ね」  僕のいい加減な返事に、「やっぱりそうなんだ」と枇杷島が生温《なまぬる》く笑う。  ともすれば、不快さを生むように。 「お節介《せっかい》かも知れないけどせんぱいの場合、他《ほか》のことを考慮《こうりょ》した方がいいと思いますよ」 「他の、こと?」心当たりはすぐに浮上し、けれど自前の口から飛び出させるのも躊躇《ためら》われた。 「せんぱいは、自分が学校の同級生に危険視されてることを認識《にんしき》してないんですか?」  してると思ってたんですけど。  鳥にこめかみを突《つつ》かれてその鳥を犬が食らいその犬を猫《ねこ》が食べ尽《つ》くす、そんな衝撃《しょうげき》。  そっちの、物理な関係で捉《とら》えてるわけか、枇杷島。そういう視点で見られてるなら、一宮《いちのみや》が僕を疑うのも正しかったわけだ。 「今までせんぱいと委員会の活動をして、御園先輩《みそのせんぱい》にトンボを投げつけられる場面を見て、更《さら》に今日、せんぱいと一時間|側《そば》にいて観察してみて感じました。貴方《あなた》は構成物が欠けている」  ああ、だから僕と相部屋にしたわけか。 「こうせいぶつ」ひらがなが心に湧《わ》き、阿呆《あほう》になってることを実感する。 「人を構成するもの。私は命と心と、お金だと思ってます」 「へぇ、金か」 「金銭の要素を見失えば、人は向上心を忘れます。それは恥《は》ずべきことです」 「ほぉ」 「そしてせんぱいは、心が欠けてます。それが目つきや挙動に影響《えいきょう》してる」 「んー? 本人には自覚し辛《づら》いところだな」 「せんぱいは明らかに欠陥《けっかん》があるのに、それを受け入れすぎている。私は御園先輩《みそのせんぱい》より、そんな貴方《あなた》の方が怖《こわ》い」 「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」早く何か言えよ、僕。  見かねた枇杷島《びわしま》が、上目遣《うわめつか》いで話しかけてくれた、 「言いたいこと言いすぎましたけど、怒《おこ》りました?」  むしろ、そちらを期待するような口振《くちぶ》り。よし、冷静に対処だ。 「んー……要約すると、人付き合いなんておこがましいってとこかな」 「ごめんなさい」  枇杷島は肯定《こうてい》に謝罪を用いた。告白を断る際の逆用法だな。 「三年では別のクラスになれるといいな。後、美化委員も敬遠した方がいいよ」 「はい、肝《きも》に銘《めい》じておきます。それじゃ、さよなら。今日はありがとうございました」  右足で地面を蹴《け》って助走をつけながら、自転車に飛び乗る枇杷島。  その背中は何処《どこ》までも健全で、猫背《ねこぜ》と無縁《むえん》だった。 「……………………………………………うあー」  耳の中でぐるぐるしてる。まずいなぁ、これは。いかん、いかんよキミィ(秘書A子さんに向けて配信中。びびび)。最近では屋上以来だよ。  長瀬《ながせ》と再会したり関係を壊《こわ》してみたり頭をどつき回されたり妹が生き返ったりして気が緩《ゆる》んでたから、外れる可能性が高いね。  回収車が来るまで保《も》つかなあ。  ふと、その場で大の字に寝転《ねころ》びたくなる。  ネオンを見上げて夜明けを待って、朝帰り。  でも駄目《だめ》。  まーちゃんが寝ながら待ってるから、かーえろかえろ。 「まーちゃんね、なんかドーナツ食べたい」 「そう? 後で買いに行こうか」 「うん、一緒《いっしょ》にね。いっしょいっしよー」  マユの小指が無邪気《むじゃき》に揺《ゆ》れ、糸の架《か》け橋《はし》に、僕の指も内側《うちがわ》から引っ張られて連れ添《そ》う。今日の昼飯前に結び直して新調したミシン糸は、肉に食い込んでマユもご機嫌《きげん》だ。化膿《かのう》も絶好調。  僕も一晩|経《た》って、小康状態に落ち着いていた。寝《ね》れば結構直るものだ。  そんなわけで土曜日の昼下がりは、怠惰《たいだ》に安楽だった。  僕がソファに俯《うつぶ》せに寝て、その上にマユが、小指の糸を左右から左左の組み合わせに結び直し、更《さら》に俯せ乗《の》り。上下が逆だったらセクハラだけど、これならほのぼの、お子様やトップブリーダーにも推奨《すいしょう》。動物園にも出張《でば》れる。 「うんしょ、うんしょ」と肩甲骨《けんこうこつ》あたりに位置していたマユの頭が、身体《からだ》を上下に伸《の》び縮みして上を目指す。僕の首や後頭部に顎《あご》を打ち付けながら、ミミズ移動で登頂に成功する。頭頂にかかる吐息《といき》が頭皮をくすぐり、寒気《さむけ》と身震《みぶる》いをもたらした。 「あ、白髪《しらが》だ。ぶちー」  何の思慮《しりよ》もなく、人の頭髪《とうはつ》の異端児《いだんじ》を引き抜《ぬ》くマユ。実際はぶちーではなくぶちちちちと、複数形だった。そりゃ指先じゃなく鷲掴《わしつか》みすればね、うん現在と将来両方に痛い。 「うーむー……」と、頭上で何やらマユが思案の声をあげる。「どしたの?」 「捨てるの勿体《もったい》ないなー」「何が?」「ごろんちょ」とマユが僕の背中から床《ゆか》へ転がり落ちる。  身体《からだ》の側面を打ち付けても呻《うめ》き一つあげずに立ち上がり、てこてこと歩き出す。当然、一連の行動には糸繋《いとつな》がりの僕も連れ添う形となる。口笛《くちぶえ》を吹《ふ》きながら、マユの足は台所へ向かった。 「んーと」と、首を左右に振《ふ》って周囲を探る。「これでいいや」と、棚《たな》に置いてあった、未開封《みかいふう》のジャムの瓶を手に取る。封を開き、中身を全て流しに捨てて中を水で洗浄する。布巾《ふきん》を突《つ》っ込んで水滴《すいてき》を拭《ふ》き取ってから、握《にぎ》りしめていた僕の髪《かみ》を瓶底に落とした。 「みーくんコレクション始めました!」 「………………………………………」  瓶の蓋《ふた》をきつく閉め、ご満悦《まんえつ》に振ったり見せびらかしたり、数本の黒髪と一本の白髪をうっとりと眺《なが》めるマユ。それを傍観《ぼうかん》していると何だか、脳味噌《のうみそ》の温度が下がった気もする。 「これからどんどん増えるのです」  マユは、僕の前髪付近を見上げて微笑《ほほえ》む。水と肥料で成長を待つとか、抜《ぬ》け毛を拾い集めるとか遠回りな行為《こうい》に励《はげ》む気概《きがい》はないのだろうか。それはそれでアレなのだが。 「僕の髪なんか集めて嬉《うれ》しいかなぁ」と、貶《おとし》めてみる。  そうするとマユは当然、膨《ふく》れ面《つら》で反論してくるわけだ。効果なし。 「もー、みーくんは鈍感《どんかん》だなぁ」 「いやー、まあね」愚鈍《ぐどん》じゃなかったらとっくに逃亡《とうぼう》してそうだけど。 「女の子はねー、好きな男の子の持ってるものなら何でも欲しがるの」得意気に講釈《こうしゃく》するマユ。 「そんなものかねぇ……」といい加減に納得《なっとく》しかけて……ん? んん?  今の、意外に重要かも知れない。 「うーむー……」とマユを真似《まね》て、浮かんだ考えを頭中で掻《か》き回す。これは微妙《びみょう》、いや「みーくん?」マユが首を傾《かし》げている、けどそういう可能性もあるわけだよな。となると、これで大体「み!」マユが笑顔《えがお》で挙手しているけど、出|揃《そろ》ったから、「みーいーきゅん!」マユがじたばたしているから、後は日時を「むーしーすーるーなー!」前髪《まえがみ》をぶち抜《ぬ》かれた。 「うおっ」とか冷静に驚愕《きょうがく》するふりをする。内心では若禿《わかはげ》に怯《おび》えたりしていた。 「まーちゃんを無視するとは何事ですか」と憤慨《ふんがい》しつつ、瓶《びん》の中にコレクションを保存するマユであった。この瓶が満杯《まんぱい》になる日はそう遠くないかも知れない。  一連の作業を、将来への憂《うれ》いを込めて眺《なが》めていたらその視線にマユが気付く。マユはそこに何かを閃《ひらめ》いたのか機嫌《きげん》を回復し、期待混じりに僕の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「みーくんもまーちゃんの髪欲しいの?」 「んー」欲しいと言ったらこの場で床屋要《とこやい》らずに髪を根元から切り落としてプレゼントしてくれそうなんだよな。「こうやって触《さわ》るのが一番だよ」とごまかしにかかった。  抱《だ》き寄せて、後頭部を撫《な》でた。むずがるマユも背伸びをして、僕の後ろ髪に指先を触《ふ》れさせる。有耶無耶《うやむや》にするという目的は、充分《じxtyうぶん》に達成出来たようだ。  で、抱き合ったままカニ歩きでソファに戻《もど》って寝《ね》そべり、マユが背中に飛び乗る、 「んゆ? みーくんにたんこぶがある」  また髪を掻《か》き分けて遊んでいたマユが、皮膚《ひふ》の丘陵《きゅうりょう》に気付く。 「お勉強のしすぎでもう一個頭が生まれそうなんだよ」と嘯《うそぶ》いた。 「んまー、悪い子!」バシバシと叩《たた》かれた。「あがががが」と歯科医院の治療《ちりょう》中のような野太《のぶと》い悲鳴が漏《も》れても、マユは気に留めない。 「みーくんはもっとおばかちゃんになって、まーちゃんのことだけ考えるようになんないと駄目《だめ》なの」  マユが「ぷんぷん」と口に出してお怒《おこ》りになる。なるほど、それはまーちゃんの理想だろうね。もっとの意味は気になるところだけど。 「それも、まあ、」行き着ければ「アリなのかもねぇ……」むしろ頑張《がんば》っちゃいそうだよ。 「アリとかじゃないのー!」右の頬《ほお》を摘《つま》み、引っ張られた。 「いぎぎぎぎ」と質を変えた苦悶《くもん》が、平和なマンションの一室に溢《あふ》れかえる。  そんな、泥濘《でいねい》のような、マユとの戯《たわむ》れ。  腐《くさ》りかけの果実が放《はな》つ、練り込まれた堕落《だらく》の香《かお》りがする時の流れ。  緩《ゆる》やかに、澱《よど》んで過ぎていく。 「ねーみーくん」「んー?」  落ち着いてから、マユが僕に別の話題を振《ふ》ってきた。 「わたしもね、自転車乗れるようになりたい」  おや、マユにしては前向きかつ健《すこ》やかな発言だな。 「そう思ったきっかけとかある?」 「んとね、みーくんを後ろに乗っけて、わたしが運転するの。なんかいいなーって」  それはまた、男の子の夢とは随分《ずいぶん》と真逆な願望をお持ちで。つまり女の子らしいってことだ、と偽物《にせもの》の感情に胸と頭のコブを打たれた。 「じゃあ、練習しようか。僕も付き合うよ」 「うん」と、顎《あご》を頭部にめり込ませてマユは頷《うなず》く。 「でも明日からねー。今日はこのままずーっと、晩ご飯までごろごろするの」  有言実行なのか、左右に寝返《ねがえ》りを打つ。 「ドーナツは?」 「それも明日ー。自転車でみーくん荷台に引っ提《さ》げて買いに行くの」  夢見|心地《ごこち》に休日の予定を打ち立てる。  まーちゃんは、一日で人力二輪車を乗りこなすつもりなのか。  平衡《へいこう》感覚が枯渇《こかつ》しているマユに、そもそも自転車による走行は可能なのだろうか。 「幸せですなー」 「そーですね」  発展しない思考。霞《かす》む心中、  ああ堪《たま》らない。  大事なものが、とろけていく。  けど、さっきの閃《ひらめ》きぐらいは保存しとかないとなぁ。あー、面倒《めんどう》。  日曜日の午前十一時五十分という早朝(マユ基準)から、練習は開始された。  土管が三つ横倒《よこだお》しで積まれた空き地とかで、カラスが茜空《あかねぞら》を飛び交《か》うまで練習したかったがそうもいかない。今時、そんな土地の設定は田舎《いなか》、都会問わず人工が加えられなければ生まれはしない。家の窓硝子《まどがらす》を軟球《なんきゅう》で破損されるカミナリおじさんもいやしない。  仕方ないので、近所の農協の駐車場《ちゅうしゃじょう》で妥協《だきょう》した。二十四時間態勢で産み立て卵を販売《はんばい》する自販機が片隅《かたすみ》に置かれている、客が自転車か徒歩でしか訪《おとず》れない農協の駐車場は、ドッジボールが可能な程《ほど》の面積を有していた。立派な土地の穀潰《ごくつぶ》しである。  僕の自転車に跨《またが》り、気負いする様子もなく淡々《たんたん》と正面を見据《す》えているマユ。今日は厚手の長袖《ながそで》の服を着せて、運動靴《うんどうぐつ》を履《は》かせている。  派手に転倒《てんとう》するのは確定|事項《じこう》だからな。そして僕も巻《ま》き添《ぞ》えを食らうのも、また必定《ひつじょう》。  物理的な小指の絆《きずな》は今日も健在なので(休日は外さない約束なのです)、健《すこ》やかなる時も病《や》める時も七転八倒《しちてんばっとう》する時も道連れである。童心に返って生傷《なまきず》の絶えない日になりそうだ。最近も妹に蹴《け》られまくって痣《あざ》だらけではあるのだが。  冬の日に淡《あわ》く包まれ、アスファルトの匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、自転車を左|側《がわ》から軽く支える。 「じゃ、ペダルをこいでみようか」  マユは素直《すなお》に指示に従い、左右の足の回転を行い出す。  恐《おそ》る恐るのように、控《ひか》えめに回る車輪。徒歩よりも低速に前進する自転車。  無表情ながら気が動転しているのか、目だけが慌《あわ》ただしくなっている。 「もう少し速くした方が安定するよ」  マユの足が気持ち、敏速《びんそく》になる。徒歩ぐらいには達する速度。  駐車場《ちゅうしゃじょう》の端《はし》、精米所の前で一度停止。自転車の向きを逆に直し、また直進。 「手、ちょっと離《はな》してみるね」  半ばまで進んで、一度|試《ため》してみることにした。マユは肩《かた》に力を込めすぎたまま頷《うなず》く。  支えを離《はな》す。そしてあっという間に、千鳥足《ちどりあし》の運転になった。  マユが右に重心を崩《くず》す。立て直そうとして身体《からだ》を捻《ひね》り、余計に派手に倒《たお》れて僕も自転車の上に寝《ね》そべることとなった。籠《かご》の中の鞄《かばん》も、地面に引き倒される。  うむ、見事に転倒《てんとう》した。類《たぐ》い希《まれ》な運動神経を所有している一抹《いちまつ》の希望は潰《つい》えたか。  打ち付けた箇所《かしょ》を撫《な》でながら、自転車を引き起こす。それと、無反応なマユの手を取って立ち上がらせ、膝《ひざ》を払《はら》う。マユは特に転倒について言及《げんきゅう》せず、座席に跨《またが》り直す。  一応、意思を確認《かくにん》した。 「まだ続ける?」  マユはこくこくと頷《うなず》く。乱れた前髪《まえがみ》を、簡素に直して。 「うん、分かった」  じゃあ、後三十回は転ぶ覚悟《かくご》をしておこうか。  と、まあ格好つけてはみたけど、それがマユへの侮辱《ぶじょく》だったことは言うまでもない。  マユは僅《わず》か二十三回の横転でその日の練習を終えたのである。偉《えら》いぞまーちゃん。  部屋に戻《もど》ったら「くきー! 難しいうざーい!」とか駄々《だだ》っ子《こ》になりそうだけど。結局、一人で三メートル以上直進することも無理だったわけだし。 「最初はこんなものだよ」  頭を撫《な》でながら、マユを慰《なぐさ》める。マユは落胆《らくたん》を少なくとも表には外出させず、「うん」と納得《なっとく》しながら前輪を蹴り飛ばした。八つ当たりでフレームは浅く歪曲《わいきょく》した。僕ぐらいの歪《ゆが》みかなあと、自嘲《じちょう》だか何だか不明瞭《ふめいりょう》な感想が浮かんだ。 「明日は学校帰ってきてから練習する?」「学校は行かない。自転車乗る」  冷淡《れいたん》に、暗色がかった宣言。向上心|溢《あふ》れるマユを「いいよ」と認める。  けど、今日は日課の昼寝《ひるね》をこなしていないから、夕方までに起床《きしょう》できるかどうかは未知数だ、 「今日のところは、これで帰ろうか」  自転車と美少女を牽引《けんいん》して、自前の足で帰巣《きそう》することになる。  僕の右手とマユの左手の小指が磁力にも頼《たよ》らず仲良しさんなので、自転車に二人乗りで夕暮れの日を浴びながら曲芸運転して帰宅という、青春な選択肢《せんたくし》はあり得ない。 「あ、ついでにドーナツ買ってく?」  駅前まで遠回りすることになるけれど。 「いい。乗れるようになってから買いに行く」  マユは意地を示し、脇目《わきめ》も振《ふ》らず前進する。  お子様って、基本的に負《ま》けず嫌《ぎら》いだからな。いいこいいこ、と頭を撫《な》でておいた。  道には、差し迫《せま》る夜に追い越《こ》されないよう、休日の終わりを疾走《しっそう》する子供達の姿もない。夕刻のチャイムが遠くから鳴るだけで、生物の挙動は、首を正面に固定する限り視界の何処《どこ》にも入り込んでこなかった。小刻みに上下する影《かげ》に命の輝《かがや》きを見出《みいだ》せるほど詩人でもないので、隣《となり》のマユを流し目で見た。目が合ったのでどちらかが石化する可能性を考慮《こうりょ》した。  そのまま暫《しばら》く進むと、行きでは左|側《がわ》にあった神社が右手に広がっていた。  僕が以前に利用した神社とはまた別物の御利益《ごりやく》を掲《かか》げる場所だ。ここはイボに効果があると住民の間でまことしやかに噂《うわさ》されている。ニキビは専門外だそうだ。何とも局所的である、温泉の方が効能に期待できそうだ。 「お祭り」「えっ?」  マユの独白《どくはく》に、僅《わず》かに反応する。 「神社のお祭り、また行きたい」  自転車の前輪が横着な回転になる。フレームの歪《ゆが》みが砂利《じゃり》道と合わさり、順調さを失う。祭りか。一度だけ、妹と行ったな。誰《だれ》が行こうと言い出したんだったか。 「今年の夏は一緒《いっしょ》に行こうか。まーちゃんの浴衣《ゆかた》姿も見たいし」と一言付け足してみたり。 「みーくんのも見たい」と返すマユ。人が多い場所でのはしゃぎ方を失ってしまったマユは、昔通りには祭りを楽しめないんだろうと思い、夕日と相乗して何かが込み上げる。  けれどそんな感傷は、すぐに溶《と》けた。  額に何かが揺《ゆ》れて、正面を向く。  生き物の影《かげ》が、前方で蠢《うごめ》いていた。  車の夜間灯《やかんとう》に照らされたように、斜陽《しゃよう》に表皮が染まっている。目の眩《くら》みと、滲《にじ》む痛覚。  あの影絵が、強い既視《きし》感を湧《わ》かせる。  歩く速度が、自然に減速を辿《たど》る。マユが一歩先を進み、小指の糸が内側から肉に食い込む。黄昏《たそがれ》を浴びた人影の、誰彼《だれかれ》の区別がついた時には足が止まっていた。  息を飲む。 僕と自転車の胡乱《うろん》な立ち止まりに、マユが怪詩《けげん》を伴《ともな》って振り返る。 「………………………………………」  妹が、向かってきていた。  神社の壁《かべ》に金属バットの先端《せんたん》を引っかけ、独特の調子で音を刻んで歩いてくる。その姿はいつかの一宮河名《いちみやかわな》のようであり、また、あの夜、返り血の如《ごと》く衣服を赤に染めた、妹自身とも重なる。  ……返り血? 布と、血液……そうか。けど今は、それどころじゃない。脳内に保留しておく。  目下、妹は直進中。道を譲《ゆず》る気も、回避《かいひ》して別の用事へ関《かか》わる気もないらしい。眼中には僕を据《す》え、付録としてマユやママチャリを捉《とら》えている。マユをおまけ扱《あつか》いとは何事だ、と憤懣《ふんまん》を表現するのは控《ひか》えた。左手に所持している道具から察するに、穏《おだ》やかな用件とは思い難《がた》い。  更《さら》にはあにーちゃんなどと親しげ(か?)に呼ばれでもしたら、マユがどういった反応を示すやら。最悪、僕と妹が血溜《ちだ》まりに伏《ふ》せ、一族の血が途絶《とだ》えることになる可能性だってある。  妹が僕らと、一メートル程度の間隔《かんかく》を空けて一時停止する。僕の何処《どこ》に赤信号の要素があるというのか。マユの視線が痛い。どう言い訳したものか。  そして、 「こんにちは」  素直《すなお》に挨拶《あいさつ》された。右手まで友好の証《あかし》として肩《かえ》まで上がる。  僕は拍子抜《ひょうしぬ》けしたが、マユには別の解釈《かいしゃく》が生まれる。  マユにこんな知り合いはいない。(というかみーくん以外いらない)  つまり僕の知り合いという線が、消去法で選択《せんたく》される。  よってマユの目が吊《つ》り上がる。僕と妹、どちらに対して怒気《どき》を孕《はら》んでいるのか。 「誰《だれ》?」と抑揚《よくよう》を凍結《とうけつ》して僕を苛《さいな》むマユ。 「ああ、っと」君の義妹《いもうと》になる人、と答えるわけにもいかず、目を泳がせていると、 「あ間違《まちが》えたこんばんはか」と妹が早口に喋《しゃべ》りながら両手でバットをマユの手を引き抜《ぬ》く勢いで掴《つか》み、抱《かか》えながらその場を緊急《きんきゅう》に離《はな》れた。マユも何故《なぜ》か、鞄《かばん》の紐《ひも》を握《にぎ》って同様に引き寄せている。  僕らの眼前で、金属の塊《かたまり》が空振《からぶ》りする。  視界と、脳に白みが浸食《しんしょく》する、  マユが咄嵯《とっさ》に、所在ない自転車を相手に向けて蹴《け》り飛ばした。  相手の足と凶行《きょうこう》はママチャリに遮《さえぎ》られ、それで、相手との距離《きょり》を置くことは出来た。  自転車は妹にも足蹴《あしげ》にされ、前輪が虚《むな》しく空転している。 「…………………………………」  素性《すじょう》その他|諸々《もろもろ》の事情で、襲撃《しゅうげき》者の名をその場で呼んで問い詰《つ》めることは躇躇《ためら》われた。  みーくんに兄妹《きょうだい》は存在しないから。  大体、女性に親しげに声をかけたら黙《だま》っちゃいない人が傍《かたわ》らにいるわけだし。  自転車の持ち手を蹴飛《けと》ばしてから、予告ホームランのようにバットの切っ先をマユに向け、妹が一言。 「邪魔《じゃま》」  どうやら、僕への撲殺《ぼくさつ》を自転車とマユに妨害《ぼうがい》されたことがご立腹らしい。だけど今の一撃《いちげき》は頂けない、危《あや》うくマユにも被害《ひがい》が及《およ》ぶところだった。  動機は純化出来たのか。  抜《ぬ》けきらない疲労《ひろう》を背負う覚悟《かくご》は備わった行動なのか。  確かめようにも、妹との距離《きょり》は凶器《きょうき》に阻《はば》まれて、狭《せば》められない。  視界の何処《どこ》にも映らない、鳥の鳴き声。 「そっちこそ邪魔」  明確に年下な敵を相手にしても、マユは外面を剥《は》ぎ取らない。  蝶々《ちょうちょう》結びの糸を自ら解《ほど》き、僕を庇《かば》うように足を前へ踏《ふ》み出す。鞄《かばん》に入れた手が外に晒《さら》された時、握《にぎ》りしめられていたのはペティナイフだった。  約束、守る気なんかなかったんだ。  ノイズが、自分の皮の内側《うちがわ》をひりつかせた。  妹が一瞬《いっしゅん》、ナイフに全《すべ》ての神経を身構えさせたのを見逃《みのが》さず、僕はマユの手を引いて、全力で逃走《とうそう》を図った。自転車は放置だ。叔父《おじ》は自転車よりは僕の命を優先してくれるだろう、と自惚《うぬぼ》れた判断に基づき、回収も考慮《こうりょ》に入れず帰路をひた走る。  妹が追ってくる気配はない。  マユの歩調に合わせているから、追走は不可能じゃない速度のはずだ。  息苦しさを堪《こら》えて振《ふ》り向けば、撫然《ぶぜん》と、その場に佇《たたず》んでいた。  捨てられた子犬みたいであり、僕が予想した、いつかの伏見柚々《ふしみゆゆ》のようでもあった。 「堂々としすぎなんだよ!」捕《つか》まるそこの馬鹿《ぼか》!  どうやら、拡声《かくせい》器を利用しなくとも言葉は届いたらしい。  妹がバットを、僕らに向けて投擲《とうてき》した。  僕に届くはずもなく、高度を失っていく。  やがて砂利《じゃり》道に跳《は》ね、反響《はんきょう》した金属音が僕の鼓膜《こまく》を穿《うが》った。  野球少年を諦《あきら》めた日のことが、海馬《かいば》で寝返《ねがえ》りを打った。  そのまま、寝ていろ。  部屋の扉《とびら》をくぐって玄関《げんかん》に上がってから、すぐに鍵《かぎ》とチェーンを確認《かくにん》した。  外部から破壊《はかい》されると敵《かな》わないので、三度目の正直で二度までが限度である。嘘《うそ》だけど。  リビングの暖房《だんぼう》を起床《きしよう》させる。こたつの導入を検討《けんとう》していたけど、今冬は見送ってしまった。来冬、機会と想起に恵まれたらマユの丸くなる場を設置することにしよう。  で、そんな冬物語はただ今反省会中。床《ゆか》に直座《じかすわ》りをして、槍玉《やりだま》に挙げられているのは、ぷっと頬《ほお》を膨《ふく》れさせているみそのまゆちゃん。今はちょっぴりふて腐《くさ》れてます。 「さっきの女、なに?」  まあ何故《なぜ》か僕が問い詰《つ》められてるんだけど。 「近所の子でね、何だか僕に付きまとうんだ。それよりまーちゃん。僕との約束を破っちゃ駄目《め》でしょ」 「そんなことないもん。これ包丁じゃないもん」  先程《さきほど》から手放そうとしないペティナイフを、屍理屈《へりくつ》と一緒《いっしょ》に視野|狭窄《きょうさく》に振《ふ》り回す。 「それにまーちゃんがこれ持ってたから逃《に》げられたんだよ」 「……む」岡田以蔵《おかだいぞう》みたいなことを言う子だな。結果を出されている為《ため》、反論し辛《づら》い。  それと、浮気《うわき》ではないが枇杷島《びわしま》と仲睦《なかむつ》まじく漫画《まんが》を読んでいたりしたし。これ、マユと同様の言い分に当て嵌《は》まるか。お互《だが》い様《さま》ってやつかな。 「むー……」「むむー……」  間近で見つめ合ったまま、唸《うな》り合う。暖房《だんぼう》の寝惚《ねぼ》けが直ったのか、部屋全体の冷気が解消されてくる。そうなると先程《さきほど》までの、一刻も早くこの話題を解決して布団《ふとん》にでも潜《もぐ》り込みたいという意欲が減退し、反省会から単なる睨《にら》めっこに変貌《へんぼう》を余儀《よぎ》なくされる。 「むー」「ちゅー」マユよ、何故《なぜ》そうなるのだ。  僕からのちゅー待ちで目を閉じているマユを、顎《あご》に手をやって観賞する。改めてちゅー顔を眺《なが》めてみると、如何《いか》に気が緩《おる》み、不用心な状況《じょうきょう》かと思う。  もっとも、マユの右手には厳然たる刃《やいば》が佇《たたず》んでいるので、用心の度合いはちぐはぐであるが。  マユの片目が薄《うす》く瞼《まぶた》を開けて外界を覗《のぞ》き見る。僕を確認《かくにん》して、暴れた。 「ちゅーはどしたー!」  踵落《かかとお》としが僕の膝《ひざ》を折檻《せっかん》する。発展すれば右手ナイフが猛威《もうい》を振《ふ》るいそうだ。 「お話終わってからね。……そうだな。刃物《はもの》を携帯《けいたい》するのは構わないよ。敵を威嚇《いかく》するのも、譲歩《じょうほ》しよう。けど、相手を刺《さ》したり切ったりしたら駄目。それでどう?」 「んー、いいよー。ちゅー」  だから、何故そうなる。 「今度こそ守れる?」 「分かった! ぢゅー」  何て軽々しい安請《やすう》け合《あ》いだ。そして業《ごう》を煮《に》やしたのか、首筋に歯を立てて吸ってきた。  今回は指切りも交《か》わさなかった。糸は繋《つな》がりを取り戻《もど》し、また断ち切るのも面倒《めんどう》だったから。 「……明日は自転車を買うところから始めないと駄目だね」  注意の継続《けいぞく》も億劫《おっくう》になり、別の話を振《ふ》ることにした。 「あふ。わっふふふわうふわうふふ」  噛《か》みついたまま、舌を肌《はが》に這《は》わせて何事かを主張するマユ。 「その通りなのだよ」と適当に同意する。  それだけで、口を首から剥がし、「にへー」と笑いかけてくるマユ。  一体、どんな意思の通いがあったのか。  僕らは一体、普段《ふだん》何を疎通《そつう》させているのだろう。  一方的に不十分な見解で、マユの機嫌《きげん》は満たされる。 「ご飯作るから待っててね。頑張《がんば》って早く明日にしようねー」  ナイフを握《にぎ》りしめたまま、スキップで台所へ向かうマユ。ようやく刃物《はもの》は、法律に触《ふ》れないよう活躍《かつやく》できる場へ帰還《きかん》するわけだ。赤色の錦《にしき》を伴《ともな》って帰郷《ききょう》しないで御《おん》の字《じ》だな。  見届け、床《ゆか》に倒《たお》れ込む。  マッチ売りの少女が窓から覗《のぞ》き込むような暖かさと明るさを部屋が取り戻《もど》しても、床は冷たさを維持《いじ》し、固持し、投げ出さない。実に不快だった。  それでも、起き直る気力が振《ふ》り絞《しぼ》れない。  最近、何かが疲弊《ひへい》している。泥《どろ》が血管を循環《じゅんかん》しているように、節々が鈍重《どんじゅう》だ。  寝不足《ねぶそく》なんだろう、きっと。  そうやって体調の所為《せい》にしたけれど、欠伸《あくび》も出ない。睡魔《すいま》は獲物《えもの》の意識を吸いに訪《おとず》れない。 「…………………………………」  三回、深呼吸する。  見上げる天井《てんじょう》は、何処《どこ》にも暗闇《くらやみ》が潜《ひそ》んでいなかった。  首筋を指の腹で撫《な》でる。  簿《うす》い凹凸《おうとつ》の歯形と、マユの唾液《だえき》を実感する。  ……再度、妹の下《もと》へ足を運ぶか、否《いな》か。  確かめに行くのか、それとも、殺されに行くのか。  偽《いつわ》りを含《ふく》もうとも、結論を導かねばならない。  結局、翌日にマユが選んだ、新たなママチャリを購入《こうにゅう》する次第《しだい》となった。  マユが昨日もごついていたのは、『一緒《いっしょ》に自転車買いに行こうね!』という平日の過ごし方を提案していただけだった。小難しく捉《とら》えて損した。眉間《みけん》も皺寄《しわよ》せに文句を言ってるよ。  そうして、学生の本分を全《まっと》うせず一日が過ぎる。  一日中、喉《のど》が渇《かわ》いているような気がした。  そして更《さら》に翌日。叔父《おじ》夫妻に申し訳が立たない平日その㈪。  午前中からさっそく練習に出かけて新品の車体に傷をつけ、昼飯食べて、転倒《てんとう》しすぎたマユがふて寝《ね》した午後三時過ぎ。 「血液検査?」「はい。例えば洗ったり、他《ほか》の物が付着した箇所《かしょ》でも特定とか出来ますか?」 「可能ですので、妹さんを警察に連れてきて頂けるわけですね?」「まだ見習いの僕に、そんな高度の霊媒《れいばい》を期待されても……」ぶち、と。電話お終《しま》い。「さて」  妹の邸宅《ていたく》に再び伺《うかが》うとしますか。  返しにマンションへ戻《もど》れるか未知数だったので、自転車は利用しない。 「じゃあ、何で来るかな……」  色々と、消化しなければいけない問題がそこには積まれているのは確かだけど。  気分はさておき、道には迷わなかった。  小屋の入り口では、今日も水車が陰気《いんき》に回転している。陽気に回るなら水力発電になりそうなものだが、怠惰《たいだ》に甘んじている現状では目の保養にしかなり得ない。  横開きの扉《とびら》を滑《すべ》り悪く開ける。今日は有線放送もなく、静穏《せいおん》に包まれている室内。 「ごっめんください」  滑舌《かつぜつ》を心がけて挨拶《あいさつ》した。意味など毛頭ない。  先日とは異なり塞《ふさ》がれていた障子《しょうじ》が血管の浮き出たごつい指に開かれ、奥から怪訝《けげん》そうな態度と表情の老人が姿を見せる、 「またお前か……今度は何しに来た」  貴方《あなた》の奥様に会いに来ました。次回は真顔でそう宣言してやろうと悪戯心《いたずらごころ》が湧《わ》くぐらい歓迎《かんげい》されていない。一応、僕の祖父でもあるんだけど、血縁《けつえん》はないしな。 「妹と水入らずな時間を過ごす傍《かたわ》ら、貴方に話を聞きに来ました」 「話? 話せることも話す気も、なんもないぞ」  突《つ》っ慳貪《けんどん》な老人の拒絶《きょぜつ》。性格が照れ屋でなかったとしたら、真面目《まじめ》に嫌《いや》がられているとみた。 「そもそも、お前があん子に会いに来るってのが理解できん。今更《いまさら》何なんだ? もうほっといてくれんか」  そう詰《なじ》られても、こっちとしてはそこまで否定される事情が理解できない。  僕だって生存と所在さえ知っていれば、もっと早く会いに……来たかな。いや、相手に招集をかけられない限りは訪ねなかっただろう。僕にそんな、兄妹《きょうだい》を重視するような大層な人間性が残っているとは思えない。 「今日、貴方から話を聞かせて頂ければ二度とここを訪ねませんよ」  断言した。何処《どこ》にも嘘《うそ》はない。用事もないのに、妹やこの老人と会う気など全くない。  それが双方《そうほう》にとって一番、都合の良い選択《せんたく》だろうから。 「何の話をそんなに聞きたいんだ?」  老人が好条件に釣《つ》られ、会話だけは成立させる。 「妹のことです」  老人の皺《しわ》と目が吊《つ》り上がる。僕はこれ以上の問答に飽《あ》きたので、脅迫《きょうはく》することにした。 「知ってますか? 妹は現在、殺人犯ではないかと警察に疑われてます。もっとも死人|扱《あつか》いされてますから、所在地を掴《つか》めていないみたいですが」  老人の目つきはそのままに、顔色が変化する。青色だが、素直《すなお》に通してくれないようだ。 「お前、それどういう意味で言っとるんだ」 「いえ、この時間帯にここを出れば、警察に寄る空き時間が作れると思っただけです」  嘘《うそ》だけど。  老人の右手が握《にぎ》り拳《こぶし》になり、単純に憤《いきどお》る。僕の横《よこ》っ面《つら》を穿《うが》つ準備は万端《ばんたん》だけど、実行に踏《ふ》み切るのは大変に困難だ。妹を現状|維持《いじ》に守りたいなら僕の質問に付き合うしか名答がない以上、手を一度出したなら、息の根まで攻撃《こうげき》を届かせる必要がある。 「お前、自分の妹のことをそんな風に扱《あつか》って、おかしいと思わんのか?」 「僕のことをおかしいと思っていなかったんですか?」  礼儀《れいぎ》知らずに、質問返しをしてみた。その効果で、脆《もろ》い老人の血管が千切れたかは定かじゃないけど、怒気《どき》の臨界《りんかい》点を一度|越《こ》えた為《ため》か早口で嫌《いや》みったらしく罵倒《ばとう》してきた。 「あぁ、分かった。お前の家族はどいつもこいつもそういう性格だからあん子は苦労したし、海豚《いるか》だってろくな目に遭《あ》わんかったわけだな」 「特に否定しませんが」多少、気になる点はさておき。  作務衣《さむえ》の老人の皮肉は出|尽《つ》くし、心底|鬱陶《うっとう》しそうに「入れ」と僕を手招きした。  ようやくお招きされたので靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ、囲炉裏《いろり》部屋へと上がる。  エアコンという文明の利器は見当たらないが、囲炉裏の脇《わき》に小さなこたつが置かれていた。老人はそこで温《ぬく》もっていたのか、机には蜜柑《みかん》の皮と橙色《だいだい》の汁《しる》数|滴《てき》が散乱している。 「おや……? 取《と》り敢《あ》えず、そこに座れ」  老人の嫌《いや》そうな勧《すす》めに従ってこたつに足を入れると、中心部で何か柔《やわ》らかいものを蹴《け》った。「お?」靴下《くつした》を何かに手際《てぎわ》よく脱《ぬ》がされ、「ぎゃ」足の指を噛《か》まれた。窮鼠《きゅうそ》でもいるのか、とにもうとが隠《かく》れていることは明白なのに現実|逃避《とうひ》した。先程《さきほど》まで祖父と一緒《いっしょ》に蜜柑を食べていて、何故《なぜ》か僕が来たのを察して隠《かく》れたらしい。何がしたいんだこいつは。 「いだだだだ」  がじがじと咀嚼《そしゃく》してくる。まだ甘噛《あまが》み以上パイプ椅子《いす》で隣人《りんじん》退治を試みてくる老人を撃退《げきたい》する少年の力以下なので、対策を打ち立てるほどではない。 「……しかし、だな」  マユとちゅーする時にも大体同じ感想を抱《いだ》くけど、人の口内は熱い。清潔な火の熱さではないし、暖房《だんぼう》のような淡泊《たんぱく》な熱を内包してもいない。  もっとも近いのは、こたつの温《ぬく》さか。長時間|浸《ひた》っていると、思考が爛《ただ》れるのも似通っている。  などと評論しながらここで大穴として、老人の妻がこたつから這《は》い出てきた場合を真剣《しんけん》に考慮《こうりょ》するけど、流石《さすが》にそれは不意打ちすぎる。噛《か》まれる際の歯並びが既知《きち》で、該当するのは妹だし、と自分を鼓舞《こぶ》して恐怖《きょうふ》を焼き尽《つ》くす。 「靴《くつ》もないし……裏から部屋行ったか……?」  老入が、恐《おそ》らく妹の靴の所在を確かめてから、部屋へ回帰する。僕と正面、正反対の位置からこたつに入り込む老人は、妹の所在に気付いていない。そして、何故《なぜ》か妹は僕|側《がわ》に移動してくる。あぐらをかいている僕の膝上に半ば乗り上がり、さながら猫のようでもあった。布団が妹型に膨《ふく》らむ。こたつ布団の中へ指を入れると、足を吐《は》き捨てて期待通りに噛んできた。……いや失敬、訂正《ていせい》。予想通りね。  けど、我が妹ながら不安定な奴《やつ》だな。二日前は正しくない金属バットの使い方を実践して、今日はその怨敵《おんてき》の膝上で丸くなる子猫ちゃん(死語)。まるで二人いるようだ。  もしや唐突《とうとつ》に双子《ふたご》路線が発覚か。そんなにいらないけど。 「うわっ」「は?」「いえいえ」指先についた唾液《だえき》を舌で舐《な》め取ってきた。ざらっとしたぞ。 「で、人を脅《おど》して聞き出そうとするほどの大事な話をするんか?」  老人がせっつき、急《せ》かす。僕は「はい」と、対照的になるよう努めた。嘘《うそ》だけど。 「妹がどうしてこの家に住み出したかは、ご存じなわけですよね」  老人の顔が若干歪《じゃっかんゆが》む。妹の爪《つめ》が足裏に突《つ》き刺《さ》さる。 「そりゃあ、俺が家に入れたからな」  老人は蜜柑《みかん》を手の平で転がし、手垢《てあか》だけ付着させて机上《きじょう》の籠《かご》に戻《もど》す。 「理由は、ここしか他《ほか》に家がなかったからだろ」 「僕がお尋《たず》ねしてるのは、何故、実家を出る必要があったかです」  僕を殺害する動機は、そのへんにも起因してそうだから。  知らずに死ぬのも忍びない。冥土《めいど》の土産《みやげ》は貰《もら》わず、自前で購入《こうにゅう》しよう。  老人は「あんな家が実家か」と鼻で笑ってから沈思黙考《ちんしもっこう》をする。彼の年齢《ねんれい》分刻まれた皺《しわ》(か、どうか定かじゃないけど)が深々と山あり谷ありの表情を創成し、僕を睨《ね》め付ける。  老人が口を開くのを待つ間、籠の中で大人しくしている蜜柑を手に取る。皮を剥《む》き、繊維《せんい》を懇切丁寧《こんせつていねい》に取り除《のぞ》く作業に片手で入った。結構、難易度が高い。 「俺の口から話す内容じゃないとは思わんのか。思わんのやろうな、お前みたいな人間は」 「本人に問い質《ただ》したって、足の裏が飛来するだけですからね」  人差し指を二度噛みしめて同意する妹。或《ある》いは、聞き込みを放棄《ほうき》しろという牽制《けんせい》か。 「当事者に語らせて嫌《いや》な記憶《きおく》を引っ張り出すより、他人から説明を得た方が効率的ですし」  まあ、本人もこたつの中で拝聴《はいちょう》することになるけど。そういえば妹自身は、躍起《やっき》になって話を妨害《ぼうがい》するそぶりがない。同情者である老人とは対照的だ。 「それと先程《さきほど》、僕の家族はどいつもこいつもと言いましたが、兄や父に何か問題が?」  取っておいた老人の揚げ足を活用し、問いかける。尚《なお》、母は除外した。  老人の噤《つぐ》んでいた口が、僅《わず》かにずれて溜《た》め込んでいた空気を吐《は》く。 「父は当然ですが、兄は? 兄は貴方《あなた》と関《かか》わりを持つほどの問題を起こしていたのでしょうか。……或《ある》いは、妹に対して一悶着《ひともんちゃく》あったとか」  などと、含《ふく》むものがあるかのように、馬鹿丁寧《ばかていねい》に指摘《してき》してみる。実際は虚偽《きょぎ》だけが中身を膨《ふく》らませているわけだ。完全にブラフである。  ただ、僕の与《あずか》り知らないところで兄妹《きょうだい》の確執《かくしつ》があったのは、ある程度まで正解らしい。  何故《なぜ》なら老人は無言を通し、兄のことなど「知らん」の一言を言い損ねているのだから。 「妹のことを大切に思って頂けてるなら、話すしか選択肢《せんたくし》がないわけです。まだ時間は随分《ずいぶん》とゆとりがありますから」などと時刻を確認《かくにん》もせず宣《のたま》ってみる。  妹の歯が親指の爪《つめ》と肉の間に入り込み、侵食《しんしょく》してくる。爪を剥《は》がされた思い出と、マユの悲鳴が過去の檻《おり》の中で木霊《こだま》した。 「僕は知識欲に突《つ》き動かされて、理解したいだけなんですよ。他言はしませんし、事態を発展させる気もない。約束します」  控《ひか》えめに嘘《うそ》を混ぜて譲歩《じょうほ》する。それでようやく老人は観念してくれたらしく、口を開く。 「のうのうと生きていたお前も、罪を感じればいいんだがな」  ふぅむ。のうのうしてますかね、僕は。  どうやらこの老人、妹は果てなき苦労人で、その兄は安穏《あんのん》で平々凡々《へいへいぼんぼん》と日々を面白可笑《おもしろおか》しく過ごしてきた奴《やつ》と見下げているらしい。事件に巻き込まれたことを知っていても、それは所詮《しょせん》、新聞やニュースを挟《はさ》んだ触感《しょっかん》のない情報に過ぎないわけで。  ははは。そう見えるなら、いいか。気にせず繊維《せんい》を取り取り。 「あん子はな……お前のバカ兄貴に苛《いじ》められとったんだ」  老人が悲痛そうに語る。鼻の穴も膨《ふく》らみを帯びている。 「あーあーあー……あ、そうだったんですか」  繊維を取り終える。蜜柑《みかん》を一房《ひとふさ》もいでこたつの中に入れてみると、今度は間違《まちが》いなく期待通りに食いついてきた。貯水《ちょすい》場近くの池で放《はな》し飼《が》いにされていた鯉《こい》にパンくずを与《あた》えた、過去の僕らを思い返す。  後日、妹が鯉を捕《つか》まえて鍋《なべ》に入れる団子《だんご》の材料にしてしまったけれど、忘れ難《がた》い過去だ。 「なんじゃあ、その態度」  老人が血圧を加速し憤慨《ふんがい》する。今にも卓袱台《ちゃぶだい》返しより腕力《わんりょく》を要求されるこたつ返しに果敢《かかん》な挑戦《ちょうせん》を試みそうな、腕《うで》の配置。成功すれば妹が寒さで萎《しお》れてしまう、と兄としての使命感に燃えて老人を諌《いさ》めることにした。  嘘《うそ》だけど。喉《のど》が渇《かわ》く。 「もう昔の話ですし」  嘘だけど嘘だけど、嘘だけどっと。  老人の血管が今にも切れそうになっている。妹が次の一房を催促《さいそく》し、親指をかじかじ。もいで追加注文に応《こた》えると、指ごと吸い込み、咀嚼《そしゃく》し始めた。果汁《かじゅう》は高炉《こうろ》の妹のロと対立して、冷泉の役目を果たす。 「お前は側《そば》におったのになあんにも気付かなかったんやろ」 「ええ、全く」  もう何一つ。兄妹《きょうだい》がそんな深い仲だったなんて、僕なんか蚊帳《かや》の外じゃないですか。  老人は呆《あき》れてくれた。哀《あわ》れまれて、見下げ果てられる。そのお陰《かげ》で、怒気《どき》は消えた。 「お前の兄貴は、海豚《いるか》やあん子を認められんかったんだな。乳離《ちちばな》れ出来ないガキに教育された所為《せい》だ。誰《だれ》も見てないところで、陰険《いんけん》にあん子をいたぶっとったんだと。内容だけは詳《くわ》しく語らんとこを見ると、相当に酷《ひど》い目に遭《あ》ったんだうな」  老人が我がことのように苦々しい態度で語り、僕を糾弾《きゅうだん》する意向をちらつかせる。  そうなのか? と蜜柑《みかん》を介《かい》して本人に尋《たず》ねてみた。返事は唾付《つばつ》けだった。 「お前の父親の血をしっかり受け継《つ》いどったということやろ。一体、どういう家系なんだお前らは。だから、海豚があの家で暮らすのは反対したんだ」  などと、愚痴《ぐち》られても対応に窮《きゅう》する。だから、昔のことですし。 「ん?お前はどうだ」  睨《ね》め付ける老人。見つめ合うと、目が乾《かわ》く、 「お隣《となり》のお子さんによく似てるって言われますね」  二番煎《せん》じのネタでお茶を濁《にご》した。今は活《い》きの良い切り返しを仕入れてないから、日を改めて尋《たず》ねてほしい。いだだだ、僕の指で歯を磨《みが》こうとするな。  老人の嘆息《たんそく》がただ息を吐《は》くだけに過ぎない。もう少し、胸に響《ひび》くやつをお願いしたい。 「それで、だな」と一層老人の説明がたどたどしくなる。 「あん子な、兄を苛《いじ》め返したんだ。犬の、肉とか猫《ねこ》とか、そういうのを使ったり、本を破いたりしたそうだ。まあ、やり返されて当然ではあるんだがな」 「それは効果的ですね」特に後者。兄の身肉を石槍《いしやり》で削《けず》り取る狩猟《しゅりょう》にも等しい行為《こうい》だ。  老人は口ごもり、言葉を区切る。嘘をついたので閻魔《えんま》に舌でも抜《ぬ》かれたのだろうか。  老人が唇《くちびる》を割る。大体見当ついてきて、色々と満杯《まんぱい》まで上昇してきてるけど。  あー。  深呼吸深呼吸。引き延ばし。 「それで……」「早く言ってください、兄を殺したんですか・」  あうあー 「何とぼけたこと言ってるんだ。ありゃあ自殺だ」 「けど」  うあー 「自殺に追い込んだ原因は妹にあるわけですね」 「違う。自殺するやつの方が悪い」  言い切りやがった。死ぬことに良い悪いなんてあるわけないだろ、と思っちゃうけど。  あるんでしようなぁ、人間が言うなら。  あー  「あー」    あー    「あー」      あー 「………………………………………………………あ、そうですか」  そうか、兄が自殺した理由は妹が絡《から》んで、妹が失踪《しっそう》した理由は兄が絡んで。  へー。あ、嘘《うそ》だけどとは言わないんだ。  げろっと、ついでに思い出が吐《は》き出される。  それに追随《ついずい》して記憶《きおく》が蘇《よみがえ》ったけど、僕の母を殺したのは父だったよ。  家の裏庭。後に僕が妹の母親に突《つ》き飛ばされる場所。そこには赤い父と、ミートソースの母。  僕はたった一人、それの目撃者で。口止めされて、命の大切さを母の死体から社会見学真っ最中だった僕はあっさりと頷《うなず》いて。保身の為《ため》に、思い出さないよう処置して、努めて。  感清を不必要に使わないよう、気を遣《つか》うことで調節していて。  だから子供の頃《ころ》、僕は妹にどれだけ蹴《け》られようと、平気でいられた。  蹴られると、痛い。痛いけど、それが嫌《いや》に繋《つな》げられなくなっていて。  ああ、また、思い出す。  僕は兄の葬儀《そうぎ》にも、妹の墓前にも、涙《なみだ》なんか零《こぼ》れていない。  眼球は今みたいに、カラカラだった。  そして父親が金属バットを握《こぎ》りしめた日に、恐怖《きょうふ》が呼び水となってようやく色々と復帰して。 「それで、そのことを海豚《いるか》、母親に知られたくなかったみたいでな。一緒《いっしょ》に暮らしてると態度で看破《かんぱ》されるんじゃないかと怯《おび》えて、家に逃《に》げてきたってわけだ。あんな腐《くさ》った家にいつまでもおりたくなかったというのも、あったんだろ」  ……あれ?  僕は八年前が、全《すべ》ての元凶《げんきょう》だと決めつけていたのに。  これじゃあまるで、ずっと昔からおかしかったみたいじゃないか?  しかし、そうすると。  全《すべ》ての始まりは何処《どこ》にあるのだろう。  僕は一体、何処から歪《ゆが》んでいたんだろう。  一番手っ取り早いのは、お前が生まれた瞬間《しゅんかん》からだ! なんだけど。 「ずっと部屋に籠《こ》もって暮らしとったけど、俺はそれが一番良いと思ったから一緒《いっしょ》に過ごして……そのまま続ければ良かったのに、最近は夜に外を出始めて、だからこいつに見つかって。何でやろうなぁ、そういういらんことするの」  僕とマユが出会ったから。何て、微妙《びみょう》に嘘《うそ》じゃないかも。  まーちゃんがみーくんを手に入れてから、劣悪《れつあく》な事件は増加の一途《いっと》を辿《たど》っているわけで。 「おい」と呼ばれているので、頭を二つ目のやつに切り換《か》えた。 「何ですか?」 「何だじゃねえ! お前何を澄《す》ました顔しとるんじゃ! お前が馬鹿面《ばかづら》して助けんかったで、あん子がどれだけ苦労したか分からんのか!」 「苦労……?」  人を自殺に追い込む労力と苦心?  ああそうか。助けてくれなかったっていうのは、このことか。  そして、それが僕を殺生《せっしょう》する動機か。  分かりやすいのは案外、嫌《きら》いじゃない。 「何だ、その面《つら》。平気そうに……気味わりぃ顔して」  平気って……ああ、うん。確かに平気だな。  けど自分のことは自分で解決するわけだから、僕の行動に期待されてもお門違《かどちが》いだ。  人間として正しくないじゃありませんか。  それに、僕が死んだわけでもないし。他人事をそんな大げさに騒《さわ》げませんよ。 「ほら、話は終わったぞ。けど、それを聞いてどうする気だ。あん子の暮らしをそんなに壊《こわ》したいんか? 今まで何にもしんかったのに、邪魔《じゃま》は率先《そっせん》してする気か?」 「んー」別にそんな気はないですよ。だって「僕ら仲良しさんですからね」  布団《ふとん》を上げると、待ちかねたように妹が飛び出し、僕を侵食《しんしょく》する。額の汗《あせ》を僕の首筋で拭《ぬぐ》い、それから僕の膝上《ひざうえ》に収まった。前と随分《ずいぶん》態度が変わったな。  何か心境の変化でもあったかね。 「あにーちゃん」 「ん?」 「今日は、昔みたいになってる」  妹が首を傾《かたむ》けもせず、祖父を直視したまま指摘《してき》する。  老人は、酸欠《さんけつ》金魚ごっこに夢中で孫娘《まごむすめ》の熱視線に応《こた》えない。  僕は自身の指先を眺《なが》める。妹の唾液《だえき》まみれだけど、汚《きたな》いのは蜜柑汁《みかんじる》だけだ。小指の糸もしゃぶられて、すっかりと水分の重みに萎《しお》れている。  昔か。僕の理想とするものがとても近くにあったのに、気付けなかった時代。  よし、旧交を温めるとするか。 「蜜柑《みかん》食べる?」と尋《たず》ねた。 「食べる」と、妹は頷《うなず》いた。  老人は、ただ目頭《めがしら》を押さえた。お大事に。 「二日前は僕を殺すつもりだったんだろ? 決心はどんな形でついた?」  妹ハウスからの帰り道。横に連れ添《そ》う妹に、問い質《ただ》した。  世界は晴天と砂利《じゃり》道の組み合わせに、土の匂《にお》いが混じっている。 「あの女、なに? ナイフを常備してるの?」  妹は回答せず、全く別の事柄《ことがら》を尋《たず》ね返してくる。ついでに小石をスルーパス。 「三度答えるけど、大富豪《だいふごう》のお嬢様《じょうさま》だ」  大多数が宿屋の幼なじみを選ぶなら、少数派を気取りたがるのである。嘘《うそ》だけど。前方に転がる石をワンツーする。 「お嬢様だから自転車に乗れずにあれだけ転べるわけ?」  侮蔑《ぶべつ》混じりの、妹の寸評《すんぴょう》。自転車の練習の頃《ころ》から覗《のぞ》き見《み》して、機会を窺《うかが》っていたらしい。前回といい、にもうとはあにーちゃんを付け回してでもいるのだろうか。暇《ひま》な奴《やつ》。 「一つ言っておく」  妹は石蹴《いしけ》りに夢中なふりをして、返事なし。妙《みょう》に疲労《ひろう》の色を漂《ただよ》わせた顔つきだな。 「僕を殺す気があるなら、一人でいる時にそう申し出ろ。マユを巻き込まないでくれ」  むしろ、やる気があるならこの場で実行しろ。  今なら、抵抗《ていこう》出来ないから。  にもうとは石を畑へ蹴り飛ばす。それから、僕を睨《にら》んだ。やはり、言葉は紡《つむ》がれない。 「で、何処《どこ》までついてくるつもりだよ」 「君の行けるところまで」  そんなおっとこまえな台詞《せりふ》は余所《よそ》で使え。 「あにーちゃんさ、」「ん?」「お母さんを殺したの?」  穏《おだ》やかに下降する調子で質問された。僕は新しい石を蹴りながら、「違《ちが》うよ」と否定した。 「僕には、あの人を殺す理由がないからな」  そんなおこがましいことは出来ない。  妹は際立《きわだ》った反応なく、僕から目線を外した。  ……さて、今度は僕の番だ。あの家に、老人の愚痴《ぐち》や罵倒《ばとう》を拝聴《はいちょう》しに行っただけではないし。 「にもうとさ、」「なに?」「最近、動物以外に何か殺した?」  妹の目に微細《びさい》に歪《ゆが》みが加わる。この後はお約束に、鼻が鳴る。 「あたしは植物を山へ刈《か》りに行く趣味《しゅみ》ないけど」  捻《ひね》くれた物言いだな、兄の背中を見て育ってない割に。 「聞き方が悪かった。お前、人を殺したことある?」  手頃《てごろ》な石を探しながら、再度|尋《たず》ねる。が、妹に目から光線を発射されそうなほど睨《にら》まれたので、中断して見つめ返す。僕も電波ぐらいなら何とか発信出来るんだけど。 「何それ、嫌《いや》み? さっきの話聞いてなかったの?」 「違《ちが》う。 直接、刺殺絞殺撲殺暗殺毒殺《しさつこうさつぼくさつあんさつどくさつ》その他したことあるかってこと」  妹は多少緩和《かんわ》した視線を数瞬彷徨《すうしゅんさまよ》わせ、そして「それはまだない」と返答した。  うむ、まだも含《ふく》めて予想に当て嵌《は》まってるな。妹は嘘《うそ》をつくのが苦手だし、信用に値《あたい》する。  会話と石探しを同時進行しているうちに、砂利《じゃり》道が終わりを迎《むか》えてしまった。アスファルトにドラッグストア、ついでに四輪車も景色《けしき》に飛び出したり消えたりするようになる。 「ああ、もう一個」まだ引き返さない妹と道路を横断しながら、質問してみる。 「この前、冷蔵庫にあったやつは何だ?」 「小腸」「何の?」「人間の。欲しいの?」なんて、淡々《たんたん》とした調子で返す妹。 「譲《ゆず》ってくれと言ったら?」「誰《だれ》がやるか」だろうな。  結局、マンションの前で自動ドアをくぐると、妹は来た道を逆走していった。  何だったんだろう。どうでもいいけど。  同日、午後七時。  僕らはもう布団《ふとん》に入って寝息《ねいき》を立てていた。彼は嘘をついている、と三人称の視点まで偽造《ぎぞう》して詐称《さしょ》を苦言する。  マユは僕の分の枕《まくら》を、文字通り抱《だ》き枕《まくら》として就寝《しゅうしん》している。寝顔は芳《かんば》しくない。表情が削《そ》ぎ落とされ、顔色の悪さが包み隠《かく》さず浮き出ている、マユが普段《ふだん》から僕に要求するように、微笑《ほほえ》んだまま眠《ねむ》りを嗜《たしな》めないものか。などと無礼な言いがかりを僕がつけるはずもない。  だってまーちゃんだぞ。そういうの駄目《だめ》、絶対。  ご尊顔を拝観しながら、明日からの行動基準を設定する。  危惧《きぐ》するのは、自転車の練習。  マユが目覚めた時間に応じてなのだから、夜間の練習に赴《おもむ》く日もあるはずだ。  だから、危険は取り除いておかないといけない。 「いつも通りだよ」  まーちゃんの安全の為《ため》に少し張り切るだけ。  明日は電話して確認《かくにん》して。  準備して、殺してもらって。 「まーちゃん。好きだよ超《ちょう》好きー」  だから平気。また明日からばりばりみーくん。有給返上。  はい、お休み。  深夜、目が覚めると嘘《うそ》をつく。  瞼《まぶた》さえ閉じていない、と嘘をつく。  嘘って何だろう?  起き上がる。嘘じゃない。嘘じゃないよ!  いいだろ偶《たま》には嘘つかなくたって!  不眠症《ふみんしょう》で忙《いそが》しいの!  胸は痛んでいない。脳味噌《のうみそ》も、眼球や鼻の奥も、指先のざわめきも何処《どこ》にもない。  痛むのは、自前の爪《つめ》で掻《か》きむしるせなかみみくちはいしんぞう血液だけ。  まーちゃんと違《ちが》って止める人がいないからやり放題。「とーくーに、めだまはしねー」  明るさに怯《おび》えて布団《ふとん》を被《かぶ》る。眠《ねむ》れないから何も減殺《げんさい》しないじゃないか。  坂下恋日《さかしたこいび》。僕の先生で、愚鈍《ぐどん》じゃなくて、不美人じゃなくて、どうでも良くない人。  彼女は事あるごとに、僕の心を語った。君の心は枯死《こし》してないよーって、眠ってるだけだよーって。枇杷島《びわしま》の見解とはまるで違《ちが》う、僕を人間に肯定《こうてい》する人。  反抗《はんこう》期な僕はそれを突《つ》っぱねて、今はその若さがほろ苦く反吐《へど》を見る。  ああ会いたい。せんせんせ先生にお会いしたい。  心の起こし方を、教えてほしい。いいから言いなさいさぁ早く。  でも駄目《だめ》だ、あの人はもう僕の先生じゃない。  僕は僕で頑張《がんば》って僕で肯定しなければ。  自分のことは自分でやらなきゃ駄目だってみんな言うじゃないか!  じゃあ、他人ってどういう意味と理由で必要なんだ。  眼球に指を挟《えぐ》り込む。この目が悪い。この瞳《ひとみ》が、この役立たずの涙腺《るいせん》が。  父が母を殺害したことにも目を逸《そ》らし妹が兄に苛《いじ》められていて気付きもせず妹が兄を苛め返して自殺に追い込んだことにも気付かず妹が本当は死んでいなかったことにも思いが巡《めぐ》らず父が犯罪者で妹の母親には命を救われてその娘《むすめ》には恨《うら》みを買って人を騙《だま》して嘘をついて生きている僕が、その全《すべ》てに呆《あき》れも怒《いか》りも後悔《こうかい》も拒絶《きょぜつ》も湧《わ》かず、妹にごめんなさいの一言もなく申し訳ないと謝罪の切片が心に傷をつけないことにも、涙《なみだ》を出し惜《お》しみしやがる。  助けてやれなかったと嘆《なげ》かない自分に、  表面上だけでも、悲しまない罪人がここにいる。  資格を剥奪《はくだつ》されたのに。  それでも平気な顔して人間を、無免許でやっていること。  僕のつく嘘《うそ》は全部、その犯罪に起因してる。  妹はどうして僕を殺さないんだろう。  ひょっとしてあいつは妹なんかじゃないのかな。  え、偽物《にせもの》? マジで? なんだ、幻滅《げんめつ》。  でもお陰《かげ》で騙《だま》されなかったぞ! 僕は何て運のいい奴《やつ》なんだ!  絶対幸せになれるよ! ありがとうA子さん! あ、寿退社《ことぶきたいしゃ》?  そっちこそお幸せに! おや、窓から出てっちゃった。  窓。部屋の黒い窓。飛び降り退社? 止めなきゃ!  駄目《だめ》だ駄目だ駄目だ駄目だ、ん? だめだだめだだめだだめだこれ回文だ。  記念に窓を開けて新鮮《しんせん》な空気注入。おいおい、頭が正解したのに肺が良い思いしてるじゃないか。おとうさんに依怙贔屓《えこひいき》を窘《たしな》められた。金属バットのおとうさん。そうかあ、僕はバットでおかあさんを叩《たた》くおとうさんを見ちゃったから、野球少年を諦《あきら》めたんだっけ。  なーつかしぃなぁ。  ていうかなんだよ、僕の家族、みーんなおかしい奴《やつ》ばっかりじゃないか。  じゃあさあ、僕ってば無理して足掻《あが》かなくても現状|維持《いじ》どころかもっとはっちゃけていいのかな? 家族から浮いちゃうだろ?  和を重んじようぜ。  だから今のままでいい。  そこはかとなく今のままでいい。  どうしようもなく、今のままでいいッスいいッス!。  頭が怒《おこ》ってる。無視されるとすぐむくれて刃物《はもの》を持ち出してくる。まーちゃん似。それでこのたんこぶ。二つ目の頭。取れないかなこれ。そして屋根の上に投げるのですよ。  夏に向けてもっと軽量化しないといけないだわさ。  もぎっとね、こう。うーん……これは取れたら死んじゃうかなぁ、痛い。  大発見だね。たんこぶは取れたら死ぬ! やっぱり頭だもの、スペアでも大事か。  あー、頭に血が上《のぼ》る。ん、下がる? どっちでもいいよ、本質が大事なの。  低俗なことばかりだ。でも僕、今たかいたかーいなのですが。  それにこんな僕にもみんながいる。  みんな悪いけど。だからみんな正しい。  誘拐《ゆうかい》された小学生の兄妹《きょうだい》が。僕を玩具《おもちゃ》と見る刑事が。僕を褒《ほ》めちぎる精神科医が。僕を好きになってくれた同級生が。僕を忌憚《きたん》なく否定する同級生が。その他は打ち切り。  友情? 温情? じょうじょうしつこいな、もう情景に一纏《ひとまと》めで良いよ。  そう、情景パワー。現代のミラクル、ミステリアスノイズ。  そんな皆《みな》さんのお陰《かげ》で、  ベランダの手すりに、腹を載《の》せているところで踏《ふ》み止《とど》まれたよ。 「……うわぁ、はっは、ははは」  今だ、泣けよ。(涙《なみだ》)とか語尾に撒《ま》き散らせ。  駄目《だめ》か。  ずるずると、壁《かべ》に従って落下する。部屋側《がわ》へ、外から逃《に》げて。  窓に背中を支えてもらって、震《ふる》える。  吐《は》く息は黒い。何も映らない。  心臓と肌《はだ》を握《にぎ》る。握る、潰《つぶ》す。  虫のいいことを言っているよ分かってる、ごめんなさい。  自ら望んで、ようやく手に入れたのに。  今、僕は限りなく理想型なのに。  何処《どこ》で何を失ってこうなったか、自覚していないのに。  心を廃《はい》して、けれど意志のあるいきものになっているのに。  暗闇《くらやみ》の中、願っていることは。 「たまには、たまには、たまには……」  痛くなれ。  心が、痛くなれ。 [#改ページ]  四章『嘘つき少年は笑わない。けれど、』 [#ここから3字下げ]  どろどろと流れる。  まだ温度を失っていない液体が、流れ落ちていく。  もう少しもう少し、もっと、もっと。  祈りや後押しの甲斐なく、流れが止まる。  なんだ、もう全部出たんだ。  こんなに簡単だったなんて、と呆れたり一息吐いたりして。  それから、下を見る。  そこにただ、満たされていた。 [#改ページ] 『法則?』 『そう、犯人は事件の現場に頻出《ひんしゅつ》するというやつ』 『それはいかいかな如何《いか》なる理に基づいて構築された法則なのかしら?』 『不勉強でね、そこまでは知り得ない。けど、古今東西《ここんとうざい》で語り継《つ》がれてる事柄《ことがら》なんだ、当てがないなら指針にしてみるのも悪くないだろ?』 『ああそう。そうね、貴方《あなた》は今はうたがうたがわ疑わしいのではなかったはずだもの』 『そういうこと。信頼してくれて恐悦至極《きょうえつしごく》です』 『では貴方と八事《やごと》の意見をさんさん参考として義人《よしひと》を取り戻《もど》しに行くわ』 『両方の意見か……。僕と枇杷島《びわしま》、どっちがより信用されてるのかな』 『犯人をおしおしえ教えてくれる方に決まっているじゃないの』 『ま、そうだろうね。ところで、一宮《いちみや》って停学は解けてるのか?』 『私がていていが停学というのは、如何なる過程と結果で導き出される可能性なのかしら?』 『……現世の理に縛《しば》られない奴《やつ》だな』 『それじゃあ、ごきげんよう。放課後は道草しないように』 『そちらこそ息災《そくさい》で』  それと、さようなら。  僕が仮にこれから事件を解決したところで、良好になるものは少数だけど。  それでも、負け越《こ》しても、やるべきことなのだと思う。  そう、僕たちは負け通しだった。  それは勝負事でありながら、前提として勝者|側《がわ》が決定されているように。  どう足掻《あが》いても、そこには確率がない。  良い勝負できれば幸せだろうって、勝つ者は嘲笑《あざわら》う。  そうしたら負け側は、そうですって卑屈《ひくつ》に笑うことが必須《ひっす》だ。  負ける側で残る為《ため》にも、条件はいるんだ。  ……いや、目下行われているドキッ! 男女だらけのベースボール大会の戦歴についてなんだけどね。何だか、人生論みたいな表現に変貌《へんぼう》してしまった。  三時間目は隣《となり》のクラスと、男女混成で体育中だった。九人で補欠|抜《ぬ》きのチームを各々《おのおの》が組み、適当に草野球するという体育教師の休憩《きゅうけい》時間が確保できる有意義な授業だ。ただし問題は、チーム編成を生徒の自主性に任せきったその怠惰《たいだ》な放任主義。  男子は思春期の弊害《へいがい》で女子を誘《さそ》えず、女子は普段《ふだん》から仲の良いグループで構築した輪を作り、さながら女子校対男子校の様相が出来上がるのである。  そんな中で、女子校に在籍《ざいせき》しているのが僕だった。別に女装はしてなくて、だから浮いてる。  クラスのお節介焼《せっかいや》きで腫《は》れ物《もの》に躊躇《ちゅうちょ》なく触《ふ》れてくるいっそ無神経と呼んで差し支《つか》えない女子(惜《お》しい、委員長じゃない)がマユを自軍に引っ張り込む。そこまでは多少の問題だった。けれどそのまーちゃんに僕も引っ張られ、女子のチームに参戦する意向が高まってくると、にわかに女子の反応が悪化する。犯罪者の血縁《けつえん》と仲良く球遊びは、精神衛生に不潔というわけだ。よくあることなので、取り立てて目から鱗《うろこ》を落とすほどの衝撃《しょうげき》はない。他《ほか》にも、自殺した兄を持つ小学生として無邪気《むじゃき》に揶揄《やゆ》されたり、お前も飛び降りとかするの? と純粋無垢《じゅんすいむく》な表情で質問されたりするのも、見慣れた景色《けしき》といえる。  僕とマユは女子チームに名簿《めいぼ》の上だけで登録され、グラウンドの隅《すみ》で補欠役を志願することになった。金子が控《ひか》えめに誘《さそ》ってはくれたのだが、マユに睨《にら》まれてすごすごと退散してしまった。蜘蛛《くも》の糸より頼《たよ》りない救援《きゅうえん》だった。もっとも、マユがいなかったところで断っていただろうけど。  僕と寄り添《そ》うマユは「今日も寒いよね」とか話し、時々、空を舞《ま》う白球を目で追いかけたりして時間を潰《つぶ》していた。他の女子群からは距離《きょり》を置いて、置かれて。マユを勧誘《かんゆう》した女子も、誘い入れただけで自己満足だったらしく、それ以上は干渉《かんしょう》してこない。僕がいなければもう少し、マユに歩み寄ってくるのだろうけど。  案外、僕もマユに迷惑《めいわく》をかけている部分はあるわけだ。  いつか誰《だれ》かが指摘《してき》したように、御園《みその》マユの閉鎖《へいさ》性を助長している。  互《たが》いに迷惑《めいわく》をかけ合って、特に目立った救援はせず。  何て人間らしい関係だろうと、嘘《うそ》の自賛で自嘲《じちょう》を締《し》めくくった。  同日、昼休み。  購買《こうばい》の最寄《もよ》りの階段|途中《とちゅう》で、稲沢《いなざわ》の背中を発見した。背中には正面も側面も付属し、立体の稲沢君であることは明白だった。取《と》り敢《あ》えず言葉をかけず、階段を一段飛ばして下りながら横をすり抜《ぬ》けると、「あっ」と稲沢の声があがった。 「久しぶり。今日は学校来てたんだ」  僕が振《ふ》り向くまでもなく、稲沢が隣《となり》に追いつく。相も変わらず、『僕の肌《はだ》を食べなよ』と二《に》の腕《うで》の部位を剥《は》がし、それがクールミントガムの味わいでありそうな男だ。 「御園さんは?」  階段を下りて、廊下《ろうか》に着地しながら稲沢が確認《かくにん》してくる。 「夢を見てるよ」  稲沢《いなざわ》の苦笑いを頂戴《ちょうだい》しながら、僕らは食料販売の場へ足を運んだ。  購買《こうばい》部では、二人の学生が品定めしているだけだった。基本的に当校は、学食の方が賑《にぎ》わっているのが常だ。安く、量が多く、味付けが薄《うす》いので腹は手軽に膨《ふく》れる、という点に生徒を群がらせる秘訣《ひけつ》があるのだろう。  稲沢が、売店を管理するおばさんと目を合わせ、小さな微笑《ほほえ》みと会釈《えしゃく》。それだけで、やる気がないことを主張する為《ため》に生きていたような厚化粧《あつげしょう》の四十代の表情がほころび、せかせかと活動し出す。「これと、これやったね」と常連さんの扱《あつか》いで、稲沢が商品を選択《せんたく》するまでもなくレジは叩《たた》かれ、購入《こうにゅうと》が滞《とどこお》りなく済まされる。 「いつも同じ物ばかり食べてるから、覚えてくれてるんだ。けど、何でか飽《あ》きないんだよね」  ビニール袋《ぶくろ》に包まれたパンと飲料を受け取りながら、僕に軽く釈明する稲沢。「そうなんだ」と無味な返事をして、売り場から離《はな》れていく稲沢を見送らず、僕は物色を始める。自分と、マユの分の昼食を適当に購入し、仏頂面《ぶっちょうづら》のおばさんに小銭《こぜに》を手渡《てわた》す。それから、階段の方へ向かうべく購買を離れると、階段の前で壁《かべ》に背をつけた稲沢が立っていた。  稲沢は僕が通り過ぎるのを見計らい、並行に歩き出してくる。まさか待っていたのだろうか。 「なに買った?」  今度は階段を上《のぼ》る途中《とちゅう》で、稲沢が定型句な話を振《ふ》ってくる。この類《たぐい》の質問は返事をするという行為《こうい》そのものに意味があるだけで、内容など些《いささ》かも関係ないのである。というわけで、「寿司《すし》サンド」とか、探せば何処《どこ》かで製造していそうな、けれど一学校の購買にはまず存在しない商品名を口にしても何ら問題ないわけである。稲沢は目立った反応を浮かべない。 「こないださぁ、」と、そこで稲沢が言葉を区切る。階段の中腹まで上り、踊り場を三歩で通過し、もう一度階段を上り出す。そのあたりでもう一度、「こないださ」と稲沢が喋《しゃべ》り出した。 「御園《みその》さんについて、話したよね」「話したね」 「それでさ、えぇと……御園さんとの仲は順調だったりする?」 「今のところはね」後は、ボロを出さなければ。 「そっかそっか」と稲沢が安易に頷《うなず》く。がさがさと、ビニール袋の中で食物が揺《ゆ》れる音。 「破局するのでも願ってたりする?」  僕が世間話の一環《いっかん》としてそう確認《かくにん》すると、稲沢は多少|泥臭《どろくさ》い、締《し》まりのない笑い顔を浮かべた。 「御園さんがみんな、っていうか大部分は俺と打ち解ける為《ため》には、それが一番かな」  そう言って、稲沢は口元まで笑顔に駆《か》り出して、台詞《せりふ》を紡《つな》ぐのを怠慢《たいまん》する。別にそのまま夏期休暇を取ってくれて構わないんだけど、と無反応を装《よそお》った。  階段を上りきった二階の廊下《ろうか》を、並んで通行する。その間、稲沢は無言だった。  僕の教室の方が手前なので、そこで感慨《かんがい》なくお別れすることになる。稲沢は教室を覗《のぞ》き、俯《うつぶ》せのマユを発見して微笑んでから、保留だった台詞の続きを語った。 「御園さんには折を見てまた話してさ、根気強くいこうと思うから。それじゃ」  そんな宣言をして、稲沢《いなざわ》が自信|溢《あふ》れる足取りで去っていく。  僕は瞬《まばた》きするまでの問見送って、教室に戻《もど》る。  諦《あきら》める必要はないけど、みーくんの絡繰《からく》りを知って尚《なお》、稲沢はマユを好いていられるのだううか。あれだけ純粋《じゅんすい》じゃない症状《しょうじょう》も珍《めずら》しいけど。  そして実際のところ、僕としては稲沢に、どんな態度を取るのが賢明《けんめい》なんだろう。  稲沢がマユを口説き落とせば、僕はマユを失う。失う? 「うーむ……」  得てる、と断言していいものか。  自身の手元を、物理と精神で確かめる。  物理には購買《こうばい》のパン。精神には、心には、「……………………………………」  心の手は、何を拾い上げ、何を防護し続けてきたのか。  どうやって知ればいい?  教室の入り口で、天井《てんじょう》と床《ゆか》を交互《こうご》に、長々と見つめ続ける。  僕はまだ、何を失っていないんだろう。  同日、放課後。今度は部活動だ。精力的な一日を過ごしてます。  しかし僕はいっから、バドミントン部の所属になったのだろう。パコパコとシャトルを打ち上げながら、感じた疑問を素直《すなお》に反芻《はんすう》した。  グラウンドの片隅《かたすみ》で、本来なら演劇部の補助を務めている無線部の部長と副部長は、コートとルール無用のバドミントンを嗜《たしな》んでいた。伏見《ふしみ》が何処《どこ》からか道具を持ってきて、僕を誘《さそ》ってきたのだ。マユは進級する為《ため》、補習を強制的に受けさせられている。何せ、未来の猫型《ねこがた》ロボットの援助《えんじょ》が必須《ひっす》なほどの試験の点数を前回に取ったのだから。僕が一緒《いっしょ》にいるとマユが補習に集中しないからと、教師に教室を追い出され、図書館に退屈《たいくつ》を不法|投棄《とうき》する道中で伏見と出会い、ここに至っている。部屋に戻《もど》って、マユの不機嫌《ふきげん》をどう解消するかという命題を思案しつつ、青汁(青春と間違えた)の汗を流すことにしたのだ。学校が掲《かか》げる文武両道の実践《じっせん》である。嘘《うそ》だけど。  ラリーを嗜み、かれこれ四十分は経過している。両者とも、汗だくで足がもつれてきていた。伏見の天然に卑怯《ひきょう》な戦略で、戦績さえ五分である。あれはE作戦というべきか、F攻撃というべきか、判断が難しい。その道の達人でもなく、ただ黙視《もくし》するだけで判別できる目を養ってこなかった、僕の十八年に反省点があるのだろう。問題にされても困るのだが。  まあ通俗に言うなら乳が上下左右に自由自在なアナログコントローラーで卑怯者《ひきょうもの》なわけですな。ロケットを追いかける度、打ち返す度、部活人の集中力を奪うわけですよ。僕はともかく。僕は十字キー派なのである、マユや長瀬《ながせ》のような。……いやまぁ、若干《じゃっかん》嘘だけど。  それはともかく足腰《あしこし》に限界を感じ、ロケットを打ち返さず地面に墜落《ついらく》させた。 『終わる?』と息も絶え絶えに伏見《ふしみ》が手帳を見せつける。口を開きたくないほど疲労《ひろう》している状況《じょうきょう》では、有効活用できるな。「終わるよ」と返事をし、縁石《ふちいし》に座り込んだ。  伏見も、僕の隣《となり》に腰《こし》を下ろす。そこに躊躇《ためら》いがないことが、多少、訝《いぶか》しい。 『楽しい』「はてな」と手帳に感想を求められた。僕は額の汗《あせ》を指で拭《ねぐ》い、足裏の火照《ほて》りを検証しながら、「これが意外にも面白《おもしろ》い」と、結論を伝えた。手帳がばさばさと開閉し、間抜《まぬ》けな効果音で喜びの詩を奏《かな》でる。 「伏見は、僕と遊んで充分《じゅうぶん》に楽しめた?」 『ええ』『とても』『ベリーマッチ』  現国と英語の両方に不安を湧《わ》かせる返答。意思の疎通《そつう》という結果さえ出れば、過程は問わないのも構わない。僕らが来年、受験生であるという状況《じょうきょう》でなければ。 「そういえばこの前、枇杷島《びわしま》が言ってたけど、何で今のご時世に深夜街を彷徨《うろつ》いてたんだ?」 『生徒会』『今期の目標』「犯人|逮捕《たいほ》」『頑張《がんば》る』  手帳と肉声の合わせ技《わざ》。英語で記されている為《ため》に、メニュー表に指差すことでしか料理を注文できない海外旅行中の日本人を思い起こさせる、伏見の奇行《きこう》。お前は何人《なにじん》だ。 「犯人って……伏見はそういラの、止《や》めた方がいいよ」  明らかに貧弱だし。第二の犠牲者《ぎせいしゃ》候補っぽいし。近所の小学生にカツアゲとかされてそうだし。伏見はその忠告をどう受け取ったのか、手帳を検索《けんさく》して『心配』「はてな」と、疑問系は自分で付け足して質問してきた。多少、返事に窮《きゅう》する。 「心配かって、うーむ……」  身近ってほどでもないとはいえ、顔見知りがミンチになって出来損ないのハンバーグ製造されて驚《おどろ》きの一つも持ち得ないほど無機物じゃないと頑《かたく》なに信じるし、じゃあ義人《よしひと》はどうなんだって話だけど、伏見は表皮がまずまず良好なうえにある意味豊作の神と評すべき女の子であるからして、つまりお前は顔が愉快犯《ゆかいはん》だったり不毛な上半身を有する婦女子ならユッケにされようとも鼻で笑うんだなと責《せ》められるのは少しお門違《かどちが》いで、難儀《なんぎ》だ。  大体、伏見は僕に心配などされて嬉《うれ》しいものなのか。  ……ふむぅ。 「前から思ってたけど、伏見はさ、僕のこととか怖《こわ》くない?」  機材を壊《こわ》された原因である僕に文句の一つも囀《さえず》らない、演劇部の連中みたいに。 「目が光ってないところは少し」  端的《たんてき》に、具体的な箇所《かしょ》まで指摘《してき》された。とはいえ、瞼《まぶた》に豆電球を仕込むわけにもいかない。 「だけど、それを肯定《こうてい》する」 「えっ?」  伏見の真顔が間近で顔を引きたくなって、それでも、身動《みじろ》ぎできなかった。 「私は、自分の声が嫌《きら》い」「ん、ああ」 「だから手帳を使って会話する」あ、そういう意味合いだったのか。  伏見《ふしみ》が身体《からだ》をずらし、僕を中心に見|据《す》える。 「それは、笑わないお前相手にも同様、だけど。嫌《きら》われるのも笑われるのも、嫌《いや》で」  目を伏《ふ》せかける。でも、伏見は真正面を向き続けた。 「でもお前は私の声を笑わない。それにどんな過程があるかは問わない、ただその結果を尊び、感謝する。だから私は許容する。お前の怖《こわ》さを認めるし、肯定《こうてい》もする」  枯《か》れた声音《こわね》で、  それが、頭中を駆《か》け巡《めぐ》った。  さぁっと。頭が一度|漂白《ひょうはく》されて、それから、中身掻《か》き消えたように、軽々となる。  機能が、回復した。 「うわぁ……」  何だ、この爽快感《そうかいかん》。昇天《しょうてん》して魂《たましい》が抜《ぬ》けきる手前だと説明されても、今なら受け入れそうだ。 「だからお前は、その……ずっと、私の声を認めてほしい」  汗《あせ》を指で拭《ふ》きながら、鼻先まで朱色《しゅいろ》の伏見が提案《ていあん》してくる。 「うん。……こちらこそ、よろしく」  普段《ふだん》から特に意識していなかったからな。簡単である。  ……けど、そうかぁ。  失念《しつねん》してた。僕が生きることを維持《いじ》するのに、水分とそれが必要だってことを。  言葉で言い表すことに無礼と憤《いきどお》りさえ覚える、許容と妥協《だきょう》を得るもの。  入院して以来、先生と病院で会話してなかったから、補給が滞《とどこお》っていたのか。  どうりで、稼働《かどう》率が低下の一途《いっと》を辿《たど》っていたわけだ。  先生との会話が如何《いか》に有意義だったか、今更《いまさら》ながら実感する。  これだけは、マユが与《あた》えてくれないものだから。 「どした?」伏見が顔を覗《のぞ》き込む。 「柚々《ゆゆ》は癒《いや》し系《けい》だと実感してた」 「ゆゆゆゆゆゆゆゆ」また拒否《きょひ》反応が出た。ああ、手帳が『ゆ』に乗っ取られていく。面白《おもしろ》いので何処まで書き連ねるか、放置。あ、親指に書き出したところで停止した。 「ところで、で」  上擦《うわず》った声で、何がしかの話題を振《ふ》ろうとする伏見。  深呼吸のしすぎで頬《ほお》を煌々《こうこう》と赤くしていた。 「しゅ、シュメールですかな?」 「? ……ええまあ」  世界最古の国家はな。間違《まちが》っても僕が錦《にしき》を飾《かざ》る故郷《こきょう》ではない。  伏見《ふしみ》が卓袱台《ちゃぶだい》返しの真似《まね》をして手を上にというか胸部の揺《ゆ》さぶりで部活動に明け暮れる陸上男子を懊悩《おうのう》させる。で、あたふたしてから、もう一度伏見の挑戦《ちょうせん》が始まる。 「しゅ、しゅがーくりょこうには、行きませねな?」 「……行きませぬが」  菊池《きくち》や相原《あいはら》じゃないんだから、私的な修学旅行は決行しない。 「ではでは、これを」  伏見が鞄《かばん》から、ずずいと白い長方形の箱を突《つ》き出してくる。目と鼻の先に、というか痛い、角が鼻に刺《さ》さってるから普通《ふつう》に。兎《と》にも角《かく》にも、受け取ることにした。 「なにこれ」「しゅ、しゅがーくりょこうのお土産《みやげ》」 「ああどうも……って、今更《いまさら》?」  小説的な時間経過で表してみるなら、二巻分ぐらい遡《さかのぼ》った話じゃないかな。いや、例えた本人が理解不能なんだけどさ。この前から、『しゅ』の続きをそう繋《つな》げたかったわけか。  伏見はしゃかしゃかと、蟹走《かにばし》りで校舎へ逃亡《とうぼう》してしまった。器用な奴《やつ》。 「うーむ」  持って帰っても未婚《みこん》の妻に捨てられるだけなので、この場で開けてみた。ラッピングを剥《は》がし、出てきた中身は、錆《さ》びた十円玉のような色の菓子《かし》だった。 「……チョコレート」  九州と、どう縁《えん》があるのだろう。あいつだけ飛行機乗り間違えてベルギーにでも行ってきたのか? もしくは九州では、チョコレートを果たし状代わりに使用する風潮が盛んだとか。確かに相手を怖《お》じ気《け》づかせることは出来るだろう、特に二月十四日に送れば。 「ま、いっか……」  明太子《めんたいこ》よりは、僕の好みに歩み寄ってくれている。  端《はし》から齧《かじ》る。頬《ほお》が引きつる甘味、それに粉《こな》っぽさ。喉《のど》に張り付く食後感だ。  ……ん? アケチってひょっとして、これか。チョコレートだから、明治で、アケチ。だとすれば、あのメモ用紙は部活に来いを意味していたわけじゃなかったのか。 「だけど、解読したのに内容が伝わってこない暗号とは、これいかに」  また今度、伏見に尋《たず》ねてみるか。  食べ終えてから包みをポケットへ収納し、代わりに携帯《けいたい》電話を引っ張り出す。  ……電話。僕より遥《はる》かに複雑な機構で構成された、それでも道具の一つに過ぎないもの。  あまりに単純に壊《こわ》れ、あまりに早く機能が回復する。  そんな僕の方がよっぽど機械じみてる(そのうえ一昔前の旧型)気もする。 「……そうか」  そうだったのか。おお、悟《さと》りモドキを開いた。  僕は、複雑でいられないんだ。  心が複数の感情を抱《かか》えたまま、管理しきれない。  枇杷島《びわしま》の言った心の欠けた部分が、恥ずかしながらこの年になって、ようやく理解できた。 「なるほどね」  予備の部品を余所《よそ》から補充する方法がないんだから、直しようがないわけだ。  恋日《こいび》先生がヤブ医者だったはずがない。……先生か。  そんな感傷は何処吹《どこふ》く風に、身体《からだ》は次を目指す。当然、声帯も。 「さて」  僕がベランダで居眠《いねむ》りして凍死《とうし》しかけてから、今日で三日目。  携帯《けいたい》電話の液晶《えきすpう》に映る日付は、金曜日。  独断と偏見《へんけん》に基づいた、決戦の日だった。  帰宅後、夕食を待つ間。  思うところがあって、未《いま》だ見慣れないといっていい、その番号に電話をかけた。  とぅるるるが六回鳴った後、繋《つな》がったことにまず驚《おどろ》く。 「……あ、もしもし」「………………………………………」「えーと、お久しぶりです。顔を見せるなというので、声だけならいいんじゃないかと」「……相変わらず、屁理屈《ヘりくつ》好きなわけだ君は」「はい、飽《あ》きもせずねじ曲がってます。先月は義理チョコをどうも」「……チョコ。あ、そっか。もう三月で、こないだ二月でバレンタインデーがあったか」「……先生。今、凄《すご》いこと発言してるの気付いてます?」「家にずっと籠《こ》もってると日付の感覚がなくなるのよね。で、カカオ今からいる? ていうか、誰《だれ》からそんな贋作《がんさく》を貰《もら》ったの?」「えーっと、ジェロニモさんからですけど」「あー、超人《ちょうじん》と人間どっちよ? とにかくアタシは知らない。そのジェミニマンに会ったらアタシの名を騙《かた》ることに文句つけときなさい」「……はぁ。分かりました。ひょっとしてジェロニモさんって、いい人かも知れませんね」「何処《どこ》が。偽称《ぎしょう》罪で奈月《なつき》が逮捕《たいほ》すればいいのに。で、用事?」「はい。実は、先生の小話が聞きたくなりまして」「あのね、君。アタシの話を今まで何だと思ってたんだ。噺家扱《はなしかあつか》いされてるとは予想外すぎ」「いえ、ご高説でも説法でも何でもいいんです。ただ、偶《たま》にそういうの、耳に詰《つ》め込みたくなって」「ふぅん。でもあれだ、今日は少し楽しそうじゃない」「そうですか? やっぱりそういうの、滲《にじ》み出てますかね」「ん、何かあったの?」「実は今日、修学旅行の土産《みやげ》を貰《もら》いまして」「……君ら、はサボってたけど、同級生は確か秋に行ってなかった?」「そうですけど」「率直《そっちょく》に聞くけど阿呆《あほう》なの、その子」「いえいえ、照れ屋さんなので」「照れすぎて中身|腐《くさ》ってんじゃないの、それ。で、小話しろって?」「はい」「急に言われても、お題が……うぅん。じゃあ、決めつけるなで」「よ、待ってました」「例えば、君がモテないと決めつける」「何ですかその心を挾《えぐ》る前提」「例えばと言ってるでしょ。それに君は実際問題モテる、えーとジェトーリオくんだっけ。チョコ貰《もら》ったのよね」「……先生、薄々《うすうす》感じてましたけど、ファミコンに耽《ふけ》ってません?」「あ、分かるの?すげーね君。弟の部屋の段ボール箱から引っ張り出してやってみたんだけど、これがけっこう面白《おもしろ》いのよ。親指の皮|剥《む》けちゃった」「……他《ほか》にやることはないのですか」「あってもやる。で、何が言いたいかというと、君は頭が固い」「はあ」「誰《だれ》が勝てって言ったんだよ」「本当に誰も言ってませんが」「……ごめん、路線|変更《へんこう》していい?」「その行き当たりばったりに、先生を近くで感じました。どうぞ」「君は大人になるってどういうことだと捉《とら》えてる?」「人類の繁殖《はんしょく》のメカニズムを実体験するという崇高《すうこう》な理念で」「黙《だま》れ偽《にせ》エロ小僧《こぞう》。大人になるって、強さと弱さを両方成長させることだとアタシは考えてると渋《しぶ》く決めたいのに」「……」「人間は心を抱《かか》えてる所為《せい》か手荷物に融通《ゆうずう》が利《き》かなくて、不器用なの。そんな状態を維持《いじ》しながら、色んな物事に人は巻き込まれる。それに慣れたり体力がつけば、人は強くなる」「……」「でも当然、心を地面に落とす時だって、誰かの妨害《ぼうがい》で叩《たた》き落とされる時だってある」「……」「落下の状況《じょうきょう》によっては治らない傷や、端々《はしばし》が欠ける場合も、当然存在する」「……」「君は確かに傷の塊《かたまり》みたいな心になってるし、欠けた部分もたくさんある。それはもう仕方ない、諦《あきら》めて、受け入れなければいけない現実なの」「……はい」「それは何一つ否定しなくていい。卑下《ひげ》もいらない。ただ、御園《みその》みたいに突《つ》き抜《ぬ》けて、子供のままでいられないなら、いずれ大人にならないといけない」「はい」「怠惰《たいだ》におろそかになってる心を無理せず使い込んで、強さも少しは手に入れておきなさい。親指と十字キーに血が滲《にじ》む前に」「……反面教師の鏡ですね」「ん、今日は反論しないの?」「僕は今日から真人間になるつもりですので」「あはは、君らしい。いやー、くだらない嘘《うそ》が好きな子だ」「マユ少年ですからね、僕は」「あ、そうそう。御園は元気?」「きゅーきゅー言ったりきゃーきゃーしてます」「ふぅん。ま、君らが幸せならそれが最良に近いよ、何一つ保証しないけど」「断言したり日和見《ひよりみ》したりお忙《いそが》しいですね」「漫画《まんが》返しなさいよ」「三色刷になったやつでよろしければ」「じゃ、頑張《がんば》るんだよ」「ういっす」 「君はまだこれから大人になっていくんだから」  それは先生らしく、綺麗《きれい》な締《し》めだった。 「………………………………………」 「………………………………………」締まりきってないけど。 「せーの、で切りましょうか」 「よし、せー」ぶち。 「………………………………………」僕が切ったわけではない。これは仮説だが、親指の酷使《こくし》で筋肉が痙攣《けいれん》し、その影響《えいきょう》で通話を断つ形になったのではないだろうか。 「何だかなあ……」  強くなることを推奨《すいしょう》されたのは、今日が初めてだ。  そんな話を持ちかけられる程度には、成長の兆《きざ》しを認めたのだろうか。  そしてあの人の言葉を耳にして改めて感じる、天職の有無《うむ》。  先生はやはり、精神科医に向いていると素人《しろうと》ながら思う。  痛まない度合いで傷に触《ふ》れられる、坂下恋日《さかしたこいび》という人には、きっと。  今度は直《じか》にお会いして、就職の相談をお互《たが》いに持ちかけてみるべきか。  ……けどさ。  坂下恋日という一人の人間が生きた、三十年間の薀蓄《うんちく》と含蓄《がんちく》、それに人生観をじっくりことこと煮《に》込んだ、絶妙《ぜつみょう》な激励《げきれい》と叱咤《しった》で色とりどりの光彩《こうさい》を放つ黄金の台詞《せりふ》に対し、まず最初に浮かんだ感想が何だか最終回の一話手前みたいだなあだったあたり、僕は改めて死ねばいいんじゃないかなと思ったのも確かなわけで。誰《だれ》か嘘《うそ》にしてくれ、たっはー。  そして、その日の終焉《しゅうえん》間近。  深夜の街に、僕は出かける。  今回は、幼き兄妹《きょうだい》も伴《ともな》わず。  僕一人で、夜空を見上げた。 「さて、行きますか」  明日が、波風をなくす為《ため》に。  二人目『シンプルサツジン』  犬は嫌《きら》いだった。だから手加減する必要なかった。  猫《ねこ》はもっと嫌いだった。手心の介入《かいにゅう》する余地はない。  最後の人は、嫌いじゃなくて好奇心《こうきしん》だった。だから殺してしまった。  暗夜の下で、過去にするのはまだ早い思い出が渦巻《うずま》く。  夜に流れる雲が堪《たま》らなく好きで、それと同時に不安を抱《いだ》く。まるで世界が終わる為《ため》に夜が来ているような、焦燥《しょうそう》感に足や手の指が滾《たぎ》る。友達に言ったら、派手に笑われた。  前方、彼方《かなた》の彼女に合わせて歩く。足音は、最近のカロリー摂取《せっしゅ》ぐらい控《ひか》えめに。  時々彼女は立ち止まる。  その待ち時間で、犬を嫌うようになった過程を振《ふ》り返る。……そうだ、小学生の頃《ころ》。友達の家に犬が住み着き出して、それを見に数人で遊びに行った日のことだ。小さな犬で、雑種だって友達の母親は紹介《しょうかい》していた。けどそれが、実は柴犬《しばいぬ》だと後で図鑑《ずかん》を見て知った。犬は大人気で次々に人の手の上を渡《わた》る。友人|曰《いわ》く、ふさふさで、すっげーそうだ。  自分の番が回ってきて、その次の子に早く早くとせっつかれながら犬を受け取る。確かに毛だらけで、触《さわ》り心地《ごこち》は悪くない。けど、その他《ほか》が落第点だった。  その日の夜、捕獲《ほかく》する際に致命傷《ちめいしょう》を与《あた》えたにも関《かか》わらず決死の力で噛《か》みついてきた。お陰《かげ》で未《いま》だに手の甲《こう》に傷跡《きずあと》が粘《ねば》りついている。そして味も、前回の柴犬《しばいぬ》より数段、格を落としていた。或《ある》いは子犬すぎたのも、要因の一つだろうか。それから何年も経《た》って、もう一度|試《ため》した犬の味は上々だったことを考慮《こうりょ》すれば、素材という観点から嫌《きら》うのは偏見《へんけん》であったことを認めざるを得ない。  結論、噛むから嫌い。そして移動再開。閉店した駄菓子《だがし》屋の前を通り、小さな川を越《こ》える。この川には確か、小さな海老《えび》が住んでいる。彼らの方が、犬よりよっぽど礼儀《れいぎ》正しく生きている。その判断は、半ば錯覚《さっかく》と経験による個人の主観かも知れなかった。  また立ち止まる。今度は見えない星を探すように、空を仰《あお》いでいる。仕方なく、今度は猫《ねこ》を回想する。猫は、その姿形を贔屓目《ひいきめ》で判断しても味に難があった。何度|試《ため》しても首を捻《ひね》りたくなる味わいだ。煮込《にこ》むと臭《くさ》みが、焼くと臭みが、といった具合で調理のし甲斐《がい》がありすぎる。正真手に余る。素人《しろうと》の限界を感じさせる逸品《いっぴん》だ。おっと、歩き出したので、再生を続けながら足を動かそう。やれば出来る子と母に言われていたので、大丈夫《だいじょうぶ》だろう。  農協の駐車《ちゅうしゃ》場を我が物顔で横断していくその背中を追う。こちらは実りのない柿《かき》畑を突《つ》っ切り、木の枝で肌《はだ》に傷を負っているのに良いご身分だ。早く人目につかない位置へ、普段《ふだん》通りに入ってくれないものか。愚図《ぐず》はこれだから、自覚を持って卑屈《ひくつ》に生きることを知らない。それで猫だけど、他に溜息《ためいき》を吐《つ》きたくなる要素として、捕《つか》まえ辛《づら》いという点もある。単純にこの街では、野良《のら》猫の数が少ないのだ。結論、猫は食料に不向き。よって嫌い。  一人で星を見る会が終了《しゅうりょう》したのか、また緋徊《はいかい》を続ける。ふらふらと定まらない足取りが、歩行者専用道路を闊歩する。よし、いいぞと声援《せいえん》を送り、凶器《きょうき》を構える。けど、まだ早い。目的地までは、目と鼻の先だ。……ああ、なのに、また足を止めやがった。一体あいつは何なんだ。人間なのかあいつは本当に。正しく、人間失格のそしりを免《まぬか》れない代表例が目の前にいることに戦慄《せんりつ》し、その堕落《だらく》を嘆《なげ》いた。そして、人間を想《おも》う。  人はもっとも味を試し辛い生物だった。人の世で生きる者として、当然の縛《しば》り。イリエワニに何度、羨望《せんぼう》の眼差しを向けたこと。隣《となり》で眠《ねむ》っていた兄の脇腹《わきばら》をちょいとぶつ切りして、色々と賞味したくなる欲求に耐えることで辛抱強《しんぼうづよ》さだけは鍛えられた。そして待ち抜《ぬ》いたご褒美《ほうび》にお零《こぼ》れと機会が巡《めぐ》り、一人の人間は選ばれた。  奴《やつ》は虚弱《きょじゃく》だった。試しに頭を武器で小突たら、大した抵抗《ていこう》も出来ない脆弱《ぜいじゃく》さに、絶望を禁じ得なかった。芋虫《いもむし》は生きる為《ため》に地面をはいつくばる。奴はそんな、生命の気高さを持ち合わせていなかった。だからこそ、慈悲《じひ》の一撃で昇天《しょうてん》させた。そして解体と処理の後に味見されることで、奴は生と死の価値を得た。  生きる意味は自身にあるが、生きた意味は他者が好き勝手に持ち与え、時に奪《うば》うものなのだ。  その毟《むし》られる感覚を恐れ、人は死を酷《ひど》く敬遠する。  自らを損ねたがらない。  だからこそ、生ある者は長寿《ちょうじゅ》を願う。  生きる為《ため》なら、これと決めた人間を殺すことも辞さないのだ。  なーんて、  全部、僕の想像した犯人像なんですけどね。  何処《どこ》まで合ってるか、些《いささ》か楽しみである。  頃合《ころあ》いを見て、深夜の世界を駆《か》け出す。壁際《かべぎわ》に潜《ひそ》んで、絶賛尾行中のそいつを捕縛《ほばく》する為に、右足の不良を忘れて疾走《しっそう》する。街の美化委員ごっこを実践《じっせん》する為に。  いつかのように公民館の駐車場を突っ切り、そいつが振り向く寸前に首へ手をかけた。肩にかけた凶器《きょうき》入れを押さえ、右手を握《にぎ》り潰《つぶ》す。身体《からだ》を揺《ゆ》さぶって僕の拘束《こうそく》を外そうとしても、首を絞《し》められることで力の入れようがない。  足をかけ、手を頭部にやって地面へ突き倒《たお》す。顎《あご》からコンクリートへ激突《げきとつ》させ、目の中に星か火花でも散りばめていそうなそいつの右|腕《うで》を背中で捻《ひね》り、体重をかける。左手は足で踏み潰し、更《さら》に踏みにじる。頭部を左手で地面に押さえつけるのも忘れずに。 「舌、噛《か》んだし……」 「次は腕の骨でも折られたい?」  尋《たず》ねると、  舌打ちが返ってきた。同時に、  抵抗は失われた。隙を見れば逆転を狙う、仮初めの服従。どうでもいいけど、柔《やわ》らかい手だ。個人的な判断でお恥《は》ずかしいが、マユ系ではなく、長瀬《ながせ》系。嘘《うそ》だけど。  そいつの敗因は、保身の理由で、凶器を袋《ふくろ》に仕舞《しま》っていないといけないことだった。そのまま振り切って僕を打ち据《す》えれば良かったのに、取り出す癖《くせ》が身につきすぎていた。 「こんばんは。今日の英会話教室はお休みですかな?」 「……女の子の首を絞《し》めてから、地面に押しつけるなんて随分《ずいぶん》と変質者ですね。せんぱい」  歯軋《はぎし》りと縛々《しゃくしゃく》な態度《たいど》を無理矢理組み合わせて、顔を引きつらせる枇杷島八事《びわしまやごと》。  今日もお召し物は制服だ。 「妹にもよく、そんな誤解をされるよ。まっこと心外である」  竹刀《しない》袋を奪《うば》い、遠くへ放《ほう》り捨てる。 「それで? どういうつもりなんですか、これ。せんぱいが殺人犯だったんですか?」 「それも度々《たびたび》誤解されるんだよ、不可解ですな。僕としては身の潔白を証明する意向で、このまま、今日から深夜の巡回《じゅんかい》を再開した一宮河名《いちみやかわな》を待つ。宗田義人《そうだよしひと》の殺害犯である枇杷島八事を突《つ》き出して、事件を終了《しゅうりょう》させようなどと目論《もくろ》んでいたりする」  枇杷島は、その日程を小馬鹿《こばか》にしたように、唇《くちびる》を窮屈《きゅうくつ》に歪《ゆが》める。 「せんぱいは、私を犯人|扱《あつか》いするわけですか」 「その通り。クリミナルゴートゥーポリスディスイズシー」 「つまり私を犯人にでっち上げようと必死なわけだ。後、英語が滅茶苦茶《めちゃくちゃ》すぎて清々《すがすが》しいくらいですね」  毅然《きぜん》とした口調でしらを切る枇杷島《びわしま》。それと、英会話教室の生徒に自己流を賞賛された。喜びのガッツポーズで隙《すき》だらけの時間を演出したのは言うまでもなく嘘《うそ》だけど。  周囲に人影《ひとかげ》がないことを、大雑把《おおざっぱ》に確認《かくにん》する。  さて、今回の事件を僕なりに終息させるためには、副委員長の一宮《いちみや》が必要だ。彼女を待つ間、唇《くちびる》や舌に運動をさせておかないと。咄嵯《とっさ》の場面で、寒さに邪魔《じゃま》されましたじゃ言い訳も喋《しゃべ》れない。 「この姿勢、いい加減|辛《つら》いんですけど」 「やっと効果が現れてきたか。君の我慢《がまん》強さは勲章《くんしょう》ものだぜ」 「あんまり捕虜《ほりょ》の扱《あつか》いが悪いと、痴漢《ちかん》扱いで大声出しますよ」 「出した瞬間《しゅんかん》、腕《うで》を折ってから口を塞《ふさ》ぐ。周囲から危険視されている高校生の面目躍如《めんもくやくじょ》だ」  枇杷島がムッと唇を尖《とが》らせ、一応は黙《だま》る。息を呑《の》んで恐《おそ》れを露《あら》わにしないあたり、流石《さすが》に度胸がある。或《ある》いは、僕の脅《おど》しに威圧《いあつ》感が不足しているのか。無抵抗《むていこう》なら、必要以上の危害は加えない。折ったら口までへの字に歪《ゆが》んで、会話してくれないだろうしなぁ。 「枇杷島|八事《やごと》さんを全校生徒の代表と見込んでご質問です、宗田義人《そうだよしひと》さんについてのご見解を一言」「駄目《だめ》ですね、もう一摘《ひとつま》みキッチュな要素を顔面に振《ふ》りかければ、男子にも受けそうですけど」  何だその受け答えは。僕の本当の兄妹《きょうだい》かお前は。  回答の満足度に応じてもう少し右手首を捻《ひね》っておいた。「痛いですって」とか聞こえない 「今のは保留として、次の質問にいこうか。案外重要だから一つよろしく。枇杷島さ、義人がチョコレートを一つしか貰《もら》わなかったのに満足してる駄目人間だと、漫画喫茶《まんがきっさ》で断定してたよな。あれ、どんな理由に基づいて個数を断定した?」 「……そんなこと言いましたっけ?」  枇杷島は、さしたる時問も置かずにとぼけた。 「うむ、言ったとも」「覚えてません」「僕が覚えてる」「じゃあ捏造《ねつぞう》ですね」「君の言葉を作り物にはしない」「頭なくしたんですか?」「いや、演出の要請《ようせい》に従っただけ。取《と》り敢《あ》えず発言を認めてくれ」「してませんけど、してるという前提でどうぞ」まあそれでいいか、と頭を切り換《か》える。 「義人君は大変モテるわけだ」「せんぱいと違《ちが》いますからね」「彼女持ちであろうと諦《あきら》めきれず、或いは想《おも》いだけ伝えたいという乙女《おとめ》さんが十円チョコを渡したかも知れないし、義理チョコという線もある」「せんぱいとは別物ですね」「彼の人徳や容姿なら、一個というのは通常、あり得ないんだよ。よほど義人を調べなければ断定できるはずがない」  枇杷島の目線が空と僕から、身近な地面に下りる。ついでに鼻を啜《すす》る。 「調べる、そう即《すなわ》ち学生|鞄《かばん》。義人《よしひと》は殺害されるまで帰宅もせず遊びほうけて、帰るついでに殺害現場へのこのこ向かったらしい。警察のおねえさんからそう聞いた。そして現場からは、一宮《いちみや》が捜《さが》し求める義人の内臓の他《ほか》に、鞄《かばん》が消失していた。その鞄を持ち帰って調べれば、チョコレートの個数を断定する為《ため》の情報を得て、つい口走ってしまうかも知れない」  枇杷島《びわしま》の目玉が浮上する。僕を見|据《す》え、睨《にら》み、猜疑《さいぎ》を投射するその視線に応《こた》える。 「ええと、それで私に犯人であることを認めろと?」 「さよう」 「いや、何の証拠《しょうこ》にもなってませんし。何処《どこ》をどう観念《かんねん》したらいいやら」 「その通り」だから、物証を今日、持ってきてもらったんだ。 「何だかせんぱいの話だと、お菓子《かし》会社の話題づくりの殺人事件みたいですね」 「チョコレート山荘《さんそう》連続殺人事件?」「連続してねーよ……」  突《つ》っ込みを入れてくれるまでには、余裕《よゆう》か機嫌《きげん》のどちらかが回復したらしい。枇杷島が、押さえつけられている影響《えいきょう》で、とぎれとぎれの溜息《ためいき》を吐《つ》く。 「せんぱい」改めて、語尾の強弱まで変えて呼んでくる。「なにさ」 「これを言ったら半分認めるみたいで嫌《いや》なんですけど……私が今日、ここに来ることにどうやって気付いたんです?」 「ああ、どうして一宮を殺害する意志が筒抜《つつぬ》けだったかについてだな」 「………………………………………」  否定しないということは、虚言《きょげん》の常習者でもない限り肯定《こうてい》を示している、と。 「夜のPK、すなわちサイコキネシスを活用してに決まっておろう」 「あ、そっちの意味だったんですか。てっきりサッカーのやつだと思ってました」「うむうむ」  思いつきを口にしているだけだが、まあよい。 「ま、冗談《じょうだん》はともかく、一宮がまた深夜|徘徊《はいかい》を始めた経緯《いきさつ》を聞いた時だな。乗り気じゃないはずの枇杷島が、何故《なぜ》また、深夜に散歩することを提案したのか。学校内では流石《さすが》に殺せないと踏《ふ》んだから、また外を回らせたのかなと。枇杷島を犯人じゃないかと疑ってたし、動機は未だもって不明なんだけどね」  或《ある》いは先程《さきほど》通り、枇杷島の世界に相応《ふさわ》しくないと見なされたか。一宮に関しては、現在の精神|状況《じょうきょう》や痩《こ》けた頬《ほお》、血が迸《ほとばし》る眼球の出具合から判断して、理解が及《およ》ぶ。 「同じ委員会の同級生をそんな風にしか見られないなんて」と嘲《あざけ》る真似事《まねごと》をする枇杷島。 「せんぱいに反省する機会をあげますから、手を離《はな》してみなさい」 「そうもいかないのが美化委員の世知辛《せちがら》いところなのだ」嘘《うそ》だけど。 「ていうか、私を押さえつけてる理由が不明なんですけど」 「ああ、それ」と軽い態度でいつも通り返答する。 「一宮に復讐《ふくしゅう》殺人を遂《と》げさせるまではこのままということで」  枇杷島《びわしま》の目の色が緑に、髪《かみ》が金髪《きんぱつ》に、ならないけど。目つきが悪くなったのは確かだ。 「説明いる?」「いらないから解放してください」「分かった、冥土《めいど》の土産《みやげ》に話そう」  つまり「今の一宮《いちみや》も邪魔だという話。復讐《ふくしゅう》対象がいなくなったら、彼女はどんな危険に変貌《へんぼう》するか未知数だ。だから枇杷島を殺害した犯人として、一宮が逮捕《たいほ》される。これで街の脅威《きょうい》は取り除かれた、と」  前回の失敗を踏《ふ》まえて、今回は殺人犯に死んでもらうことにした。今度は、大丈夫《だいじょうぶ》だろう。  などと考えていたら、枇杷島が鼻を懸命《けんめい》にひくつかせる。この姿勢では、笑い飛ばすのも一苦労らしい。 「随分《ずいぶん》とご自身を過大評価してますね。河名《かわな》が私とせんぱい、どっちの言葉に耳を傾《かたむ》けると思ってるんです?」 「……枇杷島は僕を見る目はあるけど、一宮を見る目がないみたいだな。親友は盲目《もうもく》ってやつか」 「……そんな日本語ありませんけど、意味あるんですか?」 「一宮にとっては既《すで》に、義人《よしひと》の死を契機《けいき》として人間関係にリセットがかかってる。みんな容疑者だ。だから赤の他人である僕も、親友である枇杷島も彼女に頭部を殴打《おうだ》された」  枇杷島が目を細める。 「僕と枇杷島は一宮にとって、容疑を一時的に外れた人間に過ぎない。その証拠《しょうこ》に一宮は、枇杷島の助言も、僕の進言も採用して深夜の巡回《じゅんかい》をしている」 「……せんぱいが?」 「一宮が深夜|緋徊《はいかい》を再開したのは、枇杷島がそれを勧《すす》めたから。そして巡回場所を忠告したのは、昨日の僕だ。殺害現場付近に犯人がまた現れる可能性は高いとか、適当な嘘《うそ》をついてね」 「何でそんなこと……」と、言いかけて枇杷島の目が点になる。おや、気付いたのか。 「うわ、あの時だ。絶対そうだ」「うん」と確かめもせずに肯定《こうてい》する。  枇杷島は舌打ち。堂に入ってるな、とは別に賞賛しなかった。 「せんぱいと仲良いふりなんかするんじゃなかった」「全くだな」 「頭皮|掻《か》き毟《むし》らせてください」「君も一応は女性だから、自分を大切にだね」「してますよ。だからせんぱいの頭です」「もっと自分を粗末《そまつ》に扱《あつか》え」僕が許可するのはマユぐらいだ。 「最悪です」「そうか?」「せんぱいと私、両方最悪です」  僕までついでに貶《おとし》めるなよ。今更《いまさら》過ぎるから。  金曜日に枇杷島が事を起こすことを予想していたから、後は場所を選定するだけで良かった。  金曜日以外の日付に一宮の死体が発見された場合、一緒《いっしょ》に回っている枇杷島が平々凡々《へいへいぼんぼん》と生きていること、犯人を見ないこと襲《おそ》われないこと、全《すべ》てが変になる。学校でも、深夜|俳徊《はいかい》してるのは噂《うわさ》になってたからな。だから金曜日の、一宮に付き合わない日しか決行しないと踏《ふ》んでみた。 「で、私を犯人と決めつけるわけはまだですか? 肩《かた》の桜|吹雪《ふぶき》とかは出さないでくださいよ」 「そうだ、ここで英会話教室をサボって、武器を片手に俳徊《はいかい》してるのを捕《つか》まえられたらそれだけで証拠《しょうこ》にならないか? 現行犯|逮捕《たいほ》」 「失礼ですね、今日は柿泥棒《かきどろぼう》を済ませてから行くつもりだったんです。けど仕方ないからせんぱいに付き合ってあげてるんです」と毒づく。  僕も好き好んで枇杷島《びわしま》とお喋《しゃべ》りに励《はげ》んでるわけじゃないんだが。  一宮《いちみや》がまだ、姿を現さないからな。 「そういえばあの竹刀袋《しないぶくろ》、本当は木刀が入ってるんだろ」  事件の日も部活帰りを装《よそお》えるから、義人《よしひと》も肩《かた》の凶器《きょうき》には警戒《けいかい》しなかったと。  僕の目線を伴《ともな》う質問に、枇杷島は「ふん」と突《つ》っぱねた態度を取る。 「確かめればすぐに答えが出る箇所《かしょ》で意地を張らなくてもいいのに」 「じゃあ人に尋《たず》ねないでご自分で確認《かくにん》すればいいじゃないですか」 「残念ながらゴム人間でもないとこの場から手が届かなくて、何より面倒《めんどう》だ」  地元に海がないから、実を食べても実害はないわけだが。  枇杷島の溜息《ためいき》と鼻息が同時に噴出《ふんしゅつ》される。上半身の小さい上下が手より伝わる。 「喫茶店《きっさてん》で別れる時、私の段位を尋《たず》ねましたよね」 「そっちは覚えてるんだな」 「それを根拠《こんきょ》に、木刀って言い切ったわけですか?」 「そういうこと。剣道の話は金子《かねこ》から少し聞いてたからね。初段か一級以上なら、昇段《しょうだん》試験用に木刀を購入《こうにゅう》しても不思議じゃない。生物を殺害するのに使って傷《いた》んだ木刀を買い直しても、そこまではね」 「せんぱい、私のストーカーですか。あの日も偶然《ぐうぜん》を装って近づいたんですね」 「それは逆、訳ありな様子を演じた偶然だよ」僕の行動の八割が該当《がいとう》するやつな。 「で、犯人であるという証拠《しょうこ》として義人を殺害した木刀という凶器《きょうき》を押収《おうしゅう》済み。血痕《けっこん》、体液がざくざくだ。それ以上の物証はいらないだろ」 「それも証拠になるか怪《あや》しいですね。犯人だったらきっと、木刀取り替《か》えてますよ」 「うん、木刀本体はね。けど、袋の方は?」 「袋……?」枇杷島が目を泳がせ、その言葉の意味を探る。許されるなら首を傾《かし》げただろう。 「袋は凶器じゃない。注意が行き渡《わた》り辛《づら》いのは当然だけど、凶器である木刀を収納していた。木刀の血痕は完全に拭《ふ》き取れていたと胸を張って言える? 内側《うちがわ》に付着していない自信は満々か? 犬の毛や猫《ねこ》の毛や義人の肉片が袋の底に溜《た》まっていないよう、鞄手入れ済みか?」  上《のぼ》り調子《ちょうし》に問い詰《つ》める。すると、「おー」と、枇杷島が小さく単純な感嘆《かんたん》の表現。 「何だかそれっぽく納得《なっとく》しかけました。不思議ですね」 「ふぉふぉふぉ、これでも用水路と呼ばれておる」  意味不明なうえに嘘《うそ》なんだけど。仮に痕跡《こんせき》があったとしても、他《ほか》の生物の血液も混じってるだろうから、判別出来まい。提出する証拠《しょうこ》品や証言は大抵虚偽《たいていきょぎ》まみれ。それが、僕なのである。 「ちなみに竹刀袋《しないぶくろ》を検査する為《ため》のルートも確保してある」と圧力をかけてみる。  奈月《なつき》さんを利用ばかりするのは気が引けるなぁ。嘘ですけど。 「へー」と枇杷島《びわしま》。今度の発言には淡泊《たんぱく》な反応だった。  周囲に目線を一っ走《ひとぱし》りさせ、待ち人の姿を探る。一宮《いちみや》はまだ影《かげ》と形を勿体《もったい》ぶり、予兆《よちょう》さえ見受けられない。このまま帰宅されていたら、僕と枇杷島は凍死《とうし》で道連れである。他《ほか》の余分な人影《ひとかげ》がないのは歓迎《かんげい》すべき事柄《ここがら》なのだが。 「ところでさ、枇杷島」 「嫌《いや》です違《ちが》います黙秘《もくひ》します。これだけ言えばどれか該当《がいとう》するでしょ」 「宗田義人《そうだよしひと》のどこが好きだった?」  枇杷島の不機嫌《ふきげん》めいた眉根が「は?」という予想の範疇《はんい》を越えた形状を象《かたど》る。ついでに頬《ほお》や唇《くちびる》も固形物から溶解《ようかい》したように杜撰《ずさん》な歪《ゆが》みを覚える。 「鞄《かばん》と、後はハンカチを持って帰って保存するほど好ましかったんだろ?」  あんな物を持って帰る利益など感情面にしか存在しない。  発見されれば、  立派な犯罪立証の品となるような遺物を持ち去るという損害を上回るというなら、そこには心の価値しかない。  僕の髪《かみ》の毛《け》を収集するマユのように。 「いやいや、いやいやいや。あり得ないですって」と躍起《やっき》になって否定する。 「生憎《あいにく》と、証拠はもう一つ挙がってる。一宮から聴取《ちょうしゅ》済みだ」嘘だけど。  僕の嘘を見破ったのか、狸《たぬき》の尻尾《しっぽ》を掴《つか》んだ如《ごと》く笑う枇杷島。 「そんなわけないじゃないですか。河名《かわな》からそんなこと聞けるはずない」 「だろうね。けど枇杷島、その否定は逆説として肯定《こうてい》もしてるよな。河名から聞けない、つまりネタ自体は存在するってことだ」  お、枇杷島の喉《のど》が詰《つ》まった。僕との会話で、初めて攻撃《こうげき》の効果が表に出たな。 「認めなくてもいいけど、お前の部屋を捜索《そうさく》したら、間違いなく鞄とかが発見されるよ。捜査を頑張《がんば》ってくれる素敵《すてき》なおねえさんも知り合いにいるしね」と力強く、根拠なく言い切った。  仮に別の理由で奪取《だっしゅ》したとしても、鞄自体が見つかった時点でお縄《なわ》だ。 「どうだね」「知りませんよ」とメンチ切りながら羞恥心《しゅうちしん》に苛《さいな》まれる枇杷島。  犯人はさておき、恋慕《れんぼ》の情を証明はしてやった。意味ないけど。 「その枇杷島が犯人としたら、どんな理由で義人を殺す?」 「……何です、それ」 「単なる遊びだよ」一宮が全く姿を現さないからな。  枇杷島《びわしま》は、特に反応を見せない。眼球を僕に向けきったままだ。 「最後ぐらい、枇杷島と仲を深める努力をしてみようと思ってね」  化けて出られると困るし。嘘《うそ》だけど。 「それは無理です」と否定しながら、眼球が垂れ下がる枇杷島。口がもごつき、唾《つば》を吐《は》き捨てながら囁《ささや》く。 「これ話したら、おうち帰っていいですか?」「検討《けんとう》しよう」嘘だけど。  枇杷島も無理だと承知《しょうち》のうえで、どんな決意かはさておき口を開く。 「宗田《そうだ》君を殺す理由……私なら世界を綺麗《きれい》にする為《ため》、ですね」 「……それだけ?」 「これ以上何が必要なんです?」 「……いやあなた、好きっぽさはどうしましたか」 「だからこそですよ」 「………………………………………」星は何処《どこ》にも瞬《またた》いていなかった。風が木々を駆《か》け抜《ぬ》け、ざわつかせることもない。無風に近い春の闇《やみ》に浸《ひた》る僕らは、寒気に紛《まぎ》れながら緩慢《かんまん》に、夜の中へ溶《と》け込んでいくように「別にせんぱいの共感を得ようとは思ってません」 「あら、そう」そりゃあ、君にしか聞こえない電波を垂《た》れ流されても、受信出来ないからな。 「宗田君は汚《よご》れてますからね」 「……汚れ?」 「私以外には意味のない価値観でしょうけど」  理解を拒絶《きょぜつ》するように付け足す枇杷島。僕はそれに逆らって意見してみた。 「汚れてるだけなら破棄《はき》せずに、洗い落とせば良かったんじゃないのか?」 「何で私がそんなに手間暇《てまひま》かけないと駄目《だめ》なんですか」  僕が泣く泣く夜中に、同級生を背後から押さえつけなくて済むから。嘘だけど。 「せんぱい。去年の修学旅行に参加しなかった人数をご存じですか?」  唐突《とうとつ》に、修学旅行へ話の矛先《ほこさき》が向けられる。北九州を巡《めぐ》る旅、三泊四日《さんぱくよっか》の行事に。 「二人、かな」僕とマユで。一心同体だから一人でしたという引っかけ問題かも。嘘だけど。 「不正解、三人です。せんぱいに、御園先輩《みそのせんぱい》。それと、私も不参加です」  今日の会話の中で一番楽しげに、過去を語る枇杷島。 「家の都合とかで、或《ある》いは風邪《かぜ》?」 「怖《こわ》いからです」  自信に満ち溢《あふ》れた一言だった。主語のない宣言。  そして続く枇杷島の明答は、僕には度《ど》し難《がた》かった。 「私、世界が広いなんて信じられないんですよ。子供の時からずっとそうでした。この街だけが、私にとって世界中なんです」 「……ふぅん」「分かってないのに納得《なっとく》するふりは止《や》めてください」  鋭《するど》い指摘《してき》が入る。僕の不誠実な口を閉じさせてから、語りが再開する。 「電車に乗ったこともないし、飛行機なんか以《もっ》ての外《ほか》です。海だって生で見る気はないし、テレビや新聞も私にとってはインチキなんです。こんな私が英会話なんか習ったって、本当に使い道ないんですよ」  饒舌《じょうぜつ》な枇杷島《びわしま》。拝聴《はいちょう》する僕の態度を、流し目で確認《かくにん》する。 「少しは分かります?」「さっぱりです」「でしょうね」と無味無臭《むみむしゅう》なやり取り。 「この街は小さな世界だから、私の手でも掃除《そうじ》が行き届くんじゃないかって。私ならそういう動機にするかもってことです」 「なるほど」「だからですね、そう安易に」「動機があるということに納得《なっとく》しただけだよ」  先回りして、枇杷島の怒《いか》りを遮《さえぎ》った。うむ、見事に悔《くや》しそうな表情の範囲《はんい》で留《とど》まった。 「で、義人《よしひと》君は何処《どこ》らへんが汚《よご》れた人間なのだろう」 「頭が破裂《はれつ》してもせんぱいには言いません」 「ほお」普通《ふつう》、口が裂《さ》けてもと言いそうなのに。一層、拒否《きょひ》されてるのかな。 「せんぱいの死体にならお喋《しゃべ》りしてもいいんですけど」 「遠慮《えんりょ》しておくよ」朗《ほが》らかに言われてもねぇ。  まあ、そこは大した問題じゃないし。  動機に、枇杷島の唇《くちびる》を無理矢理割って聞き出すほどの興味はない。  証拠《しょうこ》が警察に確保されれば、妹の容疑は外れるだろうし。  今の暮らしが気に入っているならそれが崩壊《ほうかい》しないよう、ささやかに援助《えんじょ》する。  一度くらいは、あにーちゃんらしいとこを誇示《こじ》しないと。嘘《うそ》だけどさぁ。 「しかし、世界ねぇ……」  今の僕にとっては、広くて汚《きたな》い場所だな。  周囲を見渡《わた》す。一宮《いちみや》はまだ訪《おとず》れない。早く修行《しゅぎょう》から帰ってきてくれ。  実際には五分ほど経過しているかも微妙《びみょう》なのだろうが、時の緩《ゆる》まりを錯覚《さっかく》してしまう。 「なあ、枇杷島」 「何です?」 「僕は一時期、精神病院に入院してたことがあるんだ」  遊びに出かけていた枇杷島の目線が帰宅した。怪訝《けげん》を手土産《てみやげ》に。 「一ヶ月半ぐらい、生活してたかな。そこには色んな人がいた。一日中窓に張り付いて、何かを目で追っている人もいたし、子供だった僕に、毎回タバコをねだる爺《じい》さんもいた。手癖《てくせ》が悪くて、ベッドに縛《しば》り付けられてた人も、一度だけ見かけたよ」  同年代の子は、一日で退院してしまった。話しかけてきた僕に『誰《だれ》ですか?』と一言残して。  枇杷島が、「何の話です?」とロ頭で尋《たず》ねてきた。が、僕は現国の成績が3なので、質問に質問で返してしまう。 「希望の有無《うむ》はさておき、病院に入院する目的は何だと思う?」 「さあ? 関《かか》わったことないから見当つきません」 「世界を保つ為《ため》だよ」  思春期女子高生は、世界という言葉に耳を反応させた。ぴくぴくと蠢《うごめ》いている。 「鬱病《うつびょう》に苛《さいな》まれて、突発的な自殺がし辛《づら》い環境《かんきょう》を求めてとか、周囲の差別と偏見《へんけん》に潰《つぶ》されてとか、家族や友人の心配する態度に耐《た》えられなくてとか、理由は千差万別だけど、結局は現状を悪化させない為に、入院する人が多い」  聞き入っているのか聞き流しているのか、耳の震《ふる》えも止まる。続けた。 「実際問題、閉鎖《へいさ》された環境で幾《いく》ら過ごそうとも、社会復帰する為の回復は困難だ。病院には、攻撃《こうげき》してくる人間が少ないからな。その環境に適応してコミューケーションが潤滑《じゅんかつ》になっても、実社会に出る能力が身に付いたわけじゃないんだ。だから、退院して暫《しばら》くすると、再入院する人も多い。時間が治せるのは心の傷であって、ズレじゃない証拠《しょうこ》だ」  そしてそのズレは、治癒《ちゆ》した傷の再発を促《うなが》す。悪循環《あくじゅんかん》ではある。 「世界を変えて生きたいなら、症状《しょうじょう》が極《きわ》まればいい。事実、それに至った人だって少しはいた」マユとかね。「でも、全《すべ》てを手放して変化することに、恐《おそ》れを抱《いだ》く人間もあそこに大勢いた。問題をコントロールしながら生きる術《すべ》を求める人は、いたけどね」  つまり、問題そのものを取り除くことは無理だということ。  一度|齟齬《そご》の起きた世界を改めることは、不可能なんだ。 「僕もあの人達と同じだ。世界に合わせる気はあっても、世界を変えたいとまでは思わない」  何故《なぜ》なら、マユとちゅーしたり出来ないからだ。嘘《うそ》かなあ。  一旦《いったん》、話を中断する。考え中の枇杷島《びわしま》に対する拘束《こうそく》を緩《ゆる》めないよう気を配りながら、休憩《きゅうけい》を取る。三度、一宮《いちみや》を求めて視界が奔走《ほんそう》する。何やってるんだあいつは車にでも轢《ひ》かれてないか、などとこのままではこっちが要《い》らぬ心配をして胃を痛めてしまう。そこまでは嘘だが、実際、こっちの気持ちも知らないとのんびりしやがって。一宮が来てからは、嘘をつかずに説明するという、僕にとって大仕事があるというのに。人の気持ちを考えなさいよ、と中学生の頃《ころ》に罵倒《ばとう》された記憶《きおく》まで甦《よみがえ》ってしまった。いやいや落ち着け、奥歯の苦みは忘れて、景色《けしき》を楽しもう。空を、隙《すき》だらけに見上げた。  空では薄雲が、覆い隠したはずの月の色に染まっていた。それに目を惹かれ、月が雲から逃《のが》れるまで鑑賞《かんしょう》し続けていた。月光が目に宿り出した頃合《ころあ》いで、枇杷島を見下ろす。  ややあって枇杷島が、舌で舐《な》めて唾液《だえき》に濡《ぬ》れた唇《くちびる》を開いた。 「せんぱいは私に、何が言いたいんですか?」 「世界を変えると意気込んで人殺しにさえ手を染める枇杷島みたいなのが、本当の異端《いたん》だってこと。そして僕はそんな枇杷島に、ある程度は敬意を抱《いだ》いている。単独で宗教に走らないままそうそう出来ることじゃないからな、そんな理由で人を殺すなんて。確かにお前から見れば、向上心のない奴《やつ》が世の中には大勢いるだうね」  人を殺すのが癖《くせ》になってしまった奴とか。  望んでいないのに事故で人を殺してしまった子とか。  生きる為《ため》に両親を殺した人とか。  恒常心《こうじょうしん》ならあるんだけどね、大抵《たいてい》。 「枇杷島《びわしま》」 「……はい」 「仮にお前が手を下していなかったとしても、汚《よご》れ者《もの》の義人《よしひと》が死んで、消え去って。お前の世界は少しでも変わった?」  枇杷島は唇《くちびる》を噛《か》み、返答しなかった。どうやらまだ、目に見える変化はなかったらしい。無念だろうな、正《まさ》にこれからなのに。けど、義人も同じ思いを死の間際《まぎわ》に感じたろうから、仲良くおあいこということで。 「枇杷島の世界は、自分以外のほとんどの人間が死なないと変化を実感出来ないだろうな」  過疎地《かそち》かゴーストタウンまで行けば、寂《さび》れたことだけは実感するだろう。 「それは……このうえなく、荒涼《こうりょう》としてますね」  枇杷島が、計画の無鉄砲《むてっぽう》さについ弱音を吐《は》く。心なしか目が白黒し、動転しているご様子。 「だうね。ああそれとだ、根底から覆《くつがえ》すようで恐縮《きょうしゅく》だが枇杷島の世界は十分広い。世の中には自分と相手しか認識《にんしき》しない世界で生きる、美少女にして美女で素敵《ずてき》な女の子とかいたり。上には上がいるのだよ」誰《だれ》とは言わないが。  さて、言論に疲弊《ひへい》した枇杷島である。心なしか、眠《ねむ》たげに目を細めている。  これなら、一宮《いちみや》が手を下す際にも暴れず騒《さわ》がず、迅速《じんそく》な処理が期待出来そうだ。  などという僕の見解を容易《たやす》く覆して、枇杷島が、ぽつりと呟《つぶや》いた。 「せんぱいって、小学生とか苛《いじ》めたりしてます?」 「……おい美化委員、お前は現代の浦島太郎《うらしまたろう》でも兼任《けんにん》してるのか?」  何だその路線|変更《へんこう》は。そして当たらずも遠からず。浩太《こうた》君や杏子《あんず》ちゃんを監禁《かんきん》するの手伝ってみたり、一樹《いつき》を軽く言葉で追いつめてみたりしてきた我が過去あり。 「いえ、一つ違《ちが》いとはいえ同級生に目上の視線から説教されて大変ご立腹なので、少し困らせてやろうと」 「ふむ、好きな子に意地悪したくなる幼年期の症状《しょうじょう》かね」「死ねばいいんじゃないですか」  明らかに疑問符《ぎもんふ》がなく、推奨《すいしょう》されてしまった。  あくまでも僕との壁《かべ》を薄《うす》めようとはしない枇杷島。是非《ぜひ》、最後まで維持《いじ》してほしい。 「せんぱいを困らせて、あわよくばこの拘束《こうそく》を解いてくれるのではと期待出来る話があるんですよ。お説教のお礼に聞かせてあげます」  完全に自分の為《ため》を考慮《こうりょ》して、枇杷島《びわしま》が語り出す。 「一週間ぐらい前に一宮《いちみや》と街を回った帰りなんですけどね、私が知ってる野良猫《のらねこ》の溜《た》まり場《ば》にそいつがいたんです」  そこで枇杷島は勿体《もったい》ぶり、間を取る。そして、 「一|匹《ぴき》の猫を解体してる小学生がいたんですよ」  おい、それは僕の妹だ。小学生という単語が一層の確信を招いてしまうではないか。 「その子が宗田《そうだ》君や、犬猫を殺した犯人かも知れませんね? 目つき悪かったし」  しれっと言い放つ枇杷島。 「義人《よしひと》以前の動物を殺戮《さつりく》した犯人もお前だろ」枇杷島は鼻歌で耳の穴を塞《ふさ》いだ。  少なくとも妹が犯人でないことは、確信している。  何せ、死骸《しがい》が丸々と現場に残されているなんて、妹の動機からすればあり得ない。あいつなら、食用の部位を搾取《さくしゅ》して持ち帰るに決まってるのだから。だから逆説として、義人の死後に発生した二件の犬猫解体は、妹が犯人なのだろう。枇杷島に触発《しょくはつ》されて、昔の血が疼《うず》いたと予想する。過保護に育てられたから辛抱《しんぼう》出来ない子に育って、と偏向《へんこう》した性格を嘆《なげ》く。嘘《うそ》だけど。  二月十四日の夜の外出も、獲物《えもの》を探し求めて、といったところか。だからナイフを所持し、バットで武装して久方ぶりのお出かけとなったわけだ。 「実は私、理由は明かせませんがその小学生を捜《さが》し求めていたんですよ」 「……義人を殺害する現場でも目撃《もくげき》されたのか?」 「あっはっは」と表情筋を微動《びどう》だにせず、声だけ笑う枇杷島。  あくまで犯人であることを認めない奴《やつ》だな。  ……枇杷島と妹が二月十四日に何を行い、そして出会ったのか。  正直なところ、両者の口を強引に割らせないことには推測《すいそく》の域を出ない。ただ、ある程度の正解は導き出せていると思う。  枇杷島は、誰《だれ》かに殺害現場を目撃されたのではないだろうか。それまでの動物の殺害傾向《けいこう》からすると、義人の死体は、下半身への損壊《そんかい》処理が不完全だった。それは作業を中断し、その場を離《はな》れなければならないという事情が発生したことを意味するのではないか。  そしてその目撃者が、僕の妹だったのだと推測する。そうでなければ枇杷島は既《すで》に通報されているはずだ。殺人を目撃して尚《なお》通報しないという条件を満たすのは、バレンタインデーの夜に服を血だらけに染めてナイフとバットを所持して現場付近から遁走《とんそう》したあいつが、もっとも可能性が高い、何せあいつは恐《おそ》らく、義人の内臓を火事場泥棒《かじばどろぼう》していったはずだから。妹が枇杷島たちから逃亡《とうぼう》して、暫《しばら》くした後に死体の下《もと》へ戻《もど》り入手したのか、その経緯については僕には知りようがないけれど。または、枇杷島が目撃者を追いかけて殺害し、現場へ戻ることも出来ずにそのまま逃亡した可能性もある。ただ、二月、三月と街で殺害された人間は宗田義人だけで、行方不明者もいない。そんなのが一人でも出れば、報道関係が飛びついてくるし。  そして枇杷島《びわしま》は、一宮《いちみや》に付き添《そ》うふりをして深夜の街を巡《めぐ》り、妹という目撃者|捜《さが》しを行っていたのではないか。僕は、そう考えている。  妹の衣服の血液は、作業中に付着した義人《よしひと》の体液だったのだろう。義人の腹をナイフでかっさばき、お目当ての小腸を引きずり出す作業の。人間の味見なんて、滅多《めった》に機会が巡ってこないだろうからな。妹は殺人はしたことないのに、人間、恐《おそ》らく義人の小腸を所持していたのは、そういうわけだ。 「で、意気揚々《いきようよう》と声をかけてみたんですが」嘘《うそ》つけ、殺す気満々だったくせに。  それとも、今まで通報されなかった経緯に興味を持っていたのか。 「これが意外にも、作業の手を休めて返事してくれましてね。そして私に取引を持ちかけてきました。小学生のお遊びに付き合ってあげようと、私はそれを受け入れたわけです」 「相手はお前の犯行を口外しない代わりに何か条件を出してきたのか?」 「せんぱいの日本語は暗号がかかってますね、私にはとても理解できません」  日本語と聞き取りが出来て、返事をしているようだがな。 「その小学生が要求してきたのは八年前、この街で起きた誘拐《ゆうかい》事件の詳細《しょうさい》を可能な範囲《はんい》で説明することでした」  鼓膜《こまく》から、三半規管《さんはんきかん》へ伝導する衝撃《しょうげき》。右目が額まで位置|変更《へんこう》したような、継続《けいぞく》する歪《ゆが》みに慕《した》われ、蹂躙《じゅうりん》される。 「よく分からないけど、人付き合いがないとかどうとかで他《ほか》の人に聞けないとか」  生粋《きっすい》の引き籠《こ》もりだからな、本来は墓の下が正しい寝床《ねどこ》だし。 「私は八年前、興味があって監禁《かんきん》事件のこと調べましたからね。子供の手の届く範囲だから大した情報は入ってこなかったけど、被害者《ひがいしゃ》のうち、保護された三人のことは既知《きち》ですよ」  そこで、僕を久々に見上げる枇杷島。  まあ被害者を知らなければ、僕やマユを先輩《せんぱい》呼ばわりするはずないからな。 「そんなことを今更《いまさら》聞きたがる理由はさておき、私は子供好きの保育士さんまでついでに好きになってしまうぐらいの子供好きですからね。事件について調べたことだけ話してあげたんです。生存者のことを、鼻息|荒《あら》くして一番詳《くわ》しく聞きたがってましたよ」 「ふぅん……」 「恨《うら》み節《ぶし》っていうんですか? 殺してやるって感じがひしひし伝わってきましたよ」 「枇杷島も義人を殺してるから、相通ずるものを汲《く》み取れるわけだな」 「せんぱい、心当たりは?」稲沢《いなざわ》ばりの爽《さわ》やかさで無視してきた。 「検索《けんさく》中。た行までには該当《がいとう》するのがなかったな」  事件の生存者を知りたがるということは恐らく、母親絡《がら》みか。  復讐《ふくしゅう》するつもりなら、死者ではなく生者に目を向けるのが現実的だ。  それが盲信《もうしん》であれ偽《いつわ》りであれ、手応《てごた》えは重要なのだから。  だから生存者である僕の命を狙《ねら》い討《う》とうと付け回し、母親について探りを入れ、バット振《ふ》り回して頑張《がんば》ってたわけか。  ……ん? 生存者は、三人いたよな。  待て、そうすると、いやまさか、マユも?  あいつは僕に包丁を向けて、結局は取り止《や》めた。だけどそれなら、僕を疑って、  いやでも、金属バットの切っ先が向いていたのは、マユだった。  ……『邪魔《じゃま》』って、まさか、僕が思《おも》い違《ちが》いをしていたとか、 「生存者の二人は同棲してるって教えたら、色々悩んでましたから……あれですね、住所を尋ねてきたことも含《ふく》めて考えれば、どちらかが外出したのを見計らって、もう一方がいる自宅を狙《ねら》うつもりとか。あ、そういえば今日はせんぱい、外出されてますね」  軽妙《けいみょう》な枇杷島《びわしま》の声に合わせて、眉間《みけん》に何かが差し込まれていく。  身震《みぶる》いして、枇杷島の手を無意識に緩《ゆる》め。  最後に、駄目押《だめお》しされた。 「今日あたり良い機会だし、御園先輩《みそのせんぽい》から殺すつもりとか?」  頭がねじ切れたと本気で錯覚《さっかく》し、それに納得《なっとく》しながら反転して、飛び跳《は》ねた。  走り出した。枇杷島を放置して、駆《か》け出した。自身の息の荒《あら》さで窒息死《ちっそくし》しそうなほど激しく、呼吸を乱しながら。 「ちょっとせんぱい、本当に助かるとは思ってなかったんですけど!」「一生懸命《いっしょうけんめい》死ね!」  同級生のことなど知ったことか!  けど一応、通報、通報! うわ、電話落としかけた! 「あ、奈月《なつき》さん! 今は冗談抜《じょうだんぬ》きで! 枇杷島|八事《やごと》! それが義人《よしひと》を殺害した犯人です! 今は公民館、義人が死んだ近所のそうです、そこら辺りにいますからまだ捕《つか》まえられるかも! 逃《に》げてもすぐ身柄《みがら》は確保できますから! あ、竹刀袋《しないぶくろ》の血痕《けっこん》とそいつの部屋を調べてみて下さい! よろしく!」  切る! そのまま握《にぎ》る! 走る! 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  走らなきゃ! はっしらなきゃ!  どうでもよくないよ! この間、あれは完壁《かんぺき》な遂行《すいこう》の為《ため》の下見だったのか! にもうとめ!  あーもう!  肺のサービス残業に眼球の給料|未払《みはら》い、筋肉の過重に右足の鈍痛《どんつう》!  取《と》り敢《あ》えず右足は死んどけ! 痛みが欝陶《うっとう》しい!  短時間に生きすぎなんだよ! もう少し死なせとけ!  マンションに辿《たど》り着く頃《ころ》には、膝《ひざ》が笑って、息切れも限界で笑っているように過呼吸に陥《おちい》っていた。暴走気味の精神も疲弊《ひへい》で落ち着いたというか、汗《あせ》と熱気に苛《さいな》まれて半死半生《はんしはんしょう》だった。冷静になれば枇杷島《びわしま》に騙《だま》された可能性も高い。確証なく暴走してしまった。携帯《けいたい》電話もいつの間にかなくしたし。とにかくエレベーターで三階へ上がり、右足を引きずりながらマユの部屋へ現状の精一杯《せいいっぱい》で急ぐ。「うわ……」マユの部屋のドアは鍵が破壊《はかい》され、チェーンも切断されていた。侵入《しんにゅう》が確定してるじゃねえか。扉《とびら》を蹴《け》り飛ばした反動で開け、土足で駆け込む。マユと妹がいるとすれば、寝室《しんしつ》か。「マユ!」叫《さけ》んで縋《すが》りながら寝室に飛び込むと、 「………………………………………」  次は何を叫べばいいか、戸惑《とまど》う光景が広がっていた。咳《せ》き込む。汗《あせ》が鼻筋を滴《したた》る。  窓際《まとぎわ》の妹と、ベッド付近のマユが対峙《たいじ》していた。  血を滴らせるナイフを前屈《まえかが》みに構える妹と、寝間着《ねまき》を貫通《かんつう》して、鮮血《せんけつ》トンネルと小規模|噴水《ふんすい》が派手に開通した右|腕《うで》をだらりと垂《た》れ下げたマユが睨《にら》み合い、拮抗《きっこう》している。  外敵か、或《ある》いは同族同士が嫌悪《けんお》するかのような、敵愾心《てきがいしん》を募《つの》らせた視線で射|抜《ぬ》き合う両者。  そこに水を差したのが、僕だった。 「あ、みーくん」  マユが場違《ばちが》いに緩《ゆら》やかに、僕を振《ふ》り返る。  僕は、正直言って何も迷わずマユに駆《か》け寄った。  マユの正面に回り、庇《かば》うようにしながら抱《だ》き支える。右腕以外には刃物傷《はものきず》がないことに僅かな安堵《あんど》を覚え、それでも、瞼《まぶた》の裏に赤光が滲《にじ》んだ。  マユは痛がるそぶりもない。ただ緩慢《かんまん》に、血液に塗《ぬ》りたくられた右腕を眼前に晒《さら》す。  その鮮明《せんめい》な傷は、マユが言いつけを守り通した証《あかし》。  妹に刃物傷が見当たらないことも、それを後押しする。  人である限り、持ち得ることが前提となる躊躇《ためら》いがないから、  対等条件でマユがナイフを駆使《くし》すれば、無傷で妹を殺害することなんてあまりに容易《たやす》くて。  なのに、マユは床《ゆか》はベッドのシーツは流血に染まって、  だから、  それは幼稚園《ようちえん》で作った、工作の品を親に自慢《じまん》するように。  マユは誇《ほこ》りと期待に満ちた表情だった。 「わたし、約束守ってるよ」 「うん……うん」  何でこんな時にそういう台詞《せりふ》を、使うかな。 「どいて! 邪魔《じゃま》!」  背後から怒鳴《どな》り散らされる。僕は振《ふ》り向きながら、咄嵯《とっさ》に足を突《つ》き出していた。  それが丁度、突進してきていた妹の胸部に激突し、良い塩梅《あんばい》な迎撃になってしまった。  妹は驚愕《きょうがく》の瞳《ひとみ》で、ナイフを宙に彷徨《さまよ》わせながら派手に尻餅《しりもち》を付き、再度、窓際《まどぎわ》まで滑《すべ》っていく。  妹を足蹴《あしげ》にしたのは、初体験だった。  骨に足の裏が衝撃《しょうげき》を与《あた》えた感覚が、生々しく尾を引く。けど、数歩下がって距離《きょり》を置いた。  激しく咳《せ》き込みながら、敵愾心《てきがいしん》だけは剥《む》き出しの瞳《ひとみ》で証明し続ける妹。  顔面はマユに殴打《おうだ》されたのか、右側《がわ》が腫《は》れ、頬《ほお》の盛り上がりに眼球が役割を邪魔されつつある。  菅原《すがわら》になくて、こいつとの対峙《たいじ》にあるもの。  ちっぽけな罪悪感、彼女の母親への多大な恩義、僅《わず》かな後ろめたさ。  小心の震《ふる》え。 「勘違《かんちが》いも程々《ほどほど》にしとけよ、いい加減な噂《うわさ》に踊《おど》らされて。いいか、お前の母親を殺したのは僕なんだよ! 僕が生きる為《ため》に死んでもらったんだ、マユは関係ない!」  手元の武器が柔《やわ》らかめの枕《まくら》ぐらいしかなかったので、僕らしく嘘《うそ》で代用した。 「嘘つくな!」  即座《そくざ》に手短に切り返してくる。窓に手を突きながら立ち上がり、また噎《む》せる。  銀色の刃《やいば》を正面に構えながら、妹は弱々しく顎《あご》を上げた。  涙目《なみだめ》を、こさえて。 「お兄ちゃんは、そんなこと、しない」  こっちの脳をねじ切る心算があるとしか思えない台詞を吐《は》き出してきた。  ……今更《いまさら》、そう来るか。  けど、それは既《すで》に杏子《あんず》ちゃんとの交流で、手垢《てあか》だらけの体験となっている。  そんな風に呼ばれても感慨《かんがい》のないこと、分かってるんだ。  しかし何とも僕らに相応《ふさわ》しい、最低な使われ方をしたものだ。  ここで良質の思い出の一つでも語れば効果的なんだが、生憎《あいにく》と生傷《なまきず》の交流しか重ねてこなかったんだよな。 「そうだよそうだよ、そうだよあんた、あたしのお兄ちゃんなのになんで、そっちにいるの他人を庇《かば》ってるの? 頭おかしいんじゃないの? そうよおかしいよあんたの家族はみんなそうじゃない! あたしを寄って集《たか》って苛《いじ》めて! あんたは何にもしてくれないし、お母さんだって! お母さんだって嫌《きら》いもう嫌い! あんたも! 一回ぐらいは助けてくれてもいいじゃない! あんたなんかお兄ちゃんじゃない! 出来|損《そこ》ないが! 死んじゃえ、死んじゃえよぉ!」  窓硝子《まどがらす》を素手《すで》で叩《たた》き、喚《わめ》き散らす妹。混乱の浸透《しんとう》率が極《きわ》まっているのか、自らの唯一《ゆいいつ》の家族である母親さえ否定し、狂騒《きょうそう》に直向《ひたむ》きの姿勢を崩《くず》さない。  呼ばれてから十秒で兄であることを否定されるとは。  確かに僕はどうして、凶器《きょうき》を持つ妹と対峙《たいじ》しているのか。傍《かたわ》らにいられないのか。  マユは約束を守っているから。  お前はまだ、鼻血しか流れていないから。  それもあるだろうけど、決め手は何なのだろう。納得《なっとく》も合点《がてん》も得心もしない。  嘘《うそ》、だけど。 「あんたあたしのお兄ちゃんでしょ! 何で助けてくれないの? そいつを殺してよ! お母さんを殺した奴《やつ》! 早くーはーやーくー!」  駄々《だだ》っ子《こ》が地団駄《じだんだ》を踏《ふ》み、泣き喚く。自暴自棄《じぼうじき》に催促《さいそく》する。焚《た》き付ける。  兄だから。兄妹《きょうだい》だから、助ける。  自身の母が掲《かか》げた、自己|犠牲《ぎせい》の原理を振《ふ》りかざして。  でも、それを強制されたところでどうしようもない。  僕は、お前の母親みたいな人間にはなれないんだ。  早く人間になりたい奴より、遠い人として生きてるんだから。  ……恩義はある。トラウマになるほど、目一杯《めいっぱい》。  けどお前と、お前の母親は血も、非科学に魂《たましい》や心さえ継《つ》がれていたとしても、別人だ。  恩情は、与《あた》えてくれた者に報《むく》いる。  相手が他者への返礼を自らの糧《かて》としない限りは。そして、死人には口なしだ。 「何言ってるの? みーくんには妹なんかいないよ」  話を拝聴《はいちょう》していたマユは、彼女だけの矛盾《むじゅん》を異議ありと指摘《してき》する。 「みーくん? うるさい気狂《きちが》い! 平気な顔して人を殺しといて何もなかったみたいに生きて! あんたは、みんな疎《うと》ましがってるただの犯罪者だ!」  先程《さきほど》から、憶測《おくそく》にしては随分《ずいぶん》と正解してるじゃないか。  それはまあ、何というか、とても正しく、とても間違っていて。  マユは確かに殺人者だ。僕の、お前の、自分の両親をその手で亡《な》くした。  けれど誰《だれ》もそれを証明出来ず、罪と認識《にんしき》できないなら、マユにはそんなもの何処にもなくて、お咎《とが》めも、後悔《こうかい》もなく生きていくことだって吝《やぶさ》かじゃない。  そこはもう、許す、許されるの領域から逸脱《いつだつ》した人生を歩んでいる。  だから、そんな価値観を後生《ごしょう》大事に抱《かか》えて、けたけた笑って生きることも出来ない人間は、 「少なくとも、みんなの中に僕は入れるなよ」  拒絶《きょぜつ》するにしても、それが目|一杯《いっぱい》だった。  妹の顔と心の何かが、痛烈《つうれつ》に歪《ゆが》む。  マユはそんな妹を冷徹《れいてつ》な目線で見下ろし、小馬鹿《こばか》にしたように鼻を小さく鳴らした。  中指を伝って垂《た》れる血液が、激しい既視《きし》感を僕に視聴《しちょう》させる。  いちめんの、したいを。 「嘘《うそ》つきが何か言ってる」  妹を見限り、マユの赤々しい手の平が、僕の頬《ほお》を撫《な》でた。さらりと優《やさ》しい、血の感触《かんしょく》。血《ち》まみれまーちゃんの小さな手。 「あいつは嘘つきだし、みーくんも。さっき嘘ついたでしょ」 「っ、えっ?」  寸断、来訪する赤い困惑《こんわく》。  何で、マユがそれを、記憶《きおく》の有無《うむ》を、あり得ない。 「みーくんが人殺しなんかするわけない」 「えっ、あっ」 「だから悪いのはそいつ」  マユが僕の腕の中からすり抜け、妹に突進する。速歩で、白刃《はくじん》に直進。超然《ちょうぜん》とした足取りで、四歩で妹のナイフに腹部が触《ふ》れ合った。そこまで接近し、妹が突《っ》き刺《さ》すよりも速く、左の握《にぎ》り拳《こぶし》を頬に叩《たた》き付けた。その衝撃《しょうげき》に膝《ひざ》を崩《くず》しながら、左|側《がわ》へ傾《かたむ》く妹。けれど持ち直し、泡《あわ》を吹《ふ》きながら両手で刃《やいば》を突《つ》き出してくる。  マユはそれを、人差し指の腹で弾《はじ》いた。  ナイフの先端《せんたん》が触れて肌に刺し込まれた瞬間《しゅんかん》、人差し指が少量の鮮血と身肉を残滓《ざんし》させながらはね除《の》ける。失敗すれば首を空洞《くうどう》にしかねない状況《じょうきょう》で、いとも容易《たやす》く実行に踏《ふ》み切る。  方向を強制的に変更《へんこう》され、つんのめる妹に足払いをかけて床へ倒し、腕を捻ってナイフを奪取《だっしゅ》するマユ。約束通り、刺殺《しさつ》するという行為《こうい》には走らず、  マユは僕を一瞥《いちべつ》してから、思い立ったようにナイフを床に捨ててしまった。 「なに、を」  マユは妹への拘束《こうそく》を外して立ち上がり、右手の平を突き出し、角度を調整して下に構える。  体勢を復帰した妹が武器を拾い上げ、バネ仕掛《じか》けの玩具《がんぐ》のように下からマユを突き上げる。  マユはナイフを回避《かいひ》することもなく、用意してあった右手の平で刺し止めた。手の甲《こう》の中心より気持ち上部に生える、育たない銀の芽。その躊躇《ためら》いのなさに、妹の頬が分かり辛《づら》く引きつる。マユは右手を引き戻《もど》し、凶器《きょうき》を奪取《だっしゅ》してから妹の腹を蹴《け》り倒した。そして、踏み潰《つぶ》す。マユには刃物《はもの》という決め手がないから。だから、あんなにも、傷だらけになりながら、  首を、鳩尾《みぞおち》を、顔面を。鼻を、目玉を、舌を。  妹は身を捩《よじ》って幼稚《ようち》な防衛に徹《てっ》するのが精一杯で、悲鳴と咳《せ》き込みに逃避《とうひ》する暇《ひま》もない。  僕が妹にされた、拙《つたな》いじゃれ合いとは根本的に差異のある行為《こうい》。  そうやって、『僕』を内心に認識《にんしき》することで、ようやく困惑《こんわく》を振《ふ》り捨てる。  駆《か》け寄り、マユを止めにかかった。背後から左手首を掴《つか》み、振り向かせる。  僕を振り返りながら尚《なお》、マユは妹を踏《ふ》み潰《つぶ》している。 「こんなことしてないで、病院に早く行かないと」 「まだ駄目《だめ》」  マユが素早《すばや》く頭を振る。その表情は陰《かげ》らず、愉悦《ゆえつ》もなく。  あの夜の、菅原《すがわら》みたいに冷淡《れいたん》だった。  右手の刃《やいば》を強く引き抜き、血を拭《ふ》き取りもせず今度はパジャマに仕舞《しま》い込む。 「こいつを死んじゃわせないと」 「なっ、ちょっと」ねえよそんな日本語。 「だからみーくんはそっちで大人しくしてればいいの」  マユが僕を振り解《ほど》き、右手で突《つ》き飛ばす。不意を突かれて踏み止《とど》まりも出来ず、したたかに尻《しり》をぶつけ無様に壁《かべ》に背中を打ち付ける。足腰《あしこし》の痙攣《けいれん》に顔をしかめ、空気《くうき》の塊《かたまり》を吐《は》き出しながら、マユを見上げる。 「道具使わずに死んじゃわせるのは時間かかるから、少し待ってて」  夕食の出来上がりを待たせる時のように、何てことない調子で宣言するマユ。 「それと」と前置きして、空洞《くうどう》の出来た。右|腕《うで》を僕に見せつける。 「右手、こんなのになっちゃったから。みーくんにご飯作るの、もう出来ないかも」  ごめんねって。  マユは、妹の顔面を踏みにじりながら、儚《はかな》げに微笑《ほほえ》んだ。  そして、「だから」って、続いて。 「こいつを死んじゃわせても、一緒《いっしょ》に刑務所《けいむしょ》入れるね」 「おっ……」おいおい。  ひょっとして、その右手は確信犯か?  人殺しの許可を僕から得るための、免罪符《めんざいふ》として。  ……違《ちが》うだろ。  そうじゃないだろ。 「それじゃ、駄目だよ」  立ち上がらなければいけないのに、終わらせなければいけないのに。  マユを病院に連れていかないと駄目なのに、妹と無理にでも話し合わないといけないのに。  そんなこと否定してる場合じゃないのに。 「何で?」  それに応じるマユの足まで止めてしまう始末。僕はそこまでして何を言いたいんだろう。  嘘《うそ》だけど。  懊悩《おうのう》するふりしなくても、十二分に理解している。  蔑《さげす》まれるほど簡潔に組み直した、自分のことだから。  僕が認めなければいけないもの。  人である為《ため》とか、おこがましいことじゃなくて。  もっと元始に、根本に。  今のままでいい。  今のままでも良い。  何も足さず何も引かず、大人になる素養を失って子供であった過去をなくして空洞《くうどう》で価値なんか何もなくて曖昧《あいまい》にただ生きることしか出来なかったとしても、  認めるから。  作り物だったけど、  嘘も本当も関係ないものが、この部屋に少しだけあったことを。 「それじゃあ、」  もう壊《こわ》れたくない。  何も壊されたくない。  自分が限界に位置してることを理解してるから。  妹がマユに殺されれば僕はどうしようもなく壊れるし、  マユが妹に殺されれば、何もかもが壊死《えし》するに決まってるから。 「自転車、乗れないし。祭りに行けないし、瓶《びん》は一杯に埋《う》まらないし、」  せめて自転車に乗るまで。  せめて夏になるまで。  せめて、どちらかが死ぬまで。 「それに、何より、」  喉《のど》が詰《つ》まる。頬《ほお》が熱くなる吐《は》き気《け》がする、鳥肌《とりはだ》が囀《さえず》る。  けれど、僕は、 「みーくんがまーちゃんを××すること、本当に、出来なくなるんだ」  僕にはまだ失うものが、ありすぎる。  僕がぼくでなく、ぼくが僕でありながら、  僕がぼくを失わない為に。  マユは、瞬《まばた》きを増加させる。発言の内容ではなく、僕の顔に着目している。何がそんなに物珍《ものめずら》しいのか。こんな顔の、何が。  何を驚《おどろ》いてる? 目を丸くしてる?  何で、こんな状況《じょうきょう》で口が笑う?  困惑《こんわく》する僕を更《さらも》に弄《てあそ》ぼうと、脈絡《みゃくらく》のない台詞《せりふ》を、マユが口ずさんだ。 「電話」 「えっ?」でんわ? 「携帯《けいたい》電話持ってきて。わたしの、鞄《かばん》の近くに置いてあるから」 「何を、」そこで、視界に収まっている何かが蠢《うごめ》いて、 「カメラで、今のみーくんのな」マユが、ずれた。  マユの足を両手で掴《つか》み、死《し》に物狂《ものぐる》いで引き倒《たお》す妹。  自転車のように横転するマユに、形相《ぎょうそう》を狂わせてしまった妹が乗りかかる。  塊《かたまり》の鼻血に、充血《じゅうけつ》した眼球と、血の混じった泡《あわ》を吹き出して。  妹の手には、真新しいナイフ。  当然、振《ふ》り下ろされる。  無論、突《つ》き刺《さ》さる。  マユが限界まで身体をずらして、貫《つらぬ》かれたのは首でなく左|肩《かた》だった。マユはそれでも呻《うめ》かず、ナイフが引き抜《ぬ》かれた瞬間《しゅんかん》に、左|腕《うで》を引っかかりなく天井《てんじょう》へ伸《の》ばした。  ナイフを握《にぎ》りしめる妹の手に覆《おお》い被《かぶ》せて、再度の振り下ろしを阻止《そし》する。けれど全体重をかける妹の力に対して、それは悪足掻《わるあが》きにしか過ぎない。  だというのにマユは流血に髪《かみ》を浸《ひた》しながら、妹も、ナイフさえも目で追わず、  僕を、見つめてきた。  どうしよう、って。  約束の是非《ぜひ》を目で、問いかけてきた。  ベッドで仰向《あおむ》けになったまま、反転した世界で僕を出迎《むか》える時のように。  普段《ふだん》そのもので、気負わずに。  マユの死《し》に体《たい》の右手には、仕舞《しま》ってあったナイフが掴《つか》まれていて、  妹はそんなものに目もくれず、必死で歯を食いしばり、  その脇腹《わきばら》は隙《すき》だらけで、誰《だれ》にでも、僕にだって刺せてしまえる。  だから僕が一声かければマユは妹を殺し、  このままだと瞬《まばた》きを三回する時間もなくマユは妹に殺される。  マユがその采配《さいがい》を僕に振《ふ》ってきた。  あの、マユが。  答えは一つじゃない。  だけど一つしか選べない。  僕はその答えを、早急《さっきゅう》に選び取らなければいけない。  どちらを選んでも壊《こわ》れるのに。  選べる時点で壊れているのに。  僕は、何も、覚悟《かくご》さえないまま、 「                 」  僕は何かを叫《さけ》んだ。  僕は何かを否定し肯定《こうてい》し、張り裂《さ》ける悲鳴を振《ふ》り絞《しぼ》った。  僕は彼女に、  死ねと、命じた。     そしてそれに呼応して                  ナイフ  が      彼女に つ き さ さ [#改ページ]  五章『ぼくマユ』 [#ここから3字下げ]  冷蔵庫を開けてみる。  バットに流し込んだチョコレートを指で突いて、硬さを確かめる。  ……うん、もう大丈夫。  チョコレートを取り出して、みーくんにこれを渡す日を想像する。  ……うわぁ。涙、いっぱい出ちゃった。  チョコレートに数滴落ちたやつを、指で拭き取る。  後はラッピングして、ちゃんと仕舞っておくだけ。  みーくんに、早く渡したいなー。  みーくん、まだかなー。 [#ここで字下げ終わり]  思ったほど、線香《せんこう》の香《かお》りは漂《ただよ》っていなかった。  葬儀《そうぎ》への参列を、半ば強制された学生達の頭部がざわめき、さざめく。学生服は喪服《もふく》に適した黒ではなく、全校集会の為《ため》に体育館へ向かう際の様相だった。  招かれた学生は同級生でも、同クラス限定。如何《いか》に形式的な葬式を行っているかが浮《う》き彫《ば》りになる。むしろ平日に、授業を公欠しているという普段《ふだん》とは異質な状況《じょうきょう》に心の高鳴りを覚える生徒もいるわけで、擬似《ぎじ》的な遠足気分さえ蔓延《まんえん》しているといっても過言じゃない。  何とも、学生らしい葬式だった。同身分たる僕にそれを否定する気概《きがい》はない。  広間に、僕の入る順番が回ってきた。午後からの予定を談笑する二人組とすれ違《ちが》いながら室内に入る。  部屋の隅《すみ》で、彼女の死体は棺《ひつぎ》にかっちりと嵌《はま》り込んでいる。抜《ぬ》け出すことは出来ないだろう。  飾《かざ》られた写真の中で彼女は微笑《ほほえ》んでいた。生前、知己《ちき》だった者としては、大変いかがわしいと言わざるを得ない。嘘《うそ》だけど。  手を合わせて拝み、一言だけ伝えてから部屋を出た。  玄関《げんかん》で脱《ぬ》いだ靴《くつ》を探すのに、少し苦労した。  後続の生徒に足場として使用され、下地が白で模様が鼠色《ねずみいろ》となった靴を履《は》き、葬儀会場を退出した。外は、夏季《かき》なら入道雲がひしめくような快晴で、空の位置が高い。しかし、風は未《いま》だ冬季のようで、海のある地方なら鯨《くじら》がくしゃみで空を飛んでしまいそうな日だった。  塀《へい》に沿って裏手に回る。一台の自転車が駐車《ちゅうしゃ》禁止の道路の脇《わき》に、無事|慎《つつ》ましく停車していた。主人ではなく、その従者|如《ごと》きの帰りですら不動に待ち続ける仕事姿勢は、フレームの彼岸花《ひがんばな》模様と『乙女《おとめ》ティック』の入《い》れ墨《ずみ》に恥《は》じない。大体|嘘《うそ》だけど。  鍵《かぎ》を外し、跨《またが》る。地面を蹴《け》って方向を修正しながら、次の目的地への車輪の音色に聞き入る。  別クラスの異端者《いたんしゃ》は、ここらで退場を決め込もう。  一宮河名《いちみやかわな》の葬儀会場から、緩慢《かんまん》に遠ざかっていく。  一宮河名の撲殺《ぼくさつ》死体は、宗田義人《そうだよしひと》の殺害現場と重なる位置で発見された。それは偶然《ぐうぜん》ではなく、犯人、枇杷島八事《びわしまやごと》が一宮を発見、殺害して死体に進化させた後引きずって指定の場所まで運んだことによる人為《じんい》の状態だった。その動機は、『世界を二カ所も血で汚《よご》す必要はないから』だそうだ。その主義主張の一貫性《いっかんせい》は、一歩|踏《ふ》み外さなければ新興宗教の教祖を有能に務め上げることが出来たろうに、と将来への惜《お》しみを禁じ得ない。嘘《うそ》だけど。  そんな枇杷島八事《びわしまやごと》は既に殺人容疑で逮捕された。手錠をかけたのは、またも上社奈月《かみやしろなつき》さん。今回は殺人|寸止《すんど》め空手《からて》で、悪人一名をちぎっては投げちぎっては投げの大活耀《だいかつやく》と報じられた。  鬼《おに》の所行《しょぎょう》であると言わざるを得ない。  殺人街にはこの人あり、と祭り上げられている奈月さんは、心底|迷惑《めいわく》なのか昨日のデートでの出会い頭、笑顔《えがお》で朗《ほが》らかな会話を始めながら、僕の耳を引っ張ってきた。「いいですか、今度からはすぐに警察を頼《たよ》って下さい。みーさん自身が危ないんですから』ここまではいい人を演じてた。けどその後、食事代を全《すべ》て奢《おご》らされた。もうじき昼食、半ば昼食、心残り昼食に三時のおやつと土産物《みやげもの》まで支払《しはら》わされ、健全に高いデート代だった。足りない分は奈月さんから借金して支払った。流石《さすが》に羽振りの良い大人は快く無担保《むたんぽ》で金を貸し出すなぁと奈月さんの太っ腹を賞賛してはみたが、何か前提から破綻《はたん》している気がした。計二千九百四十円の借受金《かりうけきん》は、次回に返済予定だ。あればの話だが。  その邂逅《かいこう》の際、枇杷島の動機を奈月さんの口から伝え聞いた。 『二股《ふたまた》?』 『義人《よしひと》君にかけられていたそうです。それも自身から本命がいることを了承《りょうしょう》しながら告白して志願したうえで、日陰《ひかげ》の女を演じていたそうで。私と同じく薄幸《はっこう》の少女ですね』 『発酵《はっこう》ですか。さぞ粘《ねば》り強く接して、堪《た》え忍《しの》んできたんでしょうね』 『ええ、全く。みーさんも小指から糸が出てますけど、藁《わら》で包まれたりしたんですか?』  などと話し、 『みーさんはね、二股なんて平気な奴《やつ》だったんですよ。河名《かわな》を怖《こわ》がりながら、それでも私の提案をいいよって爽《さわ》やかに、一片たりとも悪意のない笑顔で受け入れちゃうような性格なんです、みーさんは。ま、そんなことを望んだ当時の私も馬鹿《ばか》だったんですけどね。それで、びくびくと日陰で交際し出してから一年ほど経《た》って、河名がなんか相談してきたんですよ。みーさんと男女の営《いとな》みをもっと円滑《えんかつ》にする方法だとかどうだか。そんなの私に頬染《ほおそ》めて聞くなんて馬鹿かこいつってまず呆《あき》れました。けどなんか、そういうことしてるんだって知ったら頭の何かが捻《ひね》られちゃって、水道の蛇口《じゃくち》っていうか、感情がだばだばになって……私の世界が、もっと窮屈《きゅうくつ》に感じるようになって。水位が上がりすぎて、口元を覆《おお》い出した気がしました。犬や猫《ねこ》を殺したのは、殺人の練習のつもりだったんです。みーさんを殺す為《ため》の。けど段々、木刀で叩《たた》く時の手の平に伝わる触感《しょっかん》とかねろねろと湧《わ》き出る血の色とか、そういう五感の伝達が半分ぐらいしか伝わらずに頭がぼやけてきて、それが日課になりかけてたんですけど。別にみーさんを殺そうっていう日取りは決めてなかったんです、でも二月十四日、チョコレートを受け取って貰《もら》えなかったから、つい。咄嵯《とっさ》に、仕方なく。以上、自白のまとめに、感情部分を独自に脚色《きゃくしょく》しての朗読《ろうどく》でした。みーさんの部分を宗田《そうだ》君に入れ替《か》えてお楽しみ下さい』  どんな二度手間だ。後、河名をマユに変換《へんかん》しても可だぞ。嘘《うそ》だけど。  それにしても枇杷島《びわしま》め、僕には何一つ素直《すなお》さを表さなかったくせに、警察では殊勝《しゅしょう》な態度だな。  警察より僕が嫌《きら》いで忌避《きひ》すべきものだったんだろう、と納得《なっとく》したけど。或《ある》いは単に、同性に愚痴《ぐち》を零《こぼ》したかっただけか。電波系の世界理論は、僕に話を合わせてくれただけかも知れない。  まあ、動機が複数あっても不都合はないんだけどさ。価値観と感情、両方にそぐわなかったのが恋した宗田義人《そうだよしひと》と親友の一宮河名《いちみやかわな》だったに過ぎないわけだ。  関係を言葉で言い表しても結局、決定権は心にしかないからな。  それと、僕が事件を途中《とちゅう》退場してからその後を奈月《なつき》さんから伝え聞いた。 『例えばの話なのですが』 『例えばそのエビフライ定食を割《わ》り勘《かん》にすれば、みーさんの年上を敬う確率がどれだけ上がるかという話ですか』 『いいえ、みーさんの子供なら産《う》んでもいいのか? という深遠な命題です』 『………………………………………あ、すいませんグレープジュースが鼻から……水お代わり』  などというやり取りもあったが、それはまた別のお話。  あの日、僕がマユと妹の下《もと》へひた走り出してから数分後、一宮は枇杷島と遭遇《そうぐう》したらしい。そして枇杷島は、正々堂々に背後から不意打ちで木刀を振《ふ》り回し、一宮を二人目の犠牲者《ぎせいしゃ》とした。これで今回の事件は、犬猫人《いぬねこひと》の畜生粉砕《ちくしょうふんさい》殺人事件から、バカップル変死体の夜明けに題名改変を余儀《よぎ》なくされたのである。ちっとも真じゃないけど、僕が枇杷島を放棄《ほうき》しなかったら一宮は助かったわけで、運命と巡《めぐ》り合わせは残酷《ざんこく》なものである、と責任|転嫁《てんか》した。だから葬儀《そうぎ》の場で一宮にかけた言葉は、あれで正しかったのか疑問が残っていた。  どうせ通報されれば終了《しゅうりょう》なのだから、最後に一掃除《ひとそうじ》しようと思い立った、とは枇杷島の供述。発《た》つ時は居場所を使う前より綺麗《きれい》にする美化委員の鑑《かがみ》だった。嘘《うそ》だけど。  そして僕の電話を受けて、警察が枇杷島を確保することで今回の事件は円満解決を迎《むか》えた。枇杷島は一宮の死体を破壊《はかい》する真っ最中に取り押さえられ、抵抗《ていこう》はなかったが『せんぱいもケチだなぁ、後五分待ってくださいよ』と愚痴《ぐち》ったそうだ。今なら自信を掲《かか》げて反論できるが、僕は守銭奴《しゅせんど》ではない。妙齢《みょうれい》の女性との食事代に樋口一葉《ひぐちいちよう》を注《つ》ぎ込む、田舎《いなか》の女子高生が提唱した正しい男女交際を実践《じっせん》する僕を、あろうことか『経済的には些《いささ》か不安ですが』と評するとは。あ、これは奈月さんの台詞《せりふ》だった。 「……うーむ」  考え事に加え、車輪の演奏も飽《あ》いてきた。信号待ちのない道を疾走《しっそう》しているから、一回休みのマスも見当たらない。財布《さいふ》が十代の日常ぐらい空虚《くうきょ》だからきっちゃてんでレモンチーする資格もない。生き血を啜《すす》る生《い》き甲斐《がい》もなく、喉《のど》の渇《かわ》きが潤《うるお》されるのは当分後回しになりそうだった。 「………………………………………」  口を開くと風に水を干されるかと思い、噤《つぐ》む。瞼《まぶた》も閉じて防護を強固にしたかったけど、事故で流血しては水分の節制の本末転倒《ほんまつてんとう》なので、自粛《じしゅく》した。  退屈《たいくつ》だ。  木刀を帯刀《たいとう》した女子高生に追いかけ回されることも、金属バットの復讐《ふくしゅう》バカップルに強引な取り調べをされることも、包丁を常備して駆ける妹に蹴《け》られることもない街のサイクリングは平和で、暇《ひま》を持て余す。  市民病院までは、まだ還い。 「おー、みーぎゅー」 「うむうむ、まーぢゃーも元気そうだね」と出っ歯をカクテル光線に輝《かがや》かせた。嘘《うそ》だけど。  三ヶ月前の日々が巻き戻《もど》されたように、同病院の同じ個室でマユが寝転《ねころ》んでいる光景がそこにはあった。  暖色の色彩《しきさい》や、暖房の過剰《かじょう》な効き方、部屋の外の名札。どれも依然《いぜん》変わりなく、入院|患者《かんじゃ》の包帯の出張《でば》っている位置だけが異なっていた。  包帯に巻かれた右腕《うで》は肩《かた》で吊《つ》ってあり、左の肩も手厚く保護されている。現在は両腕を安静にして使用禁止のお達《たっ》しが出て、マユはご立腹にご機嫌斜《きげんなな》めで怒髪天《どはつてん》だ、些《いささ》か誇張《こちょう》に過ぎたが、一つぐらいは該当《がいとう》しているものと思って頂きたい。  僕がベッドに、半ば寝転びながら座り込む。そうするとマユが足の間に尻《しり》を下ろし、身体《からだ》を預けてくる。正面から臆面《おくめん》もなく抱《だ》き合うのがバカップルの本道なんだけど、今はやむを得ず次点の抱きしめに甘んじるほかない。嘘《うそ》だけど。  それにしても、マユが僕より小柄《こがら》で僥倖《ぎょうこう》だった。覆《おお》い被《かぶ》さられるほどの体格差があったら、鳥肌《とりはだ》が過労死するところだった。 「にゃ? 線香《せんこう》の香《かお》りがする」  マユが鼻をひくつかせて僕の匂《にお》いを嗅《か》ぎ分ける。それから、唇《くちびる》を尖《とが》らせる。 「まーちゃんとこに来るまでに、何処《どこ》寄ってたの」  詰問《きつもん》される。まさか葬儀場《そうぎじょう》で未亡人と浮気《うわき》してたとか疑ってるのかこの子。 「ちょいと葬式饅頭《そうしきまんじゅう》を摘《つま》みに」自分で口から出しといて恐縮《きょうしゅく》だが、どんな言い訳だ。 「んもー、まーちゃんに一番に会いに来るの! 道草しないの!」  後頭部を僕の胸に打ち付け、不実を叱《しか》るマユ。 「みーくんも入院すればいいのに」  膨《ふく》れ面《つら》のまま、ぼそっと、マユが第一希望を呟《つぶや》く。警報が発令したので室内の花瓶《かびん》の有無《うむ》を早急《さっきゅう》に探索《たんさく》したが、発見には至らなかった。 「明日退院しよっかなー」  足をばたばたと上下に暴れさせ、僕の顔色を窺《うかが》ってくる。勿論《もちろん》「駄目《だめ》だよ」 「もきゃー!」マユの踵《かかと》が僕の足首に直撃《ちょくげき》した。 「治さないとまーちゃん自身が不便でしょ」 「ぜーんぜん。みーくんいるもんねー」  胸に頬《ほお》をすり寄せてくる。上目遣《うわめづか》いで甘えてくる。 「ねー、ほらー」と笑顔《えがお》で僕を籠絡《ろうらく》にかかるマユ。僕の口は既《すで》に『それもそうだな』を生産する態勢は整っている。しかし、工場長たる脊髄《せきずい》の許可が下りない、  ……うん、そうだな。  マユの頭に手の平を載《の》せる。柔《やわ》く、髪型《かみがた》を崩《くず》さないよう。 「もう少し、ここで休もう。うん、決めた」 「まーちゃんのことなのに爽《さわ》やかに決めんなー!」  ベッドのスプリングが軋《きし》むほど、尻《しり》で飛び跳《は》ねるマユ。院内では朝寝《あさね》と昼寝と夜寝しか退屈《たいくつ》を紛《まぎ》らわせられない為《ため》、体力が有り余っているようだ。普段《ふだん》と同じ気もするが。  いい汗《あせ》かいたマユの額を拭《ふ》きながら、僕は一つ、これからの予定を告げた。 「僕も、料理を勉強しようかな」  マユが「んゆ?」と僕を見上げ、瞬《まばた》きをする。 「ほほー、みーくんが……でもまーちゃんが自転車乗れるようになる方が早いかなー」  子供っぽく負けん気を発揮《はっき》して、「にゅひっ」と不敵《ふてき》に笑うマユ。 「林檎《りんご》で雪だるまも作れないみーくんに、まーちゃん負けないもんね」  君、今度の進路相談で錬金術師《れんきんじゅつし》なんてどうだい? 「……まあ、お互《たが》い、」  色々と、遠いけど、 「諦《あきら》めない程度に頑張《がんば》ろうか」  僕のそんな言葉に、マユはにへっとだらしなく微笑《ほほえ》む。 「んー、みーくんっぽい台詞《せりふ》ですな」 「そう?」 「後ろ向きに明るい感じが格別ですな」 「いやー、まーちゃんに褒《ほ》められると感動も一入《ひとしお》だね」 「きゅー」「きゃーきゃー」  生きる実感って、こういうのだよねっ。個室で良かったと手の汗《あせ》を握《にぎ》りしめるこの瞬間《しゅんかん》ね。  今の姿を知人や神様に覗《のぞ》き見されていたら、死を免《まぬか》れない。相手か僕、どちらかの。  ……生きてる、か。  たくさんの人が僕の目の前で殺された。寿命《じゅみょう》や病気で死に伏《ふ》せた人は一人としていない。  しかし、振《ふ》り返れば。  彼ら彼女らが死ななければ、僕は生きることさえ出来なかった。  生の礎《いしずえ》は死だから。  過剰《かじょう》供給の結果として、こんな奴《やつ》になってしまったけど。……いや、違《ちが》うか。まだ一応、過去形じゃないか。天井《てんじょう》を見上げる。  ですよね、先生。 「……何だか、故人《こじん》を偲《しの》んで空を仰《あお》いでいるようになってしまった」 「にゃぎ?」「何でもないよ、まーちゃん先生」  マユが微妙《びみょう》に悶《もだ》えた。ふむ。「……美人女教師」「きゃふ」「アダルト保健医」「のふのふ」「システマティック保母さん」「むー」「サラリーマン熟女《じゅくじょ》」「にぎゃー!」  何とも愉快《ゆかい》痛快な子である。僕は明らかにどうかしているが。  ……今回の殺人事件。  ただ、人が一方の都合に基づき殺されたという出来事。  そんな騒《さわ》ぎに関《かか》わって、血生臭《ちなまぐさ》くない収穫《しゅうかく》があった。  自分の欠けた部分が少しだけ理解できて、楽にはなった。  蜥蜴《とかげ》の尻尾《しっぽ》でも海鼠《なまこ》の腸《はらわた》でもないわけで、再生することは絶対に叶《かな》わないけれど。  それでも、多少生きやすくはなった。  合わせやすくなったのだ。  世界の何処《どこ》に入り込む余地があるのか。  何処に諦念《ていねん》すればいいのか。  身の丈《たけ》を再確認《かくにん》して、相応に生きる術《すべ》を得た。  詩人に例えるなら……バラバラだった心の欠片《かけら》をちり取りに集めたってところか。何だか部活で割れた窓硝子《まどがらす》の掃除《そうじ》を嫌々《いやいや》する学生みたいで、垢抜《あかぬ》けてないというか、泥臭《どろくさ》いというか。  まあいいや。後は捨てないように、自身を見張っておこう。  マユが腕《うで》の中で反転し、顔を凝視《ぎょうし》してくる。 「この前はいいもの見れた」  この前……ああ、妹の一件か。  寝室《しんしつ》の血痕《けっこん》や血臭《けっしゅう》とか、その他|諸々《もろもろ》の後始末に労力を割《さ》いた事件。  僕が珍《めずら》しく、最後に嘘《うそ》を吐《つ》かなかったのに思いがけない結末を迎《むか》えてしまった、あの出来事。 「ら抜《ぬ》き言葉はオヂサン感心しないなぁ……で、良い物って、地元の海とか?」 「後は笑えばこんぷりーとなのです」 「……? ん、えーと、頑張《がんば》って?」 「うむ、がんばる」と、使用を制限されている左手の中指と人差し指をチョキにする。  大変嫌な予感がした。 「ひっさつ、ざくっ」「ざぎゃ」  グーを出す暇《ひま》もなく目潰《めつぶ》しされた。それはもう、疾《はや》きこと風の如《ごと》く。  相手がマユじゃなかったら方言で罵倒《ばとう》して畏怖《いふ》を与《あた》える、この激痛。海老《えび》ぞりが恋しくなるほど悶《もだ》えたい。爪《つめ》を額に刺《さ》して堪《た》え忍《しの》ぶ。 「習慣づけることも大事なのです」 「……さっぱり分からん」  前も朧気《おぼろげ》にしか見えん。  何て先行き不安な僕らなんだろう。  ……あ、そういえば。  妹の墓参り、どうしたものかな。  彼らが彼女らが殺されたから、僕はここにいる。  願わくはいつか、その死の礎《いしずえ》となる生に至りますように。 [#改丁] [#ここから3字下げ]  あとがき [#ここで字下げ終わり]  今年一年を振《ふ》り返ってみて。 ・編集部に初めて伺《うかが》った日、新幹線の遅延《ちえん》事故発生。約束の時刻から三時間遅刻する。 ・左《ひだり》さんに初めてお会いした際、普通《ふつう》にサイン色紙を持参する。結果、見事サイン獲得《かくとく》。 ・打ち合わせで編集部に向かう際、四度目は迷わなかったが五度目でお茶の水の迷子となる。 ・電撃文庫《でんげきぶんこ》のホームページにあるエッセイコーナーで、筆名を人間入間《ひとまいるま》と載《の》せられる。  というわけで、心がスペランカーな少年と少女のお話、第三巻でした。  結婚式の引き出物とかにどうぞ。流石《さすが》に責任持てませんが。  この本はいつの間にかシリーズ物となりましたので、一巻を読まないと若干《じゃっかん》内容を理解することが困難ですので購入《こうにゅう》を控《ひか》えめにお薦《すす》めしますが、別に二巻は読まなくても何とかなってしまいます。ですが奇数《きすう》マニアの方以外は気に入って頂けましたなら二巻も購入して下さると大変喜びます。赤の他人が喜んだからどうだって言うんだとか、細かく考えて頂かないと一層《いっそう》幸いです。  以上、本巻だけ棚《たな》に収めている方への宣伝でした。  今回も本書の作製に尽力《じんりょく》してくださった編集のお二人に厚い御礼《おれい》を申し上げます。今となっては足を向けて寝《ね》られません。取《と》り敢《あ》えず、東に足の裏を向けないようにしてます。  それから、イラスト担当|兼《けん》売り上げ担当ともいえる左様。編集さんを通じて送って頂ける挿絵《さしえ》や表紙を見たいが為《ため》に作品を完成させようと気張る場面もあったりします。もはや馬の眼前にちらつかせる人参《にんじん》となっています、どんどん釣《つ》り下げてください。  その他にも、本のデザイナー様。『仕事しろ』がすっかり口癖となった両親。執筆《しっぴつ》中の独《ひと》り言《ごと》について言及《げんきゅう》せず働く寡黙《かもく》なパソコン。感謝すべき対象は幾《いく》らでもあることを、今更《いまさら》のよう に有り難がっています。ありがとうございました。  打ち切られてなければ、次回は何処《どこ》かに閉じこめられてみる予定です。  御買い上げ、真《まこと》にありがとうございました(と立ち読みや借りた方に圧力をかけてみる)。 [#地付き]入間人間《いるまひとま》 [#改ページ] 底本:電撃文庫「嘘《うそ》つきみーくんと壊《こわ》れたまーちゃん3 死の礎は生 (株)メディアワークス 発行二〇〇七年十二月二十五日初版発行